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はるあらし  作者: 雨咲はな
本編
38/45

38.分かれ道



「……もともと、兄はそういうことに向いた性格ではなかったんです」

 ハルさんはゆるりとした口調で言い継いだが、おれはすぐには返事が出来なかった。何かを言わないとと思うのに、喉の中に綿が詰め込まれているみたいで、声がその先へと出てくれない。

 目の前には、まっすぐに立ったハルさん。なのに、おれと彼女との間には、誰にも見えない薄い膜がかかっているような気がする。妙に現実感乏しく、景色の一部のようにハルさんを見ている自分がいるのに、頭の中はがんがんと痛んで、そこだけ激しくこれは紛れもない現実なんだと主張しているようだった。

 美しい夢の時間は終わりを告げた。次にやって来るのは、容赦のない、厳しい現実だ。

「──そういう、ことって」

「社長業に」

 強引に言葉を押し出したおれに、ハルさんは目を細めて微笑んだ。

「あの通り、良くいえば人の好い、悪くいえば小心な性格の兄には、父が倒れてからその代理を務めるだけでも大変でしたでしょう。いいえ、あの期間があって、かえって本人は決心を固めたようです。──自分には、無理だと」

「……無理」

「たとえば、取引を減らす、そのひとつにしても、兄には決定を下すことが出来ません。どうしても、その後ろにある企業のこと、そこで働いている人々のこと、それら諸々を考えて、判を押すことを迷ってためらってしまう。優しいんです、兄は。昔から、とても心根の優しい性格で、少しでも他人を傷つけることが出来ない。それは尊い性質だと思いますし、妹の立場から見ると、大変に愛すべき人物なのですけど」

 ハルさんはそっと目を伏せた。

「──でも、それでは、会社は成り立ちません」

 ひとつの会社に連なる、膨大な数の企業と人。それらすべてを守っていければ理想だが、残念ながらそんなことは不可能だ。

 社員が最も望むもの、それは誰に対しても心優しい、慈悲に満ちた存在などではない。なによりも、「自分たち」を必ず守ってくれるもの、なのだ。他には非情になっても自社を優先させる判断が出来なければ、人はついてこないし、信頼も得られない。自らの将来を託しているのだから、当然のことだ。

 優しさだけでは、ひとつの会社を引っ張ってはいけない。

 極論を言うのなら、トップとしての責任を負うということは、自分の会社と社員を守るために、それ以外のものを切り捨てる覚悟を持つということでもある。

 響氏は、それは無理だと言うのか。

「それでもせめて、もっと時間があれば、もっとたくさんの経験を積めば、兄も多少は割り切ることも出来たのかもしれません」

 せめて、あと五年か十年はあったのなら。

 けれど、彼にはその時間がなかった。ゆっくりと経験を積んで、心構えを作り、足場を固めるような余裕もなかった。

 父親が、前触れもなくいきなり倒れて、あっという間に亡くなってしまったから。

「父の入院の間、周りの人たちに迷惑をかけながら、なんとか代理をこなして、それが自分の限界だと悟ったと、兄は申しました。これまでの様子を見ていた重役の方々も、ほとんど同意見でした。父の指示の通りに動くのならともかく、兄だけでこの会社を背負っていくのは無理だろうと。もちろん、このまま跡を継いで、時間をかけてゆっくり勉強していけばいいと言ってくださった方も何人もいましたが、そこまで悠長に社長を育てていくゆとりは、あの会社にはございません。いつか重役同士の対立に発展して、争いが起きるだろうことが目に見えておりました。上のほうが揺らいでいては、下のほうはもっと揺らぐ。あちこちに綻びが出て、これまで培ってきた信頼も失墜する。そんな危うげな人事を、桜庭も許しはしないでしょう。兄も悩んで悩んで、でも最後には、自分が退くことが、いちばん会社を守ることになると結論を出したんです」


