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はるあらし  作者: 雨咲はな
本編
30/45

30.花びらの下の告白



 ハルさんの身体は、思っていたよりも細かった。

 いや、彼女は見た目からして、ほっそりとしてはいる。しかしいつも堂々として、時に憎たらしいことも言ったりする性格のためか、どうやらおれの脳は少々補正がかけられていたらしい。引っ張り寄せた時も、想像していたより軽かったので、ちょっと勢いがつきすぎて腕の中に入ってきたくらいだった。

 そして、その身体は、思っていたよりもずっと温かくて、心地よくもあった。

 おれに突然抱きしめられて、ハルさんは抗ったり押しのけたりする様子を見せなかった。

 でも、応えることもなかった。

 ただ、おれの左肩におでこをくっつけて俯き、じっと黙っているだけだった。

「──ハルさん」

「……はい」

 呼びかけると、小さな声でだが、返事があった。上を向いてくれないので、顔は見えない。

 拒否されたり逃げられたりしないことに安堵するべきなのか、それとも、彼女の腕が背中に廻らないことに落胆すべきなのか、おれには判断できなかった。自分の中にも、浮き立つような気持ちと、少し不安なもどかしい気持ちが両方あって、抱きしめたはいいが、バカみたいにその場に突っ立っていることしか出来ない。

 こんなにもすぐ近くに、可愛らしいピアスの付いた、ハルさんの色づく耳たぶがある。間近で感じる吐息があり、体温がある。頬に触れる黒髪と、そこからふわりと漂う、甘い香りがある。

 腕の力を強めてから、おれは言った。


「もう、お試し見合いは終了しましょう」


 一瞬、ハルさんの身体がわずかに身じろぎした。

 そのまま無言でいたが、しばらくして、ほとんど聞き取れないほどに小さな息を零した。下を向いたまま、ぽつりと訊ねる。

「……そちらから、お断りされますか」

「最初から、そういう話でしたよね」

「…………。はい、その通りです」

 ハルさんの口調に変化はなかった。落ち着いた声、落ち着いた対応。彼女が今、どんな表情をしているのか、それは見えないけれど。

「少しの間だけ付き合うフリをして、しばらくしたら上手いこと断ればいい、と」

「私がそう申しました」

「おれもそれを了承しました。(仮)の付き合いをすることを」

「無理やり、哲秋さんを巻き込んでしまいました」

「半分以上、流されていたのは否定しませんけど」

 見合い当日のことを思い出して、苦笑する。考えれば考えるほど、おかしな見合いだったよな。

 ──いろんな事情と思惑の詰まった、「見合いの予行演習」。

 でも、もういいだろう。

 予行演習なんて、そうそういつまでも続けるようなものじゃない。

「おれから、母親に断りを入れます。いずれ、仲人さんから、菊里家のほうにも正式に連絡が届くと思いますが」

「……はい」

「そうしたら、(仮)の付き合いも、解消です」

「……はい」

「いいですね?」

 確認のために念を押すと、ハルさんはようやく顔を動かして、上を向いた。

「はい」

 そう言って、まっすぐおれと目を合わせた。そこにあるのは、いつものニコニコ顔ではなくて、どちらかといえば、無表情に近いものだった。

 人によっては冷たくも見えそうなものだが、ハルさんの場合、ニコニコ顔を引っ込めると、なぜか妙に頼りない。以前、口喧嘩をした時も、そう感じた記憶がある。どうしてなのだろう。

 こういう時のハルさんに浮かぶ色。その色を、なんと言うのだったか。

 少し見下ろす位置に来る顔を、おれも正面から見返した。

 胸板に置かれていた手の平に力が入り、するりと離れていこうとする身体を掴み、再び強く引き寄せる。こちらに向けられた瞳に、かすかに戸惑いが宿った。

「ハルさん」

「……は、い」

「見合いの話は白紙に戻して、改めて、おれと付き合ってもらえませんか。今度は、仮ではなく、本当に」

 おれがそう言うと、瞬きひとつしなかったハルさんの無表情が崩れた。



          ***



 その時のハルさんの表情を、言葉で言い表すのは、ひどく難しい。

 驚いたような、困ったような、迷うような、妙に悲しげな──とにかく、喜びの感情がなかったことだけは、はっきりしている。

 ハルさんはまたすぐに顔を下に向けてしまったので、おれはその短時間に彼女の心を通り過ぎていったものが何であったかまで、知ることは出来なかった。けれど、ハルさんが下を向いたのは、それを隠すためだということは、よく判った。

