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はるあらし  作者: 雨咲はな
本編
16/45

16.突発遭遇パニック



 葵はしばらくの間、無言で腕を組み何事かを考えていたようだったが、いきなり「よし」と独り言のように呟いて、スマホを取り出した。

 なんだろう、彼女にメールでもするのかな……と思いながら、おれはスマホを素早く操作する葵を眺める。さすがにこの状況で、友人を紹介だとか合コン云々なんてことは言い出しはしないだろうけど。どうでもいいが、葵は持っているスマホまで、艶やかに輝く銀色だ。ちょっと可笑しい。

「お前、よっぽどシルバーが好きなんだな」

「俺という男に似合うでしょ」

 葵がスマホから目を上げもしないで返事をした。いつの間にか、葵の前にあるカップはすっかり空になっている。

「どういう理由で似合う基準を決めているのかよく判らない。葵、コーヒーのお替りは?」

「いや、俺はいいよ。哲、そのハルさんの勤める会社ってなんていったっけ」

「菊里商事。おもに食品を取り扱う会社らしいけど」

 何も考えることなく答えながら、おれは店員を目で探した。すっかり冷めてしまったコーヒーをもう飲む気はしないので、二杯目を注文しようと思ったのだが、手を挙げる前に葵に止められた。

「哲も注文はもうしないでね。すぐにこの店出るからさ」

「なんだ、やっぱり場所を変えるのか」

 うん、と生返事をする葵の指は、さっきから止まることなく滑らかに動き続けている。女子高生なみのスピードだな、とおれは感心した。これから行く店でも検索してるんだろうか。

「今から、ちょっと移動するよ」

「そりゃいいけど。そこは、予約が要るような店なのか?」

「いや、予約なしの突撃訪問。なるほど、食品ね。花の菊に、里、か」

「……待て。お前、さっきから何してる?」

 ここに至って、この噛み合わない会話の中身にイヤな予感を覚えたおれが、眉を寄せて問うと、葵はようやく手を止めて顔を上げた。

「ここからわりと近くじゃん」

「なにが」

「菊里商事」

 くるりと廻して向けられたスマホの画面には、(株)菊里商事の所在地が表示されている。

「…………。葵、まさかとは思うけど」

 おそるおそる訊ねると、葵はにっこりとした天真爛漫な笑みを浮かべた。過去、付き合って、そして別れた数多の女性たちに、「女グセは悪いけど、あの笑顔だけは憎めない」と揃って言わしめた顔である。


「ハルさんに会いに行こう、哲」


「…………」

 あっさり言われて、おれは頭を抱えた。

「今までの流れで、どこをどうしたらそういう結論に辿り着くんだ……」

「え、そうかな。俺の中ではきっちり筋が通ってるんだけど。家に押しかけるよりは会社のほうがいいでしょ? まあ、実際、もう帰ってるかもしれないし、会える確率は半々ってところかな。今からここに行ってみてさ、まだ残業してるようだったら、夕飯を一緒にどうですかって誘ってみればいいじゃないか。いなかったら諦める。ゲームみたいで楽しいよね」

「ぜんぜん楽しくない」

「まあまあ。とにかく行ってみようよ。たまたま友達とこのあたりを通りかかったから、って言えば問題ないって。俺もよくそういう手を使うし」

「手、ってお前な。出来るわけないだろ、そんなこと」

「なんで。だって付き合ってる相手でしょ?」

「おれの話をあちこち改ざんして理解してないか? (仮)つきの付き合いだって言っただろう。表面上、そういうフリをしてるってだけのことだよ」

「だったら哲は、ハルさんに会いたくない?」

「…………」

 思わず口を閉じる。会いたくない、とは、言えなかった。

 葵は目を細めた。

「別に、そんなに依怙地になる必要はないんじゃないかな。(仮)がついていようといまいと、付き合ってることに変わりはないわけでしょ。そういう相手とさ、一カ月も連絡を取ってない状態で、どうしてるかなって気になるのはごくごく普通のことじゃない? どっちにしろ、会えるかどうかは判らないんだし、ここに行ってみようよ、哲。近くまで行ったら電話をしてみて、会えるか会えないかは、時の運、ってことで」

