28.桜庭宴
四月に入った最初の土曜日、桜庭宴は開かれた。
日中はずいぶんと暖かかったものの、もうすっかり日も暮れて闇が落ちたこの時間、夜気には少しひんやりしたものが含まれている。基本は立食形式のガーデンパーティーなのだが、招待客の中には、肌を露出したイブニングドレスを着ている女性も多くいたので、屋外ばかりではなく、庭に面した建物も一部開放して、温かい飲み物を供するという措置もとられた。
先日から遠慮がちにちらちらと咲きはじめていた桜は、この数日の好天に、待ってましたとばかりに一気に花びらを大きく広げて開花した。下方からライトアップされたその姿は、誇らしげに全身を薄紅色に染めて、人々の吐息混じりの賞賛を受けている。
白と黒、光と影のコントラストが美しい。まるで桜それ自体が、ぼんやりと闇に輝く巨大な発光体だ。ちらりちらりと惜しむように白い花びらが舞い落ちる光景は、幻想的で、どこか神秘的だった。
まさに今が盛りだな──とおれはシャンパングラスを手に、桜を見上げて感嘆するように思う。
桜には、これより前でも後でもダメだという、美の瞬間がある。満開をほんのわずかに過ぎたこの時期が、多分、いちばん素晴らしく見える。一本一本の木の由来はともかくとして、この一瞬を逃さずに毎年開催される桜庭宴は、確かにすごいよな、と素直に感心した。
いつもなら、やれやれと多少億劫な気持ちで参加している花見の会だが、今年は桜の美しさを、浮き立つような気分で眺めている自分がいる。目の前の桜がこうなのだから、外の桜だって今頃十分綺麗に咲いているだろう、と思うからだ。おれの心はすでに、門の外へと向かってそわそわと足踏みしている状態だった。
ちらっと腕時計を見る。午後八時。パーティーの開始が六時半で、それから客の間を挨拶して廻っているうちに、あっという間に時間が過ぎてしまった。去年までだと、これくらいの時間にはするりとさりげなくこの場から抜け出せていたのだが、今年に限ってなかなか逃げられない。だんだん焦れてくる。
「こんばんは」
そう思っている最中にも、母子連れとおぼしき女性二人に声をかけられた。
二人して、これでもかというくらい輝くジュエリーで胸元を覆っているので、光が反射して目がちかちかする。
「こちら、うちの娘です。よろしくお見知りおきくださいませ」
と、母親らしい年配の婦人のほうが、後ろにいた二十代くらいの若い女性の背中を押して紹介してくれたが、周囲の喧騒にまぎれて、名前が聞き取れなかった。まあいいやと思って、「こんばんは」と適当に微笑んで誤魔化すことにする。大体、この婦人がどこの誰かも、おれはまったく知らない。
誰かも知らないその二人は、なかなかおれを解放してくれなかった。というか、娘のほうはぼーっと突っ立っているだけなのだが、母親のほうがぺらぺらと話し続けて、ちっとも口の動きを止める気配がない。
いつもなら、こういう場だと、目立たない桜庭の次男は挨拶程度で済ませて、あとはほとんど見向きもされず放っておいてもらえるのだが、今夜はすぐにこういうのに捕まってしまう。動こうとすると新手に見つかってしまうので、なかなか抜けられないのだ。
母と娘。あるいは、父と娘。それもどの娘もみんな、二十代の似たような年頃だ。声をかけてくるのは決まって親のほうで、話題の中心は、「うちの娘」のことばかり。そうしてその娘たちをずいっと前に出して、おれに向かって挨拶させる。
表面上はそつなく彼女たちの相手をしながら、おれは溜め息を押し殺した。
……そりゃ、ここまで来たら、イヤでも判る。
つまりこれは、「おれ」対「複数の女性」との、非公式見合いだ。
これもまた、母親の陰謀か。ハルさんとのお試し見合いがなかなか終了せず、次の正式な見合いを持ち出せないのが歯がゆくなってきて、この機に乗じて画策したに違いない。
今になってよくよく見渡してみれば、会場内には、通常の桜庭宴ではまずほとんど招待されないような、着飾った若い女性の姿があちこちで散見される。いずれも家柄に申し分のないような、良家のお嬢さんばかりなのだろう。これがすべて、母の鶴の一声で集められた、おれの見合い相手なのかと思うと、空恐ろしいものがある。
しかしそうと判れば、これ以上この場にい続ける理由はない。次から次へとやって来る女性の全部を相手していたら、いつまで経ってもハルさんに会うことは叶わないではないか。
おれはなんとか目の前の二人から逃げだすと、客たちに囲まれている自分の母親の視界に入らないように、こそこそと移動を開始した。