 ハルさんはそのままの姿勢で、しばらくの間、じっと動かなかった。

 彼女が今、何を考えて、何を思っているのか。現在の二人の間の物理的な距離はないに等しいのに、気持ちの上ではまだ隔たりがある。

 ……まだ、遠い。

 でも、そんなの当たり前じゃないか。そんなことで失望するほど、おれは幼くはない。人と人の間が、そうそう簡単に縮められるものでも、埋められるものでもないということくらいは、知っている。

 おれたちはまだ、出会ってからそんなに時間が経っているわけじゃない。こうして顔を合わせたこと自体も決して多くはない。おれたちには、一緒に過ごした時間がまだまだ少ないのだから、お互いを知ることも判ることも難しい。当然だ。

 だからこそ、もっと知りたいと願う心がある。

「……ふふ」

 腕の中で、ハルさんの小さく笑う声がした。

 顔はやっぱり下に向けられたままなので、どんな風に笑っているのか、おれからは見えない。でもその声は、いつものように朗らかで楽しげなものではなくて、やけに弱々しく聞こえた。

「とうとう桜庭のご次男を、落としてしまいましたかしら。これで私も、一人前の悪女ですわね」

「悪女でも、構いませんよ」

「…………」

 おれの言葉に、ハルさんはまた黙った。ますます頭が垂れたが、ちらりと覗く耳がほんのりと赤かった。

「腹黒い計算で、哲秋さんに近づいたのかもしれません」

「ハルさんの腹が真っ白でないことは、知ってます」

 ハルさんは下を向いたまま、「……まあ失礼ですわ、見たこともありませんのに。私、日焼けしないタチなんですのよ」とぶつぶつ小声で文句を言った。そういう意味ではない。

「小悪魔的な魅力で、哲秋さんの気を惹こうと画策したのかもしれません」

「小悪魔、の定義が、ちょっとおかしいんじゃないですかね」

 少なくとも、おれは今まで一度も、ハルさんを「小悪魔っぽい」と思ったことはない。どちらかというと、イタズラばかりして場をかき乱すトリックスターだ。

 そう言うと、ハルさんはもう一度、「……失礼ですわ」ともごもご呟いた。もしかして、自分は小悪魔タイプだと思っていたのだろうか。

「哲秋さんを籠絡して、桜庭の家を乗っ取ろうと企んでいるのかもしれません」

「それは楽しそうです」

「…………」

 ばちん、と平手で胸を叩かれた。痛い。

「あのね、ハルさん」

 呼びかけに返事はない。動くこともない。でも、間違いなく聞いていることは感じられたので、構わず続けた。

「……ハルさんに、どういう事情や思惑があったにしろ」

 静かに声を出すと、ぴくりと肩を揺らし、やっと、ハルさんがゆっくり顔を上げた。眼差しが逃げることなく、ひたとこちらに据えられる。

「そんな企みがあったとは、おれは思いません」

「……どうしてですか?」

 黒目がちの瞳に、怪訝そうなものと、少しばかりむっとしたようなものが混じる。悪女説を否定されて、面白くないらしい。

 まったく意地っ張りだ。おれは微笑した。


「──だって、ハルさんはずっと、おれを楽しませることばかり、考えていたでしょう?」


 それが、菊里商事のためにおれを巻き込んだことに対する罪悪感であれ、なんであれ。

 ハルさんは多分、最初からそればかりを考えていた。

「そこに、企みなんかが入る余地は、なかったように思いますね」

 大体、ハルさんの言動は、到底「男を落とす」類のものだとは思えないし。落ちてしまったおれのような人間のほうが、きっと、珍しいくらいだろう。

 たとえ演技が好きでも、おれに見せていたハルさんの姿は、ずっとハルさんのままだった。思えばおかしな姿ばかりだったが、そこを隠したりはしなかった。

 おれは、そういうハルさんを好きになったのだ。

 葵のような人間は別として、この広い世界でも、好きになれる女性と巡り会うのは、そんなにたくさんあることではないのだろう。おれが桜庭の次男ということを知った上で寄ってくる女性は昔から少なくはなかったが、その中で心に残る相手とは今まで会ったことがない。桜庭宴にいた多くの女性たちと同様に。