 軽い調子で言っているが、おれは葵の意図が判った。つまり、葵はそうやって、おれに「口実」を与えてくれようとしているわけだ。

 おれが実は、ずっとハルさんのことを気にかけているのを見抜いている。それで無理やりにでも、彼女と連絡をとる状況を作り出そうと、こんなことを言い出したのだ。

 そうやって、立ち止まるおれの背を押して、強制的に前へと押し出そうとしているのだろう。葵は友情に厚い。

「──時の運、か」

「そうだよ、行こうぜ。あーどうしよ、俺、ワクワクしすぎて踊りそう」

「…………」

 まあ、おれへの友情とは別に、純粋に事態を楽しんでいるのもあるみたいだけど。

 ふ、と短い息をつき、おれは少し苦笑した。葵のどこまでも陽気な言葉を聞いていると、いろいろと考えて逃げ回っていた自分がなんとなくバカバカしくなった、ということもある。

 ゲームか。そんな風に思えたら、よかったのだが。

「……じゃあ、行ってみようか」

 そうだ、どちらにしろ、行ってみたら会社は真っ暗、誰もいない、という可能性だって大いにある。電話をかけたところで、通じるかどうかも判らない。ましてや実際にハルさんの顔が見られるのは、確率としてはおそらく低いだろう。たまたま近くを通りがかった、という白々しい言い訳はともかく、結果は運任せ、というところがおれの気分を多少は軽くした。

 とにかく、何か、ひとつでも行動を起こしてみよう。そうしないと、おれは延々と逃げ続けなきゃいけなくなる。

 ──ハルさんはどうしてるかな、とこの一カ月の間、スマホを手に取っては何度も逡巡したのも、本当のことなのだし。

「行こう行こう」

 喜んで手を叩く葵に笑い、おれは伝票を持って立ちあがった。



          ***



 菊里商事本社は、灰色の十階建てビルだった。

 洒落た外観、とは少々言いにくい、どっしりとした趣のある建物である。このビルを建てたのは、創業者であるというハルさんの祖父なのか、それとも父親なのかは判らないが、堅実な仕事をしそうだ、という印象は受ける。

 そういえばおれは、桜庭の系列でありながら、この会社について、ハルさんに聞かされた以外のことは何も知らないなあ──と思った。父の仕事のすぐ近くにいる兄なら、詳しく知っているのだろうか。

 おれと葵は、タクシーを降りて、そのビルの道路を挟んだ向かいの歩道に立っていた。時刻は八時過ぎ、もうすっかり周囲は暗くなっているが、菊里商事の窓は半分以上がまだ煌々と灯りが点いている。

 あの中のどこかにハルさんがいるのかな、と思いながらそれを眺めていたら、葵に、「早く渡ろうぜ」と急かされた。さっきから、葵はおれ以上にソワソワしっぱなしだ。

「けっこう交通量が多いな、この道路」

「横断歩道があっちにある」

「あそこまで歩くのかよ、面倒だな。目指すゴールはすぐ目の前にあるってのに」

 ゴールかどうかは判らないじゃないか、と呆れて笑いながら、葵を促して、離れたところにある交差点へと向かう。こんな調子じゃ、電話も通じない、ハルさんもいない、という結末を迎えたら、おれよりも葵のほうがよほどガッカリしそうだな。

 合計四車線ある車道は、葵の言うとおり、かなりの交通量があった。オフィス街なのだから、当然といえば当然か。勤めを終えた男女が、歩道をせかせかとした足取りで歩いている。交差点でも、信号待ちの人込みが出来ている。

 おれは歩きながら何気なく顔を巡らせ、行き交う人々の頭と、エンジン音を立てて走り抜ける車の影の向こうに見える、灰色のビルへと目を向けた。

「あ」

 一声発して、足を止める。

 そのままおれが動かなくなったので、葵も驚いたように立ち止まった。なに? と問いかけながら、おれが向けている視線と同じ方角に目をやる。


「……ハルさんだ」


「えっ。ウソウソ、どれ?」

 葵が身を乗り出して、かけていたサングラスまで外し、車道の向こう側へと目を凝らす。そんな友人を嗜めるのも忘れ、おれはバカみたいにその場に突っ立って、彼女から視線を離せずにいた。