***
「お兄さん、逃げる気?」
愛美に見つかった。
色合いは華やかだが、丈が短めのふんわりとしたドレスを着ている。さっきの二人連れのように目が眩むほど飾りつけてはいなくて、ほっとした。あれだとキラキラしすぎて、目立ってしょうがない。
「はじめからずっとシャンパングラスを手に持ってるだけで口をつけないから、車に乗るつもりなんだなと思ってたのよ。ずるいわね、いつも自分だけ、そうやってパーティーから脱走するんだから」
そりゃ逃げる。特に今日は、集団見合いだからな。
「お前も抜ければいいじゃないか」
口を尖らせて文句を言う愛美に言い返すと、さらに眉を上げられた。
「スーツだけ着ていればいいお兄さんとは違って、私はドレス姿なの。この格好で、どこに行けっていうの?」
「そりゃそうか」
不便だなあ、と少し同情した。実はおれも母親に毎年、「タキシードを着ろ」と言われているのだが、それを断っているのは、さすがにタキシード姿でここを抜け出して往来を闊歩する度胸はないからだ。
「お兄さん、どこに行くつもりなの?」
「……ちょっと、花見」
ぼそぼそと答えると、愛美は、はあ? という顔をしたが、すぐにピンときたらしい。
「ハルさんとね」
断定口調で言われ、否定しないでいると、途端に駄々っ子のように羨ましがった。
「いいなあー、私もハルさんと会いたい。一緒に行っちゃダメ?」
「ダメ」
「なによ、そんなに露骨に邪魔者扱いしなくたっていいでしょ」
愛美は鼻白む顔になったが、すぐに、しょうがない、というように溜め息をついた。
「いいわよ、じゃあ、お母さんに聞かれたら、上手いこと言っておいてあげる。ハルさんによろしくね」
「ああ。……そういえば愛美、例の件は、どうなってる?」
手の中のシャンパングラスを渡しながら訊ねると、愛美は受け取ったそれに視線を落として、もう一つ溜め息をついた。
「今、戦闘準備中」
「それとなく、話はしてるのか?」
「なにしろ相手が聞く耳を持ってないのが問題よね。就職のしの字も、向こうの頭には入ってないらしいんだもの」
なかなか苦戦を強いられているらしい。
「母さんの前に、父さんに話をしてみたらどうだ? おれは自分の時、まず父さんに話を通したけど」
桜庭の次男が直系企業とはいえただの一社員として働くことを、母が認めるとは思わなかったからである。黙ってこちらに視線を向けてくる父と一対一で話をするのは、正直言って相当の胆力が要るが、こちらの考えに筋が通ってさえいれば、頭ごなしに反対するような人ではない。おれの時も「判った」と言われただけだったが、それでもその一言で、母の説得に時間をかける手間は大幅に省略された。
しかしそれを聞いて、愛美はますます仏頂面になった。
「いない人と、どうやって話をすればいいのよ」
「うーん……」
おれも困って頭を掻く。
父と顔を合わせるには、それなりの運が必要だ。その上、入り組んだ話をするための時間を捻出してもらうのは、さらに困難を極める。兄も引き込んで計画を立てなければ、どうしようもなさそうだ。
「いずれ、家族で話をする時間を作らないとな」
桜庭の家では、家族の対話の時間というものは、作ろうという意思がないと作れない。偶然を待っていると、年単位で先のことになってしまう可能性もある。
「智兄に話して、根回ししてもらおうか。父さんのスケジュールを把握してるのは、うちではあの人くらいだろうから。時間と場所を決めて、ちゃんとセッティングしたほうがいい。おれも智兄も、よければ同席する」
「ほんと?」
おれの提案に、愛美がひしっと縋りつくような眼差しを向けてきた。
「本当に、一緒にいてくれる? いざという時、私の味方になってくれる?」
「出来る限り」
そう応えたら、ほっとしたように顔全体を崩して笑った。愛美は愛美で、やっぱり心細かったのだろう。そこまで喜ばれると、むしろ今まであまり手を貸さずにいたことが、申し訳なくなるくらいだ。
「ありがとう。お兄さん、少し変わったわね」
にこっとしながら、愛美が言った。
「うん?」
「今まで、そういうの、自分から関わろうとはしなかったでしょ」
「……そうだったかな」
「冷たい、っていうんじゃないんだけど。なんていうか──」
「流されがちな?」
「あはは、そうね」
楽しそうに笑われて、おれも苦笑する。そこはウソでも否定をするところだぞ。
「そういうのは、さ」
「うん」
「なるべく、やめたんだ」