 僕が社長になったら、きっと間違いなく、あの会社を潰してしまう。

 お祖父さんとお父さんが愛して守って、手塩にかけて育てた会社を、僕が殺してしまう。

 それは出来ない。それだけは出来ない。

 努力でどうにかなることならいくらだって努力をするけれど、こればっかりはどうしても向き不向きがあって、僕には向いていないと痛感した。

 僕は、社長にはなれない。


 響氏は、そう言って、ハルさんと母親に手をついて謝ったのだそうだ。ごめん、ごめん、と何度も頭を下げて、泣いたという。

 祖父と父が築いた会社を守るのが自分には不適格、という判断を下すのは、それだけでもつらかったはずだ。響氏にとっては、自分のことよりも、会社を問題なく存続させることを念頭に置いて出した答えだったのだろう。

 祖父が作り上げ、父が大きくした菊里商事。響氏が継ぐことが出来なくても、あの会社を手放さずに済む道を、誰もが考えたに違いない。

 容易に思いつくのは、ひとつ。

「菊里には、他にこれといった親類がおりません。兄が継がないのなら、残るは母か、私しかないということになります」

 普通に考えたらそうなる。代表者が急逝して、妻が代わりにその座につくというのはよくある話だ。しかし、響氏に輪をかけて弱そうな、あの母親には無理だろう。

 となると──


「……私がどなたかと結婚して、配偶者に養子に入ってもらうこと、ですね」


 おれの考えを見透かしたように、ハルさんが続けた。

「実を申しますと、父が健在であった頃から、そういった話はちらほらと持ち上がっておりました。兄は前々から、自分はその器ではない、ということを口にしておりましたし、跡継ぎの座というものにもまったく執着しておりませんでしたから。いいえ、出来ることなら、誰かに丸投げしてしまいたいとさえ、思っていたかもしれません。ハルの結婚相手は、しっかりした男の人だったらいいね、なんて、冗談交じりによく言っておりましたが、かなり本音も入っていたのだと思います。父が倒れてからはもう、周囲の目には、あからさまにそちらの方面での期待が見えておりました」

 それはたとえば、菊里商事に在籍する、将来有望な人材であったり、重役の息子であったり。

 ハルさんと結婚すれば、ほぼ自動的に会社社長の椅子が約束される。周囲の勧めも、さぞ熱がこもっていたのだろう。

 ……ハルさんは、何を思って、その話を聞いていたんだろう。

「それが出来れば、いちばんいいのだろうな、とは、私も理解しておりました」

 父が愛した会社を、ハルさんも同じく愛していた。父親を支え、助けたいと願った子供の頃の誓いは、今もまだ彼女の中にしっかりと居座っている。それはつまり、菊里商事という会社を守っていきたいという願いにも通じる。

「でも」

 ハルさんは顔を上げ、おれと目を合わせた。

「──でも、無理でした」

「…………」

 おれは拳を強く握る。

「どうしても、無理でした。私も兄と同じ、身勝手で、甘ったれで、弱い人間です。会社を継いでもらうために、どなたか適当な方を見繕って結婚する、ということが、どうしても出来ませんでした。ずっと前から、そうなるのかな、なんて漠然と考えていて、それなりに覚悟を決めておかないとと思っていたんですけど、いざとなったら全然、駄目でした」

 そう言って、ちょっとだけ空を見上げた。夕日の赤が、徐々に薄闇に浸食されようとしている。彼女の姿までが、その闇に溶けてなくなってしまいそうで、おれは今にも踏み出していきそうになる自分の足を、必死の思いで止めた。

 ハルさんが、そんなおれを見て、やわらかく目を細める。


「だって、その話が現実味を帯びてきた時にはもう、私には好きな人がいましたから」


 薄っすらと頬を染め、にっこり笑った。

 風に触れて、耳のピアスがふわりと揺れる。まるで、白い花びらが舞っているかのようだ。儚く、美しく。

「真面目で、健全で、まっすぐな人。思いやりを、ちゃんと実行に移せる誠実さのある人。たくさんのことをしなやかに受け入れてしまえる度量の広い人。他人の気持ちに添うことのできる、温かい心がある人」

