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はるあらし  作者: 雨咲はな
本編
24/45

24.清算の日



「……なんのこと?」

 たっぷり一分間ほど黙ったあとで、深雪の口から出たのはその言葉だった。

 別れてから、もう半年以上が経過している。深雪は見た目としてはそう変わりはなかった。髪型が変わり、化粧が変わった、それくらいか。

 こんな用件で呼び出されたというのに、いやだからこそなのか、ぴっちりと隙のない化粧を施し、高価そうなツイードのスーツを着て、隣の椅子には一目でブランド名の判るバッグを置いている。それが彼女流の、戦闘態勢ということなのだろう。

「判ってるはずだ」

「判らないわ」

 おれはほとんど無表情で彼女を見据えたが、あちらも負けずにまっすぐ見返してくる。硬い顔つきながら、その目には、依怙地なほどの強い光が居座っていた。

 ウェイトレスが、運んできた水を、ことりと音を立てておれの前のテーブルに置いた。「ご注文は」と訊ねられる前に、そちらを一瞥して軽く手を挙げる。バイト店員らしい若いその女の子は、少し戸惑ったような顔をしたものの、おれと深雪とを素早く見比べると、ぺこんと頭を下げて立ち去った。

 その経緯を見て、深雪の細い眉が、ほんのわずか、ぴりりと上がる。

「人をいきなり呼びつけておいて、時間をかけるつもりもないってこと?」

「おれは、お喋りをしにきたわけじゃない」

「ずいぶん上から目線の物言いね。自分は何もせず、私の友達に連絡を取らせて。おかげで、あれこれ聞かれて恥をかいたわ」

「それは悪かった」

 おれは深雪の連絡先を知らない。以前の携帯や実家の番号はすべて自分の手で消去してしまったし、現在どこに住んでいるのかもよく知らないままだ。だから葵の手を借りて、葵の元彼女で深雪の友人の女性に繋ぎを取ってもらった。

「第三者に仲介を頼んだ、というのは事実だから、その点に関しては謝る。でも、どうしても大至急、君と連絡をとる必要があった」

「私にはないもの」

「おれにはある。──今すぐ、君がしているおかしな行動をやめてもらうために」

 綺麗に彩られた唇をぎゅっと引き結んで、深雪はまるで睨むようにおれを見た。おれが身じろぎもせずに受けていると、その視線は、ふい、と虚空へ逸らされた。

「なんのことか、判らないって言ってるでしょう」

「おれの見合い相手に、興信所をつけただろ」

「あら、あなた、お見合いしたの。ふうん」

 目を逸らしたまま、深雪の唇の端が少しだけ吊り上がる。

「私と別れて、他の人と真面目に結婚を考えるようになったわけね。よかったじゃない。そんなの、初耳だけど」

 あくまでシラをきる深雪に、おれは溜め息をついた。

 こうなることは予想していたが、想像していたよりもずっと忍耐力が要る。内部に募っていく苛々を、果たして最後まで抑え込んでいられるだろうか。

「君には君のツテがあるように、おれにはおれのツテがある」

「なんの話?」

「君に興信所を雇うことが出来たなら、おれにだって同じことが出来るとは思わないのか?」

 深雪が動きを止めた。

 こんなの、もちろんハッタリだ。依頼人が深雪であることは、ハルさんを尾けていた男に直接聞いて知った。


 ──白石って、若い女だよ。偽名を使うほどの悪知恵はないようだったからね、多分、本名だろ。

 下の名前は……ええと、なんつったかな、ミ……ああそうだ、深雪、だ。


 「白石」は、おれが知っている深雪の姓とは違う。でもそれは、そこだけ偽名を使ったわけじゃない。彼女の現在の姓、結婚してから変わった、新しい姓なのである。

 おれに依頼人の身許を漏らしたことを、あのしたたかそうな男はもちろん黙っているだろう。これからも絶対に口を割ることはない。深雪も、興信所も、知らぬ存ぜぬで通して逃げきることは可能だ。

