32.反対勢力
数件目に廻った店で、そのピアスを見つけた。
他のものと比べて特徴的な外見をしているわけでもないし、そこだけ目立つように派手派手しく飾られていたわけでもない。飛び抜けて高級だったわけでもなく、光り輝く宝石がちりばめられていたわけでもない。
なのに、それは一目でおれの目を引いた。
「すみません、これ、ちょっと出してもらえますか」
近くにいた女性店員に頼むと、はいはいという愛想の良い返事とともに、ピアスをショーケースから出してくれる。透明なガラスの上に置かれたそれを、しばらくの間黙って眺めて、うん、と頷いた。
これにしよう。
ピアスというのは本当にたくさん種類があって、値段もピンキリだが、品物としても非常に幅広い。安くてもそれなりにいいなと思わせるようなものもあれば、これでこの値段を取るのかと店の良心を疑ってしまうようなものもある。目の前にあるのは、そういう意味でも悪くなかった。
葵が、どれどれと覗き込み、目を眇めてまじまじと見つめる。葵の言っていた価格設定よりは上回るので、その点について何か言われるかとも思ったが、「まあ、悪くないんじゃない」と呟いただけだった。なんとか合格点ということらしい。
「このピアス、包んでください」
あれだけ迷ったのに、決まるのは一瞬だなあと思いつつ、店員に頼む。何かを探して店をハシゴする、という経験がおれにはほとんどないのだが、探していたものが見つかると、時間をかけた分、快感だ。女性が買い物好きなのは、こういうあたりに理由があるのかな。
「え……あ、お決まりですか」
三十代後半くらいの、ベテランらしい店員は、財布を取り出したおれを見て、ちょっと驚いたような顔をした。
「桜のピアスでしたら、他にもございますけど」
「いえ、これで」
「桜ではなくても、似たような感じのものもございますし。いろいろと並べてみたほうが、比べられてよろしいですよ」
「いや……」
「こちらに出していないのもございますから、持ってまいりますね。少々お待ちください」
「え、ちょ」
止める間もなく、店員は急ぎ足で店の奥へと引っ込んでしまった。あっけにとられるおれを見て、葵が可笑しそうにくっくと喉の奥で笑う。
「……なんだろ。おれ、よっぽどテキトーな感じに見えたのかな」
あの店員から見ると、おれは、店に入ってすぐに目についたものを購入する怪しい客、なのかもしれない。今まで他の店で散々迷って悩んでいたんです、と説明したほうがよかっただろうか。
「ていうかね」
葵は片目を細め、人の悪い顔で笑っている。
「この値段のアクセサリーをポンと即決で買おうとするやつなんてね、あっちにしたら、まさにネギを背負ったカモなんだよ。見てな、今からあの店員が持ってくるのは、これよりも値段の高いものばっかりだから」
その通り、戻ってきた店員がずらずらとおれの目の前に並べたのは、ほとんどが高額の商品ばかりだった。少しだけそうでないものもあったが、そちらは明らかに質が劣る。なるほど、一つ一つだとさほど気にならなくても、こうして比べてみると違いがよく判って、つい高いものへと手が伸びそうだ。さすが商売人。
選んだのはベテランだけあって、どのピアスも、見た目としては、おれが最初に選んだものとどこかしら似通っていた。でも、桜ではないものも多く、どれも綺麗で可愛らしくて悪くはないのだが、それでは意味がない。
「こちらですと、デザインはシンプルですけど、その分すっきりして上品に見えると思います。それから、こちら、綺麗でしょう? この石がピンクサファイアで、これが……」
立て板に水を流すがごとく、次から次へと商品の説明をしていく店員に、おれは困惑しながら人差し指で頬を掻く。止めたいのだが、そのスキがない。葵はまったく知らんぷりで、他の店員とお喋りをはじめてしまった。
「あの、悪いんだけど」
店員が息継ぎをした瞬間を見計らい、おれはやっとのことで言葉を挟んだ。
「最初のがいいんです」
「そうですか? でも、プレゼントですよね? もちろん、こちらのピアスも素敵ですけど、今、女性に人気のタイプといいますと、たとえばこちらの──」
