15.罪と罰
「よう、哲! 久しぶりー!」
葵は相変わらずの恰好で、手を挙げ笑みを浮かべて待ち合わせの喫茶店に現れた。
細身の革ジャン、長い脚を包んでいるのは革のパンツに同系色のブーツ、中に着ているシャツは目の覚めるような赤だ。形のいい鎖骨の上に乗っているのはシルバーのチェーンネックレス、袖口からもじゃらっとしたシルバーのブレスレットが覗いているし、念の入ったことに指にもシルバーの指輪がいくつか嵌っている。茶色の短髪はラフにあちこちが撥ねていて、薄く色の入ったサングラスまでかけていた。
友人ながら、いかにも軽そう、という感想しか出てこないコーディネートなのだが、センスがいいし、ひとつひとつは物として上等なので、品のない感じにはならない。そして何より、よく似合っている。少し女性的なくらいの整った容貌をしていることもあって、その時店の中にいた女性たちが、葵に向けて一斉に熱い視線を投げたのも無理はないと言えた。
「相変わらず、堅い格好してるねえ、哲ちゃん」
揶揄されるように言われて、苦笑する。芸能人か、下手をするとホストにも見えてしまいそうな葵と、向かいに座るスーツ姿のおれは、あまりにも対照的だ。
「仕事帰りだからな」
「仕事帰りなのは、俺も同じだけど」
「店はうまくいってるのか?」
「うん、わりとね。最近はネット販売の売り上げも伸びてるし」
葵は現在、輸入雑貨を扱う店のオーナーという立場にある。
本人は女子高の教師になりたかったようなのだが、息子の性格と性質を熟知している親に、それだけはやめてくれと泣きつかれて、しょうがなく自分で事業を起こすことにしたらしい。最初の資金は資産家の親に出してもらったが、もともとそういう才能があったのか何事にも器用なところが良い目に出たのか、今のところ経営はかなり順調で、そろそろ二号店を、という話も出ているとのことである。
おれも一度行ったことがあるが、客のほとんどが若い女性という、言ってはなんだが非常に葵の嗜好にぴったり合った店だった。とても男一人で店内にい続ける勇気はなかったので早々に出てきてしまったものの、それでもどこか洗練した雰囲気の、かといって敷居は高くない、葵らしい良い店だなという印象は持った。
「哲のほうは仕事はどうなの?」
「まあ、特に変わり映えしないよ」
「じゃあ、変わったのは私生活のほうなんだ」
「…………」
見ると、葵はサングラスの向こうで好奇心丸出しの瞳をキラキラ輝かせながら、テーブルに肘をついて前のめりにおれの顔を覗き込んでいる。
おれは短い溜め息をついて、飲んでいたコーヒーのカップをソーサーに置いた。
「あのさ葵、そんなに楽しみにされるような内容じゃないぞ? 電話でも言ったと思うけど、彼女が出来たとか、そういうことじゃないんだ」
「うん、わかったわかった」
「全然判ってない顔をしてる」
「わかったって言ってるじゃん。早く話してよ。ちゃんと正直に、全部言ってよね。俺だって、今の彼女のことは細大漏らさず哲には報告したんだからさ」
「聞きもしないのに、葵が勝手にべらべら喋ったんじゃないか」
「俺ってホントに友達を大事にする男だよね。そう思わない?」
「とりあえず、場所を移さないか。葵も夕飯はまだなんだろ? 食べながら話すよ」
「やだ、待てない。今ここで話して」
「…………」
おれはもう一度溜め息をついた。どうしておれの周りには、こんなに落ち着きのない人間ばかりがいるのだろう。
「じゃあ、とにかく、何か注文しろ。な?」
少し長い話になるからさ、と続けて、おれは軽く手を挙げて店員を呼んだ。
やってきたウェイトレスに、葵がコーヒーを注文する。今日は葵と飲むことになるかもしれないからと、自分の車ではなくタクシーを使って来たのだが、この分だとその必要はなかったかもしれない。
そういえば、葵とこうして差し向かいでお茶を飲む、ということ自体がものすごく久しぶりじゃなかったっけ。深雪と別れてから、葵と会う時はいつも酒を飲みながら、だったような気がする。
もしかして葵は葵で、素面ではなかなかおれと話がしづらかったのかもしれない。ちゃっかりしていて親しみやすい性質ではあるけれど、この友人は繊細な部分もある。それだけ、おれに対しての負い目が大きかったということか。