 また同じようなことを繰り返すことも。

 ……そんなことにはさせない。

「彼女が、変なのにつきまとわれてるようだから、こちらでも調べたんだ」

 淡々とした調子でそう言って、じっと様子を観察する。彼女、と呼んだところでぴくりと指先だけ反応した深雪は、頑として目を逸らしたままだった。

「君が頼んだ興信所より、もう少し腕のいいところに頼んでね」

「へえ」

 面白そうに上がった唇が、かすかに震えていることに、自分だって気がついているだろうに。

 何も知らないのなら、どうして君はここに来た? 断ることも、理由を問うことすらもせずに。

 「応じてもらえないのなら、別の方法を考える」、というおれの伝言を受け取って、心配になったからだろう?

「桜庭のおうちは、興信所なんて使ったりするの? あんな大きな家なんだから、そうやって調査をしたりスパイしたりする専門の人がいるんじゃないの?」

「どう思ってくれてもいいよ」

 少々、物語やドラマの影響を受けているのではないかなとは思ったが、おれは敢えて否定はしないでおいた。実際、父親が専門の調査機関を持っていたとしたって、そんなものを、おれが個人的に動かせるわけがないのだが。でもこの場合、どこか現実離れした「影のスパイ」みたいなものを深雪が想像しているのだとしたら、かえってそのほうが都合がいい。

「とにかく、おれはそうやって調べて、彼女を尾け廻しているのが、ストーカーなんかではなく、誰かに雇われた興信所であることを突き止めた。どこの興信所なのかも知ってる」

 本当のところ、おれは深雪が頼んだ興信所がどこにあるのか、あの男がなんという名前の事務所に所属しているのかも知らない。

「それを依頼したのが、君であることもだ」

「私、知らな──」

「証拠もある」

 おれはどうやら、自分で思っていたよりも、ペテン師の才能に恵まれていたらしい。眉ひとつ動かさずについた嘘に、深雪は見事にひっかかった。

 驚いたように目を見開き、ぱっとこちらを向いた顔から、さらに色が抜けた。何かを言おうとした口が、中途半端に開いて止まる。

 大人の目を上手に掠めてイタズラをしていたつもりの子供が、実はすべてバレていたのだと知った時、きっとこうなるのだろう。

「おれの手許に、一式、書類が揃ってる。興信所を使って他人の身辺を探らせる、という行為が罪に当たるかどうかは判らないが、世間的に見て、あんまり褒められたものじゃないってことくらいは判る。この事実をぶちまけられたら、君だって困るんじゃないのかな」

「…………」

 深雪が蒼白になって視線を泳がせた。

 彼女を騙していることに、カケラも罪悪感を覚えなかったといえば、やっぱり嘘になる。それでも、おれは退いたりしなかった。

 目の前で、痛々しいほど青褪めて震えるこの女性に、山ほどの嘘をついても。

「この件について、君のご主人と話をすることも出来るけど」

 こんな風に卑怯な脅迫をして、嫌われても、憎まれても。

 間違えたりしない。心を揺らしたりしない。


 現在のおれが優先するのは、ハルさんだ。


「……やめて」

 呻くような小さな声が、深雪の口から出た。



          ***



 ──あなたとあの人が一緒にいるのを見たの、と深雪は俯きながら言った。

 やっぱりか、とおれはひそかに息を吐く。

 ハルさんと話している時に、ホテルで見かけたあの女性。あれはやっぱり見間違えでも似た誰かでもなく、深雪本人だった。おれが気づくよりも前から、彼女がこちらを見ていたように思ったのは、気のせいでもなんでもなかった。

 深雪は、あの時のおれとハルさんを、ずっと見ていたのだ。

「私だって、あなたのことなんて、もう忘れかけてたのよ」

 ふっと皮肉な微笑を乗せて、そう言う深雪の言葉に、嘘はないのだろう。

 彼女はもう人の妻だ。新婚で、見る限り、苦労している様子もない。社長の息子だという結婚相手にも、向こうの家にも、もう一人の交際相手のことなんて何も言わないまま、深雪は素知らぬ顔で嫁入りをしただろう。結婚式は豪華で盛大で、新婦の席に収まった深雪は、さぞ光り輝くばかりの喜びに満ちていたに違いない。

