20.現在のその先
ハルさんは本当はなんて言おうとしたんだろう。
もう彼女の声を伝えてくることのない、通話終了、という素っ気ない表示のある画面を見ながら、おれはしばらく考える。
何か──もっと別のことを言おうとしたのを呑み込んだ、という感じがしたのだが。
そこまで思った時、再び着信音が鳴ったので、ぎょっとした。
着信の音量は抑え目にしてあるとはいえ、他に人のいない、しんとした階段では必要以上に大きく響く。妙に悪いことをしているような気になって、おれは慌ててスマホを耳に当てた。
「おう哲か、俺だ俺」
「兄さん?」
よく通る声が鼓膜に突き刺さるように届いて、思わず顔をしかめて問い返す。
兄の声は、上に立つことに慣れている人間のそれである。自信に満ちて、大きくて、遠慮というものがない。ついさっきまでハルさんの柔らかい声音を聞いていた身には、はっきり言ってやかましい。少しだけ、スマホを耳から遠ざける。
「仕事中か?」
「いや、終わったところだよ」
「それにしちゃ、今、迷惑そうな声を出したよな」
兄は他人の気持ちを読み取るのが得意なのだった。気のせいじゃない? ととぼけておく。
「兄さんがおれに電話してくるなんて珍しいね、何かあった?」
「うん。いや、お前、最近、仕事が忙しいんだって?」
「…………」
二回目なので、さすがにぴんときた。
「母さんに、何か言われたんだ?」
溜め息とともに訊ねると、スマホの向こうから、まあな、とくくっと笑いを含んだ肯定が返ってきた。こちらはやはり、母の性格を知っているだけあって、そのまま鵜呑みにするようなことはなかったらしい。
「哲の会社は、社員がノイローゼになるような過酷な労働をさせるところなのか、厳しく調査せよってお達しがあったんだよ。そんな企業は桜庭グループの恥だってさ。お前、母さんの前で何したんだよ」
「おれが聞きたいよ」
確かに、昨夜の自分は、考え事をしていたせいで、母親の話をろくろく聞きもしなかった、という自覚くらいはある。
でもだからって、それだけで「ノイローゼ」なんて結論を出すか、普通? そこから一足飛びに、兄や見合い相手に注意喚起をするか? その前にせめて、本人に聞くとか、様子を窺うとか、そういう通常の手順をなぜ踏まない?
おれがぶつぶつとそう零すと、兄は可笑しそうに噴き出した。
「今さらだろ。そもそも、母さんがそういう人だから、お前は見合いをさせられたんじゃないか」
「…………」
そうだった。母は、二十八になった息子に結婚の意思がなさそうだ、というだけで、同性愛疑惑と性的不能疑惑を勝手にかけて、強引に見合いをさせた人なのだ。
その偏向した思い込みの激しさと、一気に行動に突っ走る短絡思考のおかげで、現在のおれはふらふら迷ってばかりの羽目になっているのである。
「そういえば、見合いのその後はどうなんだ? ハルさんだっけ、付き合うお芝居はまだ続けてるのか?」
思い出したように兄に言われて、おれも思い出した。
ああ、そうだ。お芝居だ。ハルさんとおれとは、そういう関係だったんだっけ。
「……うん、まあね」
一瞬の空白にあった複雑なあれこれを、多分、兄は正確に読み取ったのだろう。「そうか」という無造作な返事の中には、わずかな笑みが混じっているように感じられた。身内にこういう敏い人間がいるというのは、時々、居心地が悪い。
「俺も一度、会ってみたいな。愛美は会ったんだろ?」
「あれ、聞いたの?」
いつの間に、ときょとんとした。
しかし考えてみれば、最近、おれは愛美とも、ほとんど顔を合わせていないのだった。同じ家に暮らしているとはいえ、桜庭の家では、昔から、家族団欒というものは無きに等しい。食事も別々にスミさんが用意してくれるから、生活サイクルの違う大学生と会社員の間では、その気にならないと接点を持つのはなかなか難しかった。
「この間、家族で桜庭に顔を出しに行ったんだよ。お前は仕事でいなかったけど」
ははあ、母親を避けて、逃げ回っていた一カ月の間のことだな、とおれは思った。
「その時、愛美とちょっと話す機会があってさ。就職したいんだって? もしも今後、母さんとバトルすることになったら、援護射撃よろしくね、って念を押された」
「そっか」
顔を合わせない間にも、愛美は愛美で頑張っているらしい。今のうちから兄を味方に引き込もうとしているあたり、なかなか賢明だ。おれももう少し身を入れて相談に乗ってやったほうがいいのだろうか。
「なんでも、愛美は、ハルさんにえらく感銘を受けたみたいでさ。あんな風になりたい、って思ったんだって。張り切ってたぞ」