 ビルの正面出口から出てきたハルさんは、ベージュのスーツにクリーム色の薄いコートを羽織っていた。これまでは、着物か、お嬢さんっぽいワンピース姿ばかりだったが、そういう格好をしたハルさんは、きっちりとした勤め人の雰囲気がある。

 遠目で見るハルさんは、髪型が少し変わっているようだ。ストレートだった黒髪の、先のほうだけゆるくウェーブがかかっている。この一カ月の間に、パーマをかけたのかな。ふんわりとした髪が巻くように肩に落ちていて、よく似合う。でもサイドを後ろでまとめているのは前と同じだ。耳にあるピアスまでは、ここからは見えないけれど。

 ──ハルさんだなあ、と、なぜかしみじみと思う。

「あれがハルさんか。美人だね」

「うん」

 半ばぼんやりしていたので、葵の言葉にすぐ頷いてしまい、くすくす笑われた。

「つまり、運は俺たちに味方した、ってことだ。これなら、わざわざ電話をするまでもない。このままなんでもない顔で声かけて、偶然だねって言えばいいんだから」

「それは果てしなくナンパ行為に近い気がするな」

「ナンパ以外の何物でもないよ」

 面白そうに葵が笑うので、かえって気が楽になった。とにかく声だけでもかけてみるかという気持ちになって、道路を渡るべく交差点のほうへ足早に進む。

 ハルさんはおれたちに気づくこともなく、ビルの前に立って、真面目な顔で左側の歩道の先をじっと見つめている。何をしてるんだろう。

 ……ひょっとして、誰かを待ってるのか。

 そう思った途端、足の動きが鈍くなった。もしも見知らぬ男がハルさんに親しげに近づいていくようだったら、おれはすぐにこの場からUターンして立ち去らなければならない。

「ちょっと待った、葵」

 と、すでに小走りになって先を歩く葵を呼び止める。怪訝そうに、葵が振り返った。

「なんだよ、急いでこの道路渡っちゃわないとさ」

「いや──ハルさん、もしかしたら、誰かを」

 そこまで言って、おれは口を噤んだ。

 「誰か」が現れたから、というわけではない。


 ハルさんが、突然走り出したからだ。


「えっ、ええっ?!」

 それを見て、葵が仰天して大声を上げた。

「え、ちょっと何やってんのあの人?! スーツとパンプスだよ?! あの格好で往来を突っ走ってるよ?!」

「葵」

「う、うん、ねえ哲、あの人さ、なんでまた」

「走るぞ」

「ええーーっ?!」

 叫ぶ葵には構わずに、おれは勢いよく地を蹴って駆けだした。

 車道を挟んで、あっちでもこっちでもスーツ姿の男女が歩道を走る光景は、一種異様なものがあったかもしれない。すれ違う歩行者たちが、目を丸くして全力疾走のおれを振り返る。それすら意識の外に追い出して、おれはびゅんびゅん通る車の向こうのハルさんを見失わないように走った。

 ハルさんのおかしな行動は、今にはじまったことじゃない。

 彼女が何を考えているのかなんて、おれには知りようもない。

 でも。

 じっとどこかを見ていたハルさん。後ろを振り返りもせず、いきなり走り出したのは、見ていたのとはまったく逆の方向だ。

 あの唐突なやり方、覚えがある。

 ──以前、おれの手を掴んで、「尾行を撒く」と言って走った時と、まったく同じじゃないか。



          ***



 それにしても、ハルさんは速い。

 四車線分の差があるとはいえ、おれが道路を渡った時にはすでに、ハルさんの背中はかなり小さくなってしまっていた。ここまできたら意地でも追いつく、とおれも足を止めることなく走り続けたが、一向、距離の縮まる気配がない。まるで鬼ごっこだ。

 冷静に考えたら、別にこうまで必死になって追いかけることはなかったのかもしれないのだが、少し腹が立っていたこともある。自分でも理由はよく判らない。でも、なんとしてもハルさんを捕まえて、事情を問いたださないと気が済まなかった。