 出会いがたまたま、見合いの練習、などという妙な場で、そこにいくつかの複合的要因が絡んでいたために、少しばかりややこしいことになってしまったが、もしもそんなことではなくて、もっと普通の状況で出会っていたとしても、おれはハルさんに惹かれていたのではないかと思う。

 楚々とした外見とは異なる中身に他の男たちが幻滅しても、やっぱりおれには好ましく見えただろうと思う。

 そういうのを、「相性」とか「縁」とか呼ぶのではないか。

 そんな相手と会えるというのは、きっと、とても運のいいことなのだろう。

 おれはもう、その偶然を、幸運を、奇跡を、簡単に手放したいとは思わない。


「ハルさんと一緒にいると、おれは楽しいんです」


 馬鹿馬鹿しいやり取りも、振り回されるのも、違う一面を新たに見つけるのも。

 なにより、その笑顔を見るのが。

 いつだって、楽しくてたまらなかった。


「ハルさんにも、たくさん、楽しんでもらいたいんです」


 楽しそうに笑っているのを見ると、おれは幸せな気分になれるから。

 だから、いつも変わらず笑っていて欲しい。

 そのために、おれに出来ることならなんでもしてやりたい。

 けど、このままだと、おれはいつまでも部外者のままだ。いつまでも、踏み込めない。


「こんな中途半端な場所じゃなく、堂々とハルさんの隣に立っていたいんです」


 菊里氏と響氏が言う、「これから」。

 大きな問題、というのが何か、おれは知らない。何が起こるのかも判らない。

 でも、これから起こるかもしれないその何かがあった時、おれはハルさんの近くにいたい。

 彼女の笑顔が曇ることがないように、一人で背負わなくてもいいように、隣で支えて手を貸すのは、おれでありたい。

 菊里と桜庭という企業の理屈とは無関係に、おれは一人の男として、「ハルさん」の側に立っていたいのだ。


「おれと、付き合ってもらえませんか」


 もう一度言うと、ハルさんはわずかに目を伏せた。

 それからゆっくりと息を吐きだし、力を抜いて、おれの肩にもたれるように頬を寄せた。

 抱きしめた腕に力を込めると、遠慮がちではあるが、細い手が背中に廻された。

 そして、ぽそりと言った。

「……時々、哲秋さんの健全さが、イヤになることがあります」

「え」

 行動と言葉がまったく一致していなくて、おれは戸惑った。ハルさんがおれの予想通りのことをしたためしはないが、この状況でそんなことを言われることも、まったく予想していなかった。

 ……おれは現在、力いっぱいハルさんを口説いているつもりなんだけどな。実を言えば、今まで深雪を含め数人の女性との付き合いを経験してきたが、自分から告白したり口説いたり交際を申し込んだりするのは、これが初めてだ。ひょっとすると、これ、ハルさん流の断りの表現なのかな、と心配になる。

「すみません、意味がよく判らないんですけど」

「釣り書きに書いてあったような、頭が軽くて自尊心ばっかり肥大した鼻持ちならないお坊ちゃんだったらよかったのに、と思うことがあるということです」

「…………」

 ますます判らない。というより、ハルさんの手許にあるおれの釣り書きって、一体どういう内容だったの?