「へえ……」
おれは曖昧な相槌を打つ。
あんな風に、って、妹がハルさんみたいになられても、それはそれでちょっと大変なんじゃないかという気がするが、口にはしないでおく。まあ、愛美はハルさんの中身をあんまり知らないからな。おれだってよく知っているわけじゃないけど。
「ハルさんは働いてるんだな。俺、それを聞いて少し意外に思ったよ。俺の見合いの時は、母さんが連れてくる相手は、家事手伝いの箱入り娘ばっかりだった」
そういえば、兄の妻の蒔子さんもそうだったな、と思い出した。
実家は大きな病院を経営しているということで、大らかで明るい性質の義姉は、いかにも世間の風に当たったことのないようなお嬢様タイプの女性だ。温和で、愛情深く、少々天然ボケも入っている蒔子さんを、兄はまるで手の平で包むようにして大事にしている。
「兄さんがしてきた見合いと、おれのこれとは違うからね」
兄の場合はすべてが正式な「お見合い」、おれのは最初の様子見の「お試し見合い」だ、違うに決まっている。母親の予定としては、これからおれのところにも、そういう相手を山のように用意する心積もりなのだろうが。
……と思ったところで話の方向を変えた。今はそんなことは考えたくない。
「ハルさんは、お父さんの会社で働いてるんだ」
「お父さんの──ってことは、桜庭傘下の会社?」
「おれ、そんなことまで兄さんに言ったっけ?」
「言ってたよ。だからハルさんのほうからは断る選択肢がない、っていう話だっただろ。そういや、会社名までは聞いてないな」
おれはそもそも、兄にどこまで話していたんだったかな、と記憶を辿った。
そうそう、ハルさんの父親が桜庭グループの会社の社長で、という話はしたものの、社名までは言っていないのだったか。大体、おれだってハルさんがそこに勤めているということは、釣り書きを見て初めて知ったのだし、その釣り書きは、兄に会った後で、スミさんから手渡されたのだ。
「もしかして、おれ、ハルさんの本名も言ってなかったかな」
「そうだよ。お前、ハルさん、ハルさん、ってずっとそればっかりだったぞ」
兄に笑われ、おれは顔を赤くした。そうだっけ?
「菊里春音さん、っていうんだけど」
その途端、スマホの向こうが沈黙した。
「……菊里?」
少ししてから問い返され、おれは眉を寄せる。
兄の声からは、明らかに、さっきまでの楽しむようなトーンが消えていた。
「兄さん?」
「菊里商事か」
兄は、おれの言葉を無視して、質問を重ねた。おれはよく知らないが、桜庭の若獅子と呼ばれる時の兄は、こういう言い方をするのではないかと思うような、逸らすことを許さない口調だった。兄として接している時には出されたことのないその声音に、いささか戸惑う。顔が見えないからなおさらだ。
そうだけど、とおれが肯定すると、兄は再び黙り込んだ。
兄は後継者として、父のすぐ間近で働いている。だから、当然グループ内の企業のことくらい知っていて不思議はない。でも──
……どうして、菊里商事の名前に、こんな反応をするのだろう?
「なんだよ。何かあるの?」
つい、こちらも性急なくらいの口調になって問い詰めたが、向こう側にいるのは、そんなことに動じる相手ではない。うんともすんとも返ってくるものはなかった。
しばらくして、ひとつ、かすかな溜め息が聞こえたと思ったら、
「──俺にもそのうち、ハルさんに会わせてくれよ。じゃあな」
と、一方的に言って、切られてしまった。
ハルさんに続き、兄にも同じことをされたおれは、手の中のスマホを見て、一人取り残されたように、途方に暮れた気分になった。
***
釈然としないまま家に帰ると、出迎えてくれたのはスミさんだけだった。
「今日はお早いですね、ぼっちゃん」
「そうだね。……みんな留守?」
母は何かの会合で、帰宅は遅いという。妹は友人宅で論文を書くという連絡があり(多分飲み会だ)、当たり前のように父も仕事で不在。スミさん以外の通いのお手伝いさんたちはもう帰っているので、現在、だだっ広いだけのこの家に、在宅人数はわずかに二人きりということである。スペースの無駄だ、といつものことながら思う。
「お食事はまだですか」
「うん」
「では、ご用意しますね」
「ありがとう」
パタパタとキッチン方面に向かう小さな背中に、「……スミさん」と呼びかけると、はい? と足を止めてこちらを振り返った。
「おれってさ、そんなにノイローゼっぽく見えるかな?」
「おやまあ」
スミさんは皺の多い顔に、正直に困ったような表情を乗せた。
おれを見返し、頬に手を当て、首を傾げる。