 おれにすべての責任を押しつけて、深雪は、自己を顧みることも、過去を振り返ることもしなかった。多分、故意に、そこから目を逸らし続けていた。

 思い出すだけでも屈辱で、腹が立つ。そして、胸の一部が痛む。そういう対象は、心の中から抹消してしまうしかないからだ。閉じ込めて、固く蓋をして、決して触れることなく。

 ──だからこそ、突然、再び目の前に現れた亡霊に、動揺した。

 おれと同じように。


 そう、それだけのことだった。


「……あなた、すごく楽しそうに笑ってた」

 深雪がぽつりと呟く。

「一緒にいるのが、新しい恋人なのかな、って思ったの。少しよそよそしい感じもあったけど、あなたがその人に好意を抱いているのは、一目見てすぐに判った」

「……そう」

 肯定とも否定ともつかない返事をするおれに、深雪は顔を上げて、少し意地の悪い笑い方をしてみせた。

「そうよ。私と付き合ってた時でさえ、あんな風に笑うところ、見たことなかったもの」

「…………」

 それはどうかな、と正直なところ思う。

 それは君が、そういう気持ちで「過去」を見ているからじゃないのかな。おれと深雪の間でも、楽しかったこと、笑い合ったことは、それなりにたくさんあったはずだ。

 ──でも、それはもう、終わってしまったことだから。

 どうにでも、形を変えてしまうんだ。

 そしておれは、今さら口に出してそこに異議を唱える気にはならない。おれにとっても、もうそれは、記憶の下のほうで、静かに風化するのを待つだけのものに成り果てている。

 それを今、はっきりと自覚した。

「あの人と、結婚するのかな、って思ったら」

 深雪の口元に浮かんでいた笑みが歪む。同時に、目元も歪んだ。

「なんだか、たまらなく悔しくなったのよ。本当だったら、あそこにいるのは私だったかもしれなかったのに。少しだけ道を変えれば、桜庭の姓を持つのは、私だったはずなのに」

「……白石の姓に変わって、君は幸せなんだろ」

「ええ、そうよ」

 挑むような瞳が向けられる。別れを切り出して、「幸せになれそうな道を取って、何がそんなに悪いの?」と言い切った時と同じものだった。

「幸せよ。夫は私を甘やかしてくれるし、好きなだけお買い物したって文句も言われないわ。妻はいつまでも綺麗でいてほしいって、服を買っても、エステに行っても、怒られたことなんてない。部屋をきちんと整えて、美味しい料理を作って、私がニコニコしていれば、夫は満足なのよ」

「君の望んだ幸福だ」

「ええそうよ、その通りよ。でも、それでも──どうしても」

 考えずにはいられなかった、と低い声で言う。

「あなたを選んでいれば、もっと、大きな幸せがあったんじゃなかったかって。中小企業の社長の息子と、いくつもの企業を抱える巨大グループの総帥の息子とじゃ、比べ物にならないんじゃないかって、頭の中で声がするのよ。今よりもずっと幸せになれたかもしれなかったのに。なれたはずだったのに。あなたがちゃんと最初からそう言ってくれさえすれば、私、私……」

 そこで唇を噛みしめ、深雪は目を伏せた。

「──だから、おれと付き合っている相手のことを、調べずにいられなかった?」


 悔しくて。憎たらしくて。腹立たしくて。

 隣の芝生が自分のところよりも青々として眩しく見えて。

 勝手に自分が下にいるように思い込んで、そのことに我慢がならなくて、せめて相手のアラを見つけることで満足しようとした?