 とても──と、ゆっくり言って、目を閉じた。

「とても、優しい人」

 それからまた大きな瞳をこちらに向けて、ふふ、と笑った。

「……どうして、何も言わなかったんですか」

 おれの声は、自分でも驚くくらいに低かった。表情が強張るのが、どうしても抑えきれない。

 まるで過去に戻ったみたいだ。以前、深雪に言われた言葉を、今度はおれがハルさんに対してぶつけている。責めているつもりではなかったけれど、その答えを聞かなければ気が済まなかった。

 それに、おれにはそれを問う権利があるはず。

 ……どうして、今まで、何も言ってくれなかった?

「ごめんなさい」

 ハルさんは謝ってから、笑みを引っ込め、真面目な顔つきになった。

「すべてを打ち明けていたら、哲秋さんはどうされましたか」

 その反問に、おれはやや狼狽した。どうって──


 響氏は菊里商事の後継の座には就かない。

 それを知った上で、ハルさんの気持ちを聞いていたら。

 ……その時、おれは、どんな結論を出しただろう。


「哲秋さんはきっと、私と菊里商事を救う手立てを考えてくださるでしょう。自分の人生を脇に追いやって」

「…………」

 常識的には、まったく畑違いの会社に勤めていた人間が、いきなり業種の異なる会社のトップに据えられるわけがない。それがたとえ、社長の長女の配偶者という立場であったとしても。

 でも。

 ──それが、「桜庭の息子」であるなら、話は別だ。

 菊里商事の人間は、誰一人として反対しないだろう。むしろ、諸手を挙げて賛成してくれるかもしれない。この場合、桜庭の血縁というだけで、大きな後ろ盾になるからだ。本人の能力など二の次にしても、そちらから得るメリットのほうがよほど大きいと考える。

 おれ自身より、必要とされるのは、桜庭の名前。それが判っていても、それでも。

「きっと、すべてを承知で、私に向かって手を差し出そうとされるでしょう。まったく無関係で未知の分野の会社を救うために、好きだと仰っていた、今のお仕事を辞めても。あれほど後ろに負うのを避けていた桜庭の名前を前に出しても」

 そうか、兄が警戒していたのはそれだ。

 菊里商事という会社の、本来の跡継ぎたる長男に、その資質がなさそうなこと、重役たちの意見なども、すでに耳に入って承知していた兄には、いずれ場の中心に娘のほうが引き出されることが予想できていた。その配偶者に、桜庭の姓を持った人間が絡め取られることを心配していたのだ。

 なるほど、兄からはハルさんが悪女に見えていたわけだ。兄にしたら、おれはさぞ、ハルさんの手玉に取られて骨抜きにされかかっている頼りない弟に映っていたことだろう。


 ……けど、違う。

 それは、事実とは違うよ、兄さん。

 ハルさんは、ずっとおれに何も言わなかった。いくらでも、同情を買うことも、恋心を利用することも出来たのに。

 桜庭の名前だけが必要だったなら。


「私も、一瞬、愚かな夢を見てしまいそうでした」

 ハルさんが、そっと呟くように言葉を落とした。

「──愚かですか」

 父と共に愛した会社。その会社を、これからも守っていくことが出来たなら。

 そんな夢を見ることは、愚かなことなのか。

「自分が好きになった人と一緒に、菊里商事という会社を盛り立てていくことが出来たなら、なんて幸せだろうと。……そうです、愚かです。もしも私が哲秋さんの人生を誤った方向に歪ませていたら、私は父にひどく幻滅されていたと思います。男性に幻滅されることには慣れていますけど、父をガッカリさせたくはありません。今となっては、その選択をしないで、本当によかったと思います」