「おれがそういう男だったら、どうしてよかったんですか?」

「哲秋さんが、そういう人だったら」

「そういう人だったら?」

「私はここにはおりません」

「……それは、どういう」

 ハルさんの言い回しは独特で、判りにくい。

 しかしこれは最も判らない部類である。困惑して問いかけたら、ハルさんは少し黙ったあとで、おれから身を離し、態勢をまっすぐにした。


「──時間をいただいて、よろしいですか」


 真面目な表情で言って、それと同時に、背中にあった手も離れた。

「時間?」

「今はまだ、お返事できません。……ごめんなさい」

「…………」

 誠実な声で謝られ、おれもそれ以上、質問を続けられなかった。

 「まだ返事ができない」──それがハルさんの返事であるのなら、おれは受け入れるより他にない。

「いつかは、返事をしてもらえるんですね」

「はい、必ず」

 それはいつのことなのだろう。

 父親の容体がもっとはっきりしてからか。それとも、退院してからか。社長に復帰して、菊里商事という会社になんの懸念もなくなった時か。あるいは──

 おれたちはいつまで、この曖昧な関係を続けなきゃならない?

「…………」

 口を結び、ハルさんを閉じ込めていた腕の拘束を解いた。自分から後ろに下がって身を引き、彼女との距離を取る。

 ハルさんが目線を地面に落とした。

「勝手なことばかり言って、ごめんなさい」

「いえ」

 それを勝手だと思っているわけではない。普通の男女にだって、交際に踏み出すには迷いや悩みはあるに決まっているのだし、ましてやおれたちの上には、桜庭と菊里の重みが上乗せされている。未来のことを含めて付き合いたいというおれの申し出に、ハルさんが躊躇しないはずはない。

 落胆はもちろんあるが、それはハルさんを責めるようなものではなかった。すぐに良い返事をもらおうなんていう考えこそ、おれの身勝手だ。

 待とう。いつか必ずと言うのなら、その時は来る。こんなことで、すぐに諦められるほどの軽い気持ちでもない。

「きっぱりフラれたわけではないようなので、ホッとしました」

 両手を広げ、なるべく明るい口調でそう言うと、ハルさんが目元を緩ませ微笑んだ。どこかぎこちない笑い方だった。

 その顔を見たら、なんとなく胸に迫るものがあって、それに押し出されるように、考える間もなく言葉を言い継いだ。

 その先を言わせたらいけないような、気がした。

「こうなったら開き直って、どんどん攻勢をかけていきますよ。今度はハルさんがおれに落ちるまで」

「…………」

 ハルさんはそれには答えずに、微笑したまま、周囲に顔を巡らせた。

 暗闇に、しんとした静寂。風がざざっと桜の枝を揺らして、花びらを散らす音だけが響く。ここに来た時と、何ひとつ変わりない。

「──綺麗ですね」

 立ち並ぶ桜を見やって、ハルさんが呟く。花びらが、ひらひらと踊るように宙を舞っていた。

「私、桜が好きなんです」

 なぜか、さっき言っていたのと同じことを言った。おれは訝しげに、黙って彼女の横顔を見る。

「でも、あまり近くには寄りません。この季節はいつも、遠くから眺めるだけでした」

 言うまでもなく、毛虫が怖いからだろう。

「誰かからお花見に誘われても、ずっと口実を作ってお断りしていました」

 ……あれ?

「今夜、ここにいるのが、自分でも不思議です」

 ハルさんは桜に視線を向けながら、独り言のように続けた。

「きっと……」

「きっと?」

 急くような気持ちを押し殺して問い返す。きっと?

 ハルさんは、ゆるりとした仕草でこちらを向いた。

「……哲秋さんと一緒に見たら、なにより綺麗だろうなと思ったからでしょうね」

「…………」

 おれは何も言えずに、ただその言葉を噛みしめるように、内心で繰り返した。


 そうか。

 ハルさんも、おれと同じことを思っていたのか。


 今日は、それを知っただけで充分だ、とおれは思った。

 まだいろいろと、複雑なことは残っているようだけど、とりあえず。

 ハルさんと一緒に見るから、ここにある桜は他のどんな桜よりも美しく見える。

 それは案外、とても大事なことなんじゃないだろうか。そのことを知ることが出来ただけ、収穫だ。

 だから。

 来年も、再来年も、こうして一緒に見られたらいいですね──

 という言葉は、口にはしないで、胸の奥のほうにしまった。




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