「私も、奥様に、お気の廻しすぎだと何度か申し上げたんですけどねえ」
やっぱり、スミさんにも伝わっていたか。部署内で噂になっていることといい、世間というものは、そうやっていつも本人を抜きにしたところで、勝手に固まっていってしまうものなのだろうか。
「母さん、なんて?」
「カウンセリングを受けさせたほうがいいだろうかと」
勘弁してくれ。
「私が見る限り、ぼっちゃんはお元気そうですから、もう少し様子を見てからのほうがいいんじゃないでしょうかと申し上げましたけども」
「それを聞いて、ほっとしたよ」
本心からそう言うと、スミさんは目を細めて笑った。
「ぼっちゃんがこの頃、大変にお忙しそうでしたので、奥様もいろいろとご心配なんですよ」
「──心配ね」
口の端だけ吊り上がった笑いに少し皮肉な色が出てしまったことに、自分でも気がついた。スミさんに見せないよう、くるりと踵を返して、自室に向かうことにする。
「十分ほどでご用意できますから」というスミさんの声に、ありがとう、と返しながら、階段を上った。
十分して食卓に行けば、きちんと、おれ一人分だけの食事が用意されていることだろう。スミさんは何をどう勧めようとも、家の人間と一緒に食事をすることはない。彼女は昔からおれたち兄妹にいつでも優しかったし、愛情を持ってくれてもいるが、どうやっても桜庭家の一員にはならない。なるつもりがない。そういう明確な線引きが、スミさんの中できっちりとされていて、それは今後も決して変わることはない。
家の中は静まり返っている。よそよそしい空気は、誰もいない夜遅くの会社と、ほとんど大差ない。
広い屋敷。使用人に運転手。衣食住に不足はない。恵まれすぎているくらいだ。
でも、おれは思う。きっと、兄も、妹も、思っているだろう。
子供の頃から、いつも思っていた。
──ここに、「家庭」というものはない、と。
部屋に入ると、ネクタイを緩めて椅子に座った。
机の上で、写真のハルさんがこちらに向かって微笑んでいる。
どうして、スミさんには通じるものが、あの母には通じないんでしょうね、とおれは心の中で呆れたようにハルさんに問いかけた。実際に話をしたら、ハルさんはなんて言うだろう。コロコロと笑い転げるだろうか。
血の繋がりのないスミさんでさえ、ちゃんと通じることが、実の母親には通じない。
心配? いいや、違う。
「……社員がノイローゼになるような過酷な労働をさせる企業は、桜庭グループの恥、か」
おれは兄の言葉を思い出して、呟いた。
結局それなんだよな、と思考の帰着するところに、苦々しい思いが湧き上がる。
桜庭の恥。
……結局、母親の頭にあるのはそれだけなのだ。
三十近くになって独身でいるのは、何か身体や嗜好に問題があるからなのではないかと疑うのも。
仕事が忙しすぎて、ノイローゼになりかかっているんじゃないかと気を揉むのも。
決して、おれのことを心配しているわけじゃない。
心配しているのは、おれが持つ、「桜庭の次男」という肩書だ。
──母が常に優先するべきは、桜庭という名前、そしてこの家の体面だから。
だからいつだって、おれ自身の、意志も、意見も、必要とはしないのである。本人と話をする、という基本的なことすらすっ飛ばして、外堀ばかりを埋めようとするのはそのためだ。
母にとって、おそらくおれという存在は、「桜庭の家」というものに付属している何か、でしかない。
おれは、ずっと昔からそのことを理解していた。子供の頃から判っていたし、それがもうすでに変えられないものだということも知っていた。そういうことを判った上で、この桜庭の家というものを表面上和やかに見せる程度の努力と忍耐をしてきたのだし、いろいろなものを受け流すスキルも身につけてきた。
だから今さら、それに対して失望も落胆もしたりはしない。
別にいいんだ。判ってる。知ってる。そういうものだと割り切っている。母に対して、この家に対して、期待することはとうの昔に放棄した。
けれど。
……けれど、「これから」欲しいものはある。
今まで、それがよく判っていなかった。はっきりと自覚もしていなかった。
でも、なんとなく気がついたんだ。
おれは多分、そんなに大したことを求めているわけじゃない。
人が聞いたら、笑われてしまうくらいかもしれない。
求めているのは、当たり前のこと。ちっぽけなこと。なんでもないようなこと。
昔から、憧れていたもの。
現在、おれの手にはないもの。
──未来に望むもの。
まるで怒るみたいに、何度も大丈夫かと問いかける声が、脳裏に甦る。
「…………」
おれは黙って、ハルさんの写真を眺め続けた。