「でも、お父さんも、菊里商事を大事にしておられた」

「大事にしていました。会社と同様、母も、兄も、私のことも。その私が道を踏み間違えなかったことを、父も天国で喜んでくれていると思います。そう、信じています」

「……それで、違う道を選んだ?」

 おれの問いに、ハルさんは頷いた。

「はい」


 人生の岐路に立ったハルさんは、枝分かれしていた道から、ひとつを選んで歩き出した。

 別の道を捨てて、諦めて。

 一度選んでしまったら、分岐点に戻って再び選び直すことは不可能だ。

 眩暈がしそうになった。


「兄の進退については、今度の取締役会での正式な決定を待ちますが、次の社長はもう内々に決定しておりますから問題ありません。私のほうはすでに辞表を提出して、つつがなく受理されました。後片付けを終えましたら、退社いたします」

 彼女はもう、あの会社の社員ですらなくなるということか。

「ハルさん」

「金銭的には特に今のところ困っているわけではありませんので、母と兄は今後の身の振り方をゆっくり考えるそうです。家を売って、のんびりと田舎で暮らすのもいいかなあなんて楽しそうに話し合っているんですけど、私はお断りですわ。アレがたくさんいるような土地は、たとえ極楽浄土のような場所でも参りません」

 そう言って、ハルさんは本当にイヤそうに身を縮めた。

「ハルさん」

「こうなったら、一人暮らしを始めてみるのもいいかなと思ってますの。まずは職探しからですけど──」

「ハルさん!」

 怒鳴るように呼んだら、ハルさんの身体がびくっと揺れた。逃げる暇も与えずにつかつかと大股で近寄って、彼女の腕を乱暴に掴む。

「ハルさん、おれは」

「……菊里の家と桜庭の家との繋がりが断たれて、菊里の名前に何の意味もなくなった以上、もう、お付き合いを続けることは出来ません」

 ハルさんは微笑したが、唇の端がかすかに震えている。

 ごめんなさい、とまた言った。欲しいのは、謝罪の言葉なんかじゃないのに。

「桜を一緒に見た時に、そう言うべきでした。自分でも、それは判ってました」

 でも──と続けた。我慢できなくなったように、視線が下を向く。

「あの時にはまだ、希望を持っていたんです。針の先くらいの、小さな小さな望みでしたけれど。いずれ父が回復して、また何事もなく、元の状態に戻れるのではないかと。そうして何年か修行を積んだ兄が、会社を後継できるようになるのではないかと。いつか……いつか、すべてが良いように廻っていくのではないかと。その時は、哲秋さんにすべてをお話出来るといいなと思っておりました。そして二人で笑うことが出来たらいいなと」


 いつか──

 夢見るように、願うように、祈るように、「その時」を望んでいたけれど。


「……おれが、何も出来なかったから」

 気づくことも、推測することも、出来なかった。いちばん大事な時に、手を差し伸べることさえ。

 菊里商事存続の鍵を握っていたのは、おれ自身であったのに。

 もっと踏み込んでいればよかったのか。無理やりにでも、父や兄に問いただしていればよかったのか。

 おれが桜庭の中枢にいた人間だったなら、ハルさんも、菊里商事も、助けてあげられただろうか。

 すべてが、もう遅い。

「いいえ。哲秋さんは、たくさんのことを、してくださいました」

 ハルさんはやんわりと首を横に振った。

「私がいちばんつらい時、傍にいてくれました。私を思いきり泣かせてくれました。疲れた時には話相手になって、元気を分けてくれました。いつでも、近くに寄り添っていてくれて、私はどれほど救われたか判りません」

「……それだけだ」

「とても、大事なことです。あの釣り書きの中の、架空の桜庭哲秋さんには、逆立ちしたって出来ないことです。ここにいる哲秋さんは、ずっと、私を支えてくれていました。それがなければ、いくら私だって、途中で心が折れていたはずです。私がちゃんと立って、笑っていられたのは、哲秋さんがいてくれたからです」

 ハルさんはおれの手を取り、ぎゅっと握ってから、自分の腕から静かに離した。


「──いつも、私を楽しませてくれて、ありがとう」


 そう言って、笑おうとしたらしいけれど、それは上手にいかなかった。あんなにも笑顔を作るのが得意なハルさんが、この時ばかりはそのやり方を忘れて困惑しているように見える。