「君にとって、『誰かよりも上にいる』っていうのは、そんなにも生きていく上で重要なことなのか?」

「あなたには、判らないわよ。生まれた時から、他人よりも上にいる人には」

「判らないね」

 冷淡に返した。

 傲慢であろうとなんだろうと、おれには判らない。

 判りたいとも、思わない。

 何をどう話し合おうとも、おれたちはその点で、判り合えることはないのだろう。

「……あの人と、結婚するつもりなの?」

 テーブルの上のアイスティーを見つめて、深雪がぼそりと訊ねた。

「君には関係ないことだよ」

「でも、あの人……」

「聞きたくない」

 ぴしゃりと遮ると、口を噤んだ。

 ハルさんに、おれの知らないどんな事情があろうと、おれに言わないでいることがあろうと、それは深雪の口から聞くべきことじゃない。

 深雪はそれ以上は何も言わず、黙ったまま、身動きしなかった。

 彼女にも、自分のしていることの愚かさに対する自覚くらいはあるだろう。そこに悪意がまったく存在していなかったとは言わないが、弱みを探って脅そうとか、そんなことまで考えていたとは思えない。

 ただ、その独りよがりな憤懣を、心の中に留めておくことが出来なかっただけ。手首を剃刀で切った時と同じ、一時の衝動に駆られて、この先への考えもなく行動に走った、それだけのことなのだろう。そうすることによって、周りが傷つくことにも頓着せず。

 深雪の中身は、幼い子供だ。

 今になってみると、彼女の持つ、弱々しそうなところ、頼りなさげなところ、危なっかしそうなところは、そういうところから来ているのかもしれない。子供だから、幸福に対して貪欲でありながら、自分の手の中にあるものが、指の間からすり抜けていることにも気づかない。

 それが悪いと言っているわけじゃない。

 ──おれには、その考えや価値観にはまったく同意できない、というだけの話だ。

 深雪と付き合っていた頃、おれは、彼女が望む幸福、というものを、まったく理解していなかった。おれが望むそれと、あまりにもズレている、ということにも気づかなかった。

 おれは深雪の家庭的なところに惹かれたが、求めていたのは、ただお金を与えて甘やかしていればいい妻、というものではなかった。生涯の伴侶のつもりで結婚した相手と、見ているものがまるで違っていたと知ったら、おれはきっと深く失望していたはずだ。

 すとんと腑に落ちるように、納得した。


 ……どちらにしろ、おれたちは上手くいくわけがなかったんだ。

 桜庭の名があろうがなかろうが。


 彼女の夫は、こういう妻を愛して、大事にしているという。

 それでいいじゃないか。

 深雪の選択に、間違いはなかった。

「おれは君に、こんなことはもうやめてくれと頼みに来たわけじゃない」

 その言葉に、深雪が訝しげな顔を上げる。

 見知らぬ男に尾け廻されて、ハルさんがどんな気持ちでいたか、同じ女性として、深雪は想像もしたことがなかったのだろうか、とおれは不思議に思った。

 内心をそのまま表に出す人ではないけれど、ハルさんだってきっと、怖い思いをしたに決まっている。桜庭の関係かもしれないからと、黙って赤の他人の視線に耐えていたその期間、彼女の不安はどれほどだっただろう。

 深雪はそれを、考えることもしなかったのか。

 自分のことしか頭にない。自身に対する憐みはあっても、それが余所へ向こうとしない。悪いのはいつだって、自分ではなく、他人。

 おれと別れた時から、深雪は何ひとつとして、変わっていない。

 もう、いいよ。

 変われないのなら、君はそのままでいればいい。どうでもいい。おれはそこには関知しない。

 ……でも、これ以上、その身勝手さに、ハルさんを巻き込ませることは、許さない。

 おれは深雪を正面から見据えて、強い口調できっぱりと言い渡した。


「──二度とこんなことをするな」


 深雪の表情が強張る。

「興信所なんてものを使うのも、彼女に近寄るのも、今後、絶対にするな。現在依頼をしている件については即刻取り下げて、今までに得た彼女についての個人情報をすべて破棄することを約束してもらう。もしまた同じようなことをしたり、情報がネットに流れたりして彼女が少しでも傷つけられるようなことがあれば、その時は、おれは容赦しない」