「そう」
目を合わせて、二人で笑った。
手の中のシャンパングラスに唇をつけた愛美が、ぬるい、と文句を言う。ただのポーズのためにずっと持っていただけのものだから、すっかり気も抜けていそうだ。
その頭にぽんと手を置いて、「じゃあ、行ってくるからよろしくな」と言うと、愛美は笑顔で小さく手を振った。
「いってらっしゃい。楽しんできてね!」
***
会場から抜けて、車庫へと向かった。
桜庭の家は、おもに家族の生活の場である「私」のエリアと、大勢の客を招んだり、何かの会を催したりする「公」のエリアに分かれている。
面積としては、比べようもないくらい「公」のほうが広く、現在の桜庭宴も当然そちらで行われている。遭難するほどではないのだが、それでも、おれの車のある「私」のほうに辿り着くまでには、けっこうな距離を歩かねばならなかった。
桜の場所と喧騒から離れると、途端にしんとした静寂に囲まれる。ところどころに明かりはあるが、派手やかにライトアップされた煌めきに慣れた目には、どこもかしこも真っ暗に見えた。
とりあえずハルさんに連絡を──と思い、早足で歩きながらスマホを取り出したら、暗がりの中から「あら」と誰かの声がした。よくよく今日は誰かに見つかる日だな、と観念して、そちらを振り向く。
「桜庭の……哲秋さん、でしょう?」
「はい」
返事をしてわずかに目を眇めると、そこにいたのはこれまた若い女性だった。ぼんやりと全体が白っぽく見えるのは、淡い色の着物を着ているからだ。
「わたくし、さきほどご挨拶した……です」
おれの怪訝な表情に気づいたのか、女性は自分の名を名乗った。暗くて判らないのだろう、と思ったのかもしれないが、おれは本当にその女性の顔も名前も覚えていなかった。
客の中には、着物姿の女性も多くいて、そのうちの何人かと挨拶を交わしたのは間違いない。しかしおれの思考はずっと、いつになったらここを抜けられるのかな、ということに占められていたので、やり取りの中身は、言葉を出すそばから忘れていくような有様だったのだ。
「こんなところで、どうされました?」
それはそれとして、主催者側としては、一人はぐれた客を放っていくわけにもいかない。仕方なくそう訊ねると、彼女は恥じらうような素振りをした。
「ちょっと、人に酔ってしまって」
「はあ」
酔うほどの人だかりではなかったはずだけどな。
「少し散歩でもしようかと思って、お庭を見せていただいていましたの」
「そうですか」
戸外での催しとはいえ、一応、このあたりはパーティー会場外、ということになっている。招待客のためにセキュリティの大半は切ってはあるが、他の場所をうろつくのはあまりマナーが良いとは言えない。ここは個人の家の敷地内であるわけなのだし。
「桜庭のおうちが広いとは伺っていましたけど、ここまでとは思いませんでした。どちらを向いても整って、素晴らしいお庭ですね」
「恐れ入ります」
一年に一人は行方不明者が出るらしいですからね。
「さぞかし、お家の中も素敵なんでしょうねえ」
「そうでもないですよ」
実のない会話だなと思うのだが、女性は話を打ち切る様子も見せず、口を動かしながら、少しずつにじり寄るようにしてこちらに近づいてくる。おれは曖昧な表情を保ったまま、二、三歩後ずさった。
「そろそろ戻られたほうがよろしいんじゃないですか。お連れの方が心配されているといけませんし」
この女性の連れが、果たして母親なのか父親なのか、それ以外の誰かなのかということも判らないのだが、おれはそう言って会場のほうへ目を向け促した。挨拶をしたということは、その連れとも顔を合わせたはずなのだが、本気で覚えていない。
女性はちらっと同じほうを見て、再びこちらに顔を戻し、またしても恥ずかしそうに笑った。
「あちらまで連れて行っていただけます?」
連れて行くもなにも、すぐ目と鼻の先ではないか。そちらに顔を向ければここからでも煌々とした明かりが見えるし、耳を澄ませば、談笑の声がちゃんと聞こえてくるくらいだ。いくら広くたって、家の庭に危険があるとも思えない。
「申し訳ないんですけど、ちょっと急いでいまして」
「あら、どちらへ?」
「家のほうに」
「え、ここもお家では……ああ、ご家族のお住まいの棟のほう、ということですか」
「はあ」
「わたくしもご一緒してよろしいかしら?」
なんで。
と言いかけたのを呑み込んだ。恥ずかしそうな態度をとるわりに、ものすごい勢いで、プライベートに突進してくる人だな。