「……最後まで笑っていたかったのに、難しいですね」

 くしゃりと泣き笑いのように表情を歪ませたかと思うと、くるりと背を向け、ハルさんは走り去った。

 小さくなっていく後ろ姿を、おれは追うことも出来ずその場に立ち尽くしたまま、ずっと眺め続けていた。




 こちらの胸の中をかき乱すだけかき乱しておいて、彼女は白い花びらと共に、おれの前から姿を消した。

 短い時間のうちにおれの心を根こそぎ持っていって、綺麗な笑顔の残像と、強烈な記憶だけを残して。

 春の嵐のように。




          ***



 翌日、菊里家から見合いの断りを受けた母は、ようやく不要物を捨てられた、というようなせいせいした顔をした。

「まったくあちらから断りなど無礼もほどがありますよ。……でもまあ、いいでしょう。これでやっと縁が切れたわけですから」

 そう言って、またおれの見合い相手を探すことに精を出しはじめたようだ。今頃、母の部屋には、見合い写真と釣り書きの山が、高層ビル並みにうず高く積まれているのかもしれない。

 今になって兄からすべての事情を聞かされた愛美は、萎れきった花のようにしょんぼりした。

「……ハルさん、最後に私のためにあそこに来てくれたのね」

 就職についての話し合いは、まだ結論は出ていないものの、とりあえず母は頭から払い捨てるような態度は取らなくなったらしい。その前進の一歩は、小さいようで、大きい。ハルさんのおかげだ。

 ……きっと、あの時が、ハルさんにとってもギリギリのタイミングだったのだろう。

 見合いを断ってしまえば、桜庭との縁が切れる。(仮)だろうが何だろうが、おれと付き合っている、という前提があったからこそ、ハルさんはあの中に入ることが出来た。正式に見合いを断ってしまう前、そして会社の行く末も決まって桜庭に媚びる必要もなくなったあの時しか、彼女には愛美の味方に付く機会がなかった。

 最後の最後、ハルさんはそうやって精一杯、自分に出来る限りのことをしてくれたのだ。

 兄はこの件について、ノーコメントを貫いている。複雑な心情はあろうが、安堵と罪悪感の入り混じったような顔でおれを見ては、何かを言いかけ口を閉じる。言わんこっちゃない、と思っているのかもしれないし、以前と同じ生活を続けているおれのことを少々訝しんでいるようでもある。

 ただ、菊里商事に対しては、これといった憐憫も同情もないようだ。子供の頃から桜庭の跡継ぎとしてそれなりに努力を強いられてきた兄にしてみれば、響氏は自分の責任を放り出したようにしか見えなくて、少々イラつく対象なのかもしれない。それが桜庭の判断でもあるのなら、新体制への移行も、さぞかしすんなりと承認されたことだろう。

 おれはハルさんと別れてからも、いつも通りの日常を送っている。朝起きて、会社に行って、仕事して。

 葵と、時々連絡を取りながら。

 ……そして、一カ月。




「──みなさん、お揃いで」

 リビングに入ると、勢揃いした桜庭の一家が、気を合わせたように怪訝な顔つきでおれを見た。

「なんだよ、哲。これ、どうなってるんだ」

 最初に言葉を発して食って掛かってきたのは兄だった。

「うん? どうって?……ああ、久しぶり。大きくなったね」

 まだよく回らない舌で、「おじちゃま」と言いながら駆け寄ってきた小さな甥と姪の頭を撫でる。

「ふざけんなよ。お前だろ、今日ここに全員を集めるように画策したの。俺だけかと思って来てみれば、蒔ちゃんはいるし、子供もいるし、おまけに父さんまで」

 よほど驚いているのか、両親がいる場では「蒔子」と呼んでいた名前が平時と同じになっている。兄の隣に座る蒔子さんは、相変わらず呑気そうな笑顔で、まあまあ、と兄を諌めていた。