うん、そうかもね。シンプルなもの、もっと高価なもの、輝く宝石をあしらったもの、確かに、そういうのが、若い女性には好まれるのかもしれない。他にハルさんに似合うものはいくらだってあるだろうし、彼女の好みについても、細かく把握しているわけでもない。
……でも、少なくともおれにとって、選ぶ基準はそこじゃないんだ。
「これをね」
と、はじめに出してもらったピアスを手に取る。
「耳に付けている姿を見たいんですよ」
ゆらゆらと揺れる、薄紅色の小さな桜。
あの日見た公園の桜には及ばないが、それでもどこかあれと同じ儚さを感じさせる、柔らかい色と形。あの時舞っていた花びらを思わせる、軽さと艶やかさ。
だから、これがいちばん目を引いたのだ。おれにとって、あの桜はなにより特別なものだから。
──桜は好きだけど近寄れない、というハルさんに、これを身につけてもらえたらと思う。それは、おれの願望だ。
他にももっと、彼女を喜ばせたり、美しく装えるものはたくさんあるかもしれないが、それよりも。
「これを付けて笑ってるところを見たら、おれが幸せだろうなあって思うから、買うんです」
そういうことなので、説明はもういいです、と言おうとしたのだが、その前に店員がぴたりと口を閉ざした。
それから、なぜか、赤くなった。
「…………」
それを見て、少々うろたえた。店員は、はい、では、お待ちを、ともごもご口の中で呟くようにして言うと、ピアスを持ってそそくさとおれの前から立ち去ってしまう。
……おれ、そんなに恥ずかしいこと言ったかな……?
今になって照れる。天井のあたりに目線をやりながら、ショーケースの前で居心地悪く待っていると、後ろから葵に小突かれた。
「哲さあ……」
ものすごく、呆れたような顔をしている。
「殺し文句を吐く場所と相手を間違えてるよ」
「え」
殺し文句?
間違えるも何も、そんなつもりではなかったので、戸惑うしかない。そもそもおれは葵と違って、そういうのがつるつると口をついて出てくるような性格でもないし。
赤くなった女性店員の顔を思い出す。そうか、あれは殺し文句になるのかと、自分の言ったことながら感心するように思った。
ふーん、そうか。
……ハルさんは、殺されてくれるかな。
「あとでメモっとこう」
「バカだね、哲」
しみじみと、憐れまれた。
──ハルさんの誕生日まで、あと二週間弱。
細いリボンの巻きついた、片手に乗るくらいの小さな包みは、その日まで、おれの机に立てられているハルさんの写真の前に置いておくことにした。
***
兄から電話があったのは、翌日の夜遅くのことだ。
「蒔ちゃんから聞いたんだが」
と切り出す兄の声は、いつものように余裕のある明るさを伴ってはいなかった。妙に事務的で、淡々としている。よほど忙しいのかな、とスマホを手にしたおれは思った。
「父さん、今週から海外でな。帰ってからは、すぐ東北に行く予定が入っていて、しばらく時間が取れなさそうなんだ」
「そうか……」
やっぱりね、と溜め息が出る。父が向かう先には、兄も同行することがあるだろうし、そうなるとますます家族が顔を合わせることは難しい。
「いつ頃ならいいのかな」
「一カ月ほど先になるな。それも確約は出来ないんだが……なんとか、空けてみるよう、岬さんにも頼んでおく。俺もそれに合わせて調整するよ」
岬さんというのは、父の第一秘書である。いつでもダンディな五十過ぎの男性で、秘書というよりは執事のような感じの人なのだが、きっちりと間違いのない仕事をするので、兄から言ってもらえれば、それなりの努力はしてくれるだろう。
「悪いけど、頼むね」
愛美としては焦れるところだと思うが、その時までは大人しく待つように言っておいたほうがいいな、とおれは判断した。どう考えても、その件について、話が通じるのは母よりも父だ。今から母と揉めてこじらせてしまうより、家族での話し合い、という形をとったほうが穏便にいくのではないか。