「よ……容赦しない、って」

「白石金属、だっけ? いずれ君の夫が継ぐことになる会社」

「…………」

 その名を口にすると、ただでさえ血の気の失せた深雪の顔が、白っぽくなった。

「今後も、不自由なく買い物できる暮らしを続けたいんだろ? 継ぐべき会社がなくなったら、困るのは君だと思うけど」

「……あ、あなたに、そんなこと」

「そうだね、おれには、ひとつの会社を潰すことなんて出来ない」

 目を細く眇めた。

「──でも、『桜庭』には出来る」

 唐突に、ガタン、という大きな音を立てて、テーブルにぶつかりながら深雪が椅子から立ち上がった。

 置いてあったバッグをひっつかみ、無言でおれの脇を足早に通り過ぎていく。

 確約をもらいたかったところだが、この顔つきからして、きっとすぐにでも、興信所に依頼の取り消しをするだろう。自分とは無関係のところで、ハルさんの情報が流出でもしないようにと、祈るような気分でしばらく日々を過ごすことが、せめてもの罰だ。

 乱暴に店のドアが開けられる音を背中で聞きながら、おれは「お幸せに」と、小さな声で呟いた。



          ***



 少しして、ぽっかり空いたおれの前の席に、改めて座った人物があった。

「お疲れさんでした」

 軽い声に、苦笑する。

「心配性だな、葵。わざわざ見守りに来るなんて」

「俺って友達思いだからねえ」

「ヒマなんだろ、実は」

 なにしろ、おれがこの店に到着する前からスタンバイしていたくらいだからな。入ってすぐ、奥の座席に、この目立つ茶髪と相変わらずチャラい格好をしている葵の後ろ姿を見た時には、かなり脱力しそうになった。

「だって、哲は優しいからさ。あの女にほだされちゃうんじゃないかと思うと心配だったんだよ」

「おれは別に優しいわけじゃないよ。いろいろと優柔不断なだけだ」

 あはは、と葵が笑う。

「それは威張って言うようなことじゃないけど。哲はね、優しいよ。でもその優しさは、時々方向性を間違えるからさ」

「今回は、間違えなかったかな」

「うん、大丈夫。ちゃんと合ってたよ。あの女もね、哲のそういう優しさに気づくようだったらよかったんだけどね。でもあの調子じゃあ、気づくまでにあと十年以上はかかりそうだよね」

 その言葉には何も答えずに少し笑う。おれは実際に自分のことを優しいだなんて思いはしないし、深雪にもそんなことは思ってもらわなくて結構だが、この先彼女が、いろんなことに気づくようになるといいな、とは思っていた。

 ──きちんと自分の幸せを見つけられるようになるといい。

「やっぱり、直接顔を見て話せてよかったよ」

 きっと、電話ではこんな風にはいかなかっただろう。声だけでは、深雪はああもあっさりと自分のしたことを認めなかっただろうし、おれも途中で感情が出てしまっていたかもしれない。そうなればもう、こじれるばかりだった。

 別れ方がまずかったせいで、おれと深雪との間には、ずっと残っていたものがあった。すでにもう恋愛の実態はまったくなかったにも関わらず、二人してずるずると影ばかりを引きずり続けた。どちらにも非があることを認めたくなくて、抑え込んで、見ないフリをした。おれは逃げて、深雪は自分を正当化して。

 時間を置いてから、ようやく判ることもある。

 多分おれたちには、もう一度、こうして顔を合わせて話をすることが必要だった。


 きっちりと過去を清算して、その上で前へと進んでいくために。


 葵はそれを聞いて、にっこりした。

「それはなにより。俺も元カノに電話して、復縁を迫られたりした甲斐があったよ」

「…………」

 そんなことになっていたとは知らなかった。

「悪いな、面倒なこと頼んで」

「いいっていいって。面白かったしね」

「またそれか」

「だってさあ」

 くつくつ笑って、からかうように俺を見る。

「……桜庭の家って、ぜんぜん自分のとこに関係ない会社を潰すことなんて、出来るんだ?」

「出来るわけないだろ、そんなこと」

 おれは照れ隠しにつっけんどんに返し、それから葵と二人で大笑いした。




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