 前方を駆けるハルさんが、ビルとビルの間の路地に入るのを見て、おれは荒い息をしながら思わず舌打ちした。

 あんな狭くて暗いところに入って──何かがあったらどうするんだ。

「ハルさ……」

 声を出し、自分も大急ぎでその路地へと入った瞬間。


 突然、すぐ目の前に、大きな男の身体が立ち塞がった。


「……っ!」

 緊張し、身構える。殴られるか、飛びかかられるか、と咄嗟に目を閉じかけたが、いつまで経っても凶暴な拳は向かってこなかった。

 代わりに聞こえたのは、

「きっ、ききっ、君か?!」

 という、悲鳴のような、ひどく上擦った震え声だった。

「は……?」

 あまりにもその声が露骨に怯えているので、おれはぽかんとして、防御の態勢を解除した。

 改めて、目の前にいる人物を見る。

 そこにいたのは、少し小太りの、三十近いスーツ姿の男だった。

 拍子抜けすることに、暗い中でもはっきりと見て取れるほど、彼は大きな身体を縮こまらせ、ぶるぶると小さな動物のように小刻みに震えていた。こちらに向けられているのは、決死の表情を浮かべているものの、どう見ても人の好さそうな福々とした丸顔、目尻には薄っすらと涙まで浮かべている。

 身長で言うのなら先方のほうが高いし大柄なのだが、思いきり腰が引けているので、客観的にはおれが相手を苛めているようにしか見えない。

 薄暗い路地にいるのはその彼だけで、ハルさんの姿はなかった。

「……え、と」

 何がどうなっているのか掴めずに、仕方なく男と相対しているおれの後ろから、息を切らせて葵がやって来た。

「ちょ、ちょっと、なんだよもう、いきなり走り出して。カンベンしてよ、俺、運動は好きじゃないんだから」

 ぶうぶう文句を言いながら、じゃらじゃらとアクセサリーの音を立てて手で顔を扇ぐ葵を見て、「ひっ」という声が男の口から洩れた。ざあっと顔から血の気の引く音が聞こえるくらいに青くなる。

「こ、こっちのガラの悪いのが本命か……?」

「はあ?」

 ガラの悪いの、と言われて、葵が眉を寄せる。

 相手がさらに泣きそうな顔になったので、おれはだんだん気の毒になってきた。さっぱり成り行きが判らないが、なんとなく、こちらのほうが悪いことをしているような気にさせられる人である。

「あの、どうも少し、誤解があるようなので……」

「なあ哲、どうなってんだよ、これ。このオジサン誰?」

 しかしもともと遠慮というものを知らない葵は、じろじろと男を上から下まで眺めまわし、不満そうに口を尖らせた。人なつっこい、というのは葵の美点の一つだが、状況次第では、それは悪い方向にしか作用しないらしい。葵とそう年齢は変わらないだろうに、オジサン、と呼ばれた男は、怒りもせずに、ますます恐怖に引き攣った表情になった。

 おれは葵を振り向いて、小声で注意した。

「ちょっと黙ってて、葵」

「え、なんで」

「お前、どうもチンピラかヤクザにしか見られてないみたいだから」

「はああ?」

 非常に不満げな葵から、再び目の前の小太りの男へと視線を移す。男はびくっと身じろぎして一歩後ずさったが、逃げることはしなかった。

 少しほっとして、出来るだけ穏やかな声を出す。

「驚かせてしまったようで、すみませんでした。知り合いを探していたんですが」

「…………」

 男の目の端が、ぴく、と動いた。

「ここに入っていったはずなんです。見かけませんでしたか、若い女性なんですけど──」

「……だ?」

「は?」

 小さな声で何かを言われたが、聞き取れない。問い返すと、男はさらに顔を青くして、しかしそれでも両足を踏ん張り、きっとおれを正面から睨みつけた。

「な、何が、目的だ?」

「はい?」

 目的?

「……あの」

「一体、何が目的で、僕の妹を狙うんだ?!」

「え」

 喚かれた内容に、おれと葵は目を丸くした。

「妹?」

「狙う?」

 同時に声が出る。

 と、その時、男の背後の暗がりの中から、ほっそりとした人物が姿を現した。

「まあ、哲秋さん」

 ハルさんが、おれを見てびっくりしたように言った。




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