「全員が顔を揃えるなんて、お正月以来ねえ」

「蒔ちゃん、緊張感がなくなるから、ちょっとだけ黙っててくれる? まったく、どうやって父さんまで呼びつけたんだか。俺でさえ知らなかった」

「そこはまあ、岬さんの力を借りて」

 おれは肩を竦めて答えた。無表情の父はずっと黙ったきり、腕を組んでソファに腰かけ、動かない。

「一体なにごとなんですか、哲秋さん。お父様もお兄様も、あなたの酔狂にお付き合いするほど暇な身体ではないんですよ」

 これから出かける予定のある母は着物姿だ。

 愛美はどこか不安げにおれを窺っている。しかしいつもはがらんとして広いだけのリビングだが、こうして全員が揃うと、さすがに賑やかになるな。この家では、年に一回、あるかどうかというくらいの珍しい光景だ。

「すみません、すぐ終わります」

 と、おれは母に向かって言った。

「全員にそれぞれするのも面倒なので、一度に済ませてしまいたかったんですよ」

「済ませるって……何をです」

 母が不審げに眉を寄せる。

「挨拶です」

「挨拶?」

 はい、と頷き、おれはそこにいる一同に向かって、頭を下げた。


「……今日、この家を出て行くので、別れの挨拶を」


 父以外の全員が、ぎょっと息を呑んだ。

「な、な、何を」

「おい、哲、なんだよそれ」

「お、お兄さん」

 母と兄と妹が、一斉にどもって立ち上がる。父は悠然と座ったまま、蒔子さんはぽかんと口を開けてこちらを見ているだけだ。案外、兄よりも蒔子さんのほうが、よっぽど肝が据わっているのかもしれないなあ。

「で、出て行くって」

「別におかしくはないでしょう? おれはもう二十八で、会社勤めもしている社会人なんですから。引っ越し先もすでに決めてあります。最低限の生活必需品も揃えました。あ、ちなみに、一時間後、業者が来ておれの部屋の荷物を運ぶことになっています。ちょっとドタバタしてうるさいかもしれませんが──まあ、いいですよね、お母さんも愛美も出かける予定があるようだし」

 おれは淡々と説明したが、母はまったく納得出来ない様子だった。声を荒げておれに詰め寄る。

「いいですよね、じゃありませんよ! なんですかそれは! わたしは何も聞いておりません!」

「でしょうね。おれ、言いませんでしたから」

 母自身がよく使う手ではないか。ハルさんとの見合い当日の朝のおれの気持ちが、少しは理解できたかな。

「ちょっと待て、哲、落ち着けよ」

「おれは落ち着いてるよ。兄さんこそちょっと座って落ち着きなよ」

 おれに言われて、兄はやっと今の自分が立っていることに気づいたらしい。バツが悪そうに座り直し、愛美も茫然としながらまた座ったが、母だけは立ったまま眦を吊り上げた。

「わたしは許しませんよ!」

「許可は必要ありません。自分で決めたことなので。おれはもう自分の住む場所くらい、一人ででも契約できるんですよ、お母さん」

 まあ、住むところについては、一人暮らし歴の長い葵に、いろいろと相談に乗ってもらったけど。

「何を言ってるんです! 勝手にそんなこと、許されるはずがないでしょう!」

「誰に許されないんです?」

 ハルさんを真似て訊ねると、母は一瞬言葉に詰まったが、すぐにきっとなった。

「わたしです! 当然でしょう! あなたはこの桜庭家の次男なんですから、自分勝手な行動は慎むべきではありませんか!」

「それが義務だと?」

「もちろんそうです!」

「では、それを放棄します」

「は……?」

 母が口を開けたまま固まった。兄も、妹もだ。蒔子さんが心配そうな顔をし、子供たちはきょとんとしている。父だけは、最初の形を崩さない。

 おれは薄く微笑して、繰り返した。


「桜庭の次男、という肩書を放棄します」




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