「いや、自分の娘のことなんだからな。あの人も、そんな時くらいはどうにか時間を都合して、そちらを優先すべきなんだ」
珍しい。兄が父について、「こうすべきだ」なんて言うのを、はじめて聞いた。
──兄も自分の家族を持って、いろいろと思うようになった、ということか。
「兄さん、その場に、蒔子さんは連れてこないでね」
おれが言うと、兄は、ん? と聞き返した。
「蒔ちゃんがいたら何かマズイか?」
「そりゃマズイだろ。いや、蒔子さんがどうこうってわけじゃなくてさ」
あの人のことだから、母と愛美が険悪な空気になっても、にこにこ微笑んで「偉いわねえ、愛美ちゃん」などと感心して言いそうで、それはそれで場を和ませる貴重な存在だとは思うが。
「蒔子さんは、母さんが言う、『女の幸せ』を地でいってる人なんだからさ」
裕福な環境で育ち、世間の風に当たることもなく、見合いで良い相手を見つけて結婚し、そのまま家庭に入って子供を産む。
あの母が、自分の娘に望む未来像の実例だ。稀有なほどに幸福な方向にいったモデルケースが目の前にいては、母に、自分の言い分の根拠を増やしてしまうだけだ。
「あー、なるほど」
兄は納得するような声を出した。
「蒔ちゃんは蒔ちゃんで、いろいろと努力と苦労もしてるし、辛抱もしてると思うんだけどなあ」
それはそうだろう。桜庭の長男の妻、というものは、人から羨まれるほど気楽な立場ではない。気苦労もあれば、重圧もある。外側からは、あまり見えないだけだ。
母にしたってそれは知っているだろうから、働くよりも人の妻の座に納まったほうが楽、などと考えているわけではないと思う。
ただ、自分の娘の人生を、自分と同じコース以外には考えない。考えられない。考えようという、意志もなければ思考もない。それが問題なのだ。
桜庭の家を第一に考える自分自身の価値観がすべてであって、自分から生まれた息子も娘も、当然それと同じであるはずだ、と思い込んでいる。
娘の考えが、自分の考えとは、その方向も根本も異なっているということに、母は気づかない。
一見よく似た蒔子さんと自分の生き方が、まったく違うことにも気づいていないだろう。
「幸せ」というものが、人によってそれぞれ違う、ということにも。
それを理解させようとするのは、相当な難事業だ。おれたち兄妹は、今までずっと、その溝を埋める努力を放棄し続けてきたのだから、なおさらだ。
「蒔子さんも、自分を口実にされたら困ると思うよ」
「……まあ、そうだな。判った」
そう答えてから、少し間を置き、
「──哲」
と、改めておれを呼んだ。
ぴしりとした声には、固い芯が入っているようだった。それを聞いて、理解した。
そうか、兄の本題はこっちか。
「お前、菊里商事の娘さんとは、まだ付き合う芝居を続けてるのか」
「…………」
菊里商事の娘さん、ときたな。ついこの間まで、知り合いのように「ハルさん」と楽しげに呼んでいたのに。
兄の言い方は、「兄」ではなく、まるで「上司」だ。そういう風に聞こえるように高圧的に話しているのは、この先の内容が、兄としてあまり言いたいことではない、からなのではないかとおれは思った。
「それが?」
質問に質問で返す。ひそかに息を吸って吐いた。
落ち着こう。多分、兄は、事の本質に関わることを匂わそうとしている。でも決して、はっきりと言葉に出すことはしない。流してしまえばそれっきりだ。慎重にしないと。
「訊ねているのは俺だ」
「それは兄さんに、いちいち報告する義務があるようなことかな」
「……お前、いつからそんな可愛げのない性格になった」
「きっと、昔からだよ」
ふー、と兄が溜め息をつく。
「悪いことは言わないから、もうやめておけ」
「…………」
薄々予想していた成り行きなので、驚きはなかった。しかし、だからといって、まったく平常心でいられるわけでもない。響氏の、「過ちだった」という言葉を思い出し、胸をちくりと刺した。
「(仮)つきの付き合いを続けることを?」
「そうだ」
「最初に相談した時、やってみればいい、って言ったのは兄さんだったと思うけど」
「あの時とは事情が違う」
事情?