きっと、この女性も今夜の不特定多数の見合い相手のうちの一人なのだろう。父親か母親かに、いろいろと強く言い含められてきたのかな。
桜庭の次男を落としてこい、と。
この人なりに、一生懸命なのかもしれないと思うと、少し気の毒になる。ハルさんのことが頭にあるから、なおさらそう思う。
だから、正直に言うことにした。
「実を言いますとね」
「はい」
「これから、デートの予定があるんです」
おれの言葉に、女性はぎょっとして目を見開いた。「え……あら」と動揺したように口ごもる。小さな目が、ぱちぱちと何度か瞬きを繰り返した。
「哲秋さんには、恋人が」
「いえ、恋人ではないんですけど」
と言ってから、考える。
ハルさんは、恋人ではない。でも。
「……好きな人が、いるんです」
おれがそう言うと、相手はまたぱちりと瞬きをした。
「これからその人と会う約束をしているので、あなたのお相手はできません。申し訳ありませんが」
「…………」
女性はおれを黙って見つめてから、ちらっと後方の賑やかなほうへと顔を向け、またこちらに向き直った。
「あそこにおられる女性たちとは、別のかたですか」
家の格式その他において、おれの母親の審査をパスした女性らとは別の人なのか、という質問だ。
「そうです」
「…………」
また黙る。
それから彼女が目をやったのは、庭とは反対にある建物のほうだった。中ではいつもの三倍近くいる手伝いの人たちが忙しく働いているのだろうが、ここからは物音も聞こえず、長く連なる分厚いガラス窓の向こうには、延々と続く廊下と、そこに漏れる薄っすらとした明かりしか見えない。
「……広いおうち、広いお庭、わたくしの家の数倍はありそうです」
ぽつりと独り言のように言ってから、ようやくこちらを向く。
上目遣いになって、もじもじと言った。
「わたくしは、幼い頃から、恋愛と結婚は別だということを教えられて育ちました」
「…………」
そう来たか。
今度はおれが無言になる番だ。女性の顔つきには、はっきりと桜庭という家への未練が──という言い方が悪いなら憧れが──覗いている。
この人の目にも、おれは「桜庭」に付属しているもの、としてしか映っていないのだろう。
「そういう考えの人もいるでしょうね」
「哲秋さんは、そうではありませんの?」
「おれはまだ、結婚というものがどういうものかよく判っていないんですけど、その二つを切り離して考えたことはありません」
「わたくしは、結婚相手に愛人がいても妾がいても、気にいたしません。はしたなく怒ったりもいたしません。だってそういうのも、男性の甲斐性というものですし」
「それは、おれの思う結婚生活とはかけ離れていますね」
おれの返事に、女性はひどく不思議そうな表情になった。心底から、意味が判らない、というようなその顔を見て、おれも不思議になる。
……この人にとって、「結婚」とは、一体何なのだろう。
「今日は、桜庭のご次男が結婚のお相手を探していらっしゃると聞いて、ここまでやってまいりました」
「すみませんでした。でもそれは、おれの意志じゃありません」
「わたくし、桜庭家の一員として上手にやっていけると思います。口答えもしない、貞淑な妻になれる自信がありますもの。夫を立てて、万事において控えめにいたします」
口答えひとつしない貞淑な妻、というものを、おれが望んでいると信じて疑わない口ぶりだった。
「あなた自身は、それを望んでいるんですか」
「もちろんです。だって、それが女の幸せというものなのでしょう?」
「あなたの幸せは考えないんですか」
「は?」
「…………」
長い息を吐きだす。愛美の苦労がよく判った。根本的なところで噛み合わない相手と話をするのは、とてつもない忍耐が必要だ。
おれはそれ以上の我慢をする必要を感じなかったので、早々に会話を続けるのを放棄することにした。
「──つまり、桜庭の息子という存在は、あなたの人生を楽しいものにするかもしれない、と」
「ええ、そう、そうです」
「でも、あなたには、おれを楽しませることは出来ないでしょう?」
「え?」
きょとんとする女性に向かって、おれははっきりと言った。
「あなたはおれに、楽しい人生を与えることは出来ない、多分ね」
そういうことなので失礼します、と一方的に言って、くるりと背中を向ける。
ぽかんとしたままの相手を放って、すたすたと歩きながら、今度こそスマホを操作して耳に当てた。
「ハルさん?」
ようやく聞けたその声に、笑みを浮かべて名を呼んだ。