それはどういうことを指しているのだろう。あの時、おれが「相手は菊里商事のお嬢さんだ」と明言していれば、兄はその時点で反対したということだろうか。それとも、その後に判明した菊里氏の入院云々がやはり絡んでいるのか。
よく判らないな──と頭を忙しく巡らせる。
仮に、菊里商事という会社になんらかの問題があり、これから桜庭が介入する可能性がある、ということだとしても。
その場合、おれとハルさんに個人的な繋がりがあるというのは、そんなにまずいことだろうか。
菊里側に極秘の情報を漏らす恐れがあると心配されるほど、おれは桜庭の中枢には関わっていない。それは兄も知っていることのはず。無論、おれ一人で、菊里商事の危機を救えるわけもない。社長の娘に特別な感情を持っていようといまいと、おれには、企業間のあれこれに立ち入る権限も力もないのだから。
なのにどうして、ハルさんをおれから切り離そうとするんだ?
「……実はさ」
とおれは言った。
「この間、ハルさんに、もうお試し見合いは終わりにしましょう、って提案してみたんだ」
「え、そうなのか」
拍子抜けしたような兄の声には、ありありと安堵が滲んでいる。
「じゃあ」
「でも、ハルさんに難色を示されて」
「──……」
「もう少し、このまま続けることになったんだよ」
しばらくの間黙り込み、兄はひどく難しい声で「……哲秋」と名を呼んだ。あちら側では、さぞかし苦々しい顔つきをしているのだろうということが想像できる。
「お前、彼女に、何か約束させられてやしないだろうな? 美人だからって、表も裏も綺麗だとは限らないんだぞ。迂闊になんでも頷いたりするなよ」
ハルさん、すっかり悪女扱いだ。あんなになりたがっていたのだから、おれの兄にこんなことを言われていると知ったら、本望なのだろうか。
「なんでも?」
「そうだよ、お前、気が優しいところがあるからな。涙でも見せられたらコロッと言いなりになりそうで怖いんだよ」
「そうだなあ、あるかもね」
「バカ、なに呑気なこと言ってんだ。いいか哲、くれぐれも軽率な言動はするなよ」
「大丈夫だよ。おれ、兄さんほどじゃないけど、これでも一応それなりの収入あるし。多少の貢ぎ物くらいで破産したりしないと思うから」
「金の問題じゃない」
「そうなの?」
「お前の──」
「おれの?」
「…………」
兄はそこで口を噤み、少しの無言の後、腹立たしそうに低い声を発した。
「……お前、俺をハメようとしてるだろ」
バレたか、と舌打ちしそうになった。
さすがに桜庭の若獅子は手強い。簡単に引っかかってはくれないな。
「哲、兄ちゃん、本当に心配してるんだ」
「悪いけど、懐柔作戦には乗らないよ」
「可愛くねえ」
忌々しそうに言って、溜め息を落とす。おれはその兄に対して、真面目な口調で、今度は率直に言った。
「──(仮)の付き合いをもうやめよう、ってハルさんに言ったのは本当だよ」
「……うん」
「それで、おれと正式に付き合ってもらえませんか、って申し込んだ」
「…………」
スマホの向こうから、押し殺したような唸り声が漏れる。その腹立ちがどういうところから来ているのか──おれが知りたいのはそこだ。
「そうしたら、ハルさんは、困ったような顔をした」
「…………」
「今は返事ができない、いずれ必ず返事をする、って言った。今のところ、おれと彼女が交わした約束はそれくらいだ」
「…………」
また長めの沈黙を経て、次に向こうから聞こえてきたのは、今までとは少し違う調子の声だった。
「……ハルさんは、いい人なんだな」
ぽつりと言う。
「判りにくいけどね」
「本気になる前にやめておけ、と言いたいところだが、もう遅いのか」
「うん、遅い」
きっぱり言うと、兄が笑った。複雑な何かを混ぜ込んだ笑い方を少しして、すぐにまた厳しい口調に戻る。
「俺は、お前とハルさんとのことに、賛成は出来ない」
「……そう」
と答えたが、胸の中にはずしんと重いものが落ちた気がした。
「どちらにしろ、この先、お前がしんどい思いをするのが判りきってるからな。本気ならなおのこと、彼女とは会わないほうがいいと思う。あるいは、ハルさんにとっても、そのほうがいいのかもしれない」
「その、『どちらにしろ』っていうのは、どういうこと?」
「……いずれ、判る」
そう言うと、兄は電話を切った。
おれも通話を切り、スマホを机の上に置く。
写真の中の笑顔と、その前にある小さな包みをじっと見て、静かに息を吐いた。
──これから、おれはしんどい思いをするらしいですよ、ハルさん。
頑張ります。