あるいは、それほどまでに、おれと深雪の一件は、周囲にもしこりを残すようなものであったということか。
何度も言う。葵のせいじゃない。
深雪は最後まで、おれが悪い、と言っていた。
***
はじまりは、よくある出会いだった。
一年くらい前、葵が当時付き合っていた彼女の友人、という紹介で知り合った深雪は、小柄で華奢で、可愛らしい顔立ちをした女性だった。
おれとはひとつしか齢は違わないのに、どこか頼りなさげな、子供っぽい雰囲気を持っていた。ある銀行の窓口の仕事をしていたが、こんな弱々しそうな子が、強い態度に出たりする客の対応が出来るのかな、とおれは心配したくらいだ。
先に交際に乗り気になったのは、深雪のほうだった。
葵とその彼女を含めて出かけた当日の夜には、「今度は二人でお会いしたいですね」というメールが入っていて、彼女に良い印象を持っていたおれも、わりと気軽にそれを了承した。流れとしては、よくあるものだと思う。
──ただ、彼女の勤め先が銀行ということが、少し気がかりだった。
桜庭のグループではないが、証券会社とは同じ金融業にあたる。おれの会社とも、まったく縁がないわけでもない。女性同士の他愛ないお喋りとしても、それが企業内に流れていくかもしれない可能性を、おれは怖れた。
だから、葵に口止めしたのだ。「桜庭」という家のことは、深雪には黙っていてくれないか、と。
その時のおれにとって、職場にその事実が伝わるのは、何より避けたいことだったのである。
桜庭、という名前を知る前と後とで、相手の態度が百八十度変わられることに、うんざりするような気分もあったが、桜庭の息子ではあるけれど後継者という立場からは外れた自分が、父や兄とは関係なく自らの力だけでどこまでやれるのかを試したいという意地も大きかった。
就職してまだ数年、手探りではあるが少しずつ何かが掴めてきた今この時に、桜庭の名前を後ろに背負うのだけは、嫌だった。
葵は納得して、わかった絶対に言わないよ、と約束してくれた。
訊ねられても曖昧に誤魔化していたので、深雪は、資産家の葵の中学時代からの友人、というところから、おれもその類だろうと勝手に決めつけていたようだ。あとで知ったことだが、そういう先入観を持っていたから、深雪は最初からおれとの付き合いに対して積極的だったらしい。
決して、熱愛、というわけではなかった。それでもおれは、彼女のことを大事にしていたつもりだ。
深雪はいつも従順で大人しく、なんでもおれの意見や意志に沿う行動をした。そういうところを少し物足りないような気分で見ていたことも否定しないが、それ以上に庇護欲をそそられたのも本当だった。恥ずかしい話だが、彼女といると、自分が一人前の男になったような錯覚にでも陥っていたのだろう。
付き合って半年くらいで、これから一生、こうして彼女を守って生きていくのもいいかもしれない、とおれは思うようになった。
深雪は料理も上手だったし、綺麗好きでもあった。子供が好きで、おれに限らず、他人の世話を焼くのも好きだった。たとえば数人で食事をしたり飲んでいたりする時に、自分のことは後回しにしても、他の人間のためにあれこれと気配りするのが上手な性格、というのか。男にしてみれば、「お嫁さんにしたいタイプ」そのものだ。
そしてその頃のおれが、結婚というものに対して、そろそろかな、と思っていたこともある。ハッキリとした明確な意志ではないが、年齢と仕事のことを考えて、今のうちに、という気持ちがあった。
見合いであっさり結婚を決めた(と、その時のおれは思っていた)兄は、家庭を持って幸せそうにしているし、それを羨む気分もなかったわけではない。遠からず母親が何かを言いだすんじゃないか、という危惧ももちろんあった。
つまり、タイミング的に、いいんじゃないか、と思ったわけだ。深雪に不満はなかったし、好きだという心も、大切に思う気持ちもある。深雪自身、常々、早く家庭に入りたい、というようなことを遠回しに伝えてきている。結婚とは半分勢いでするものだ。マイナスの要因がない以上、決めることをためらう理由がなかった。
──で、結局どうなったか。
とことん間の抜けた話だが、おれが「結婚」の二文字を出すよりも先に、深雪のほうから別れ話を切り出された。
ごめんなさい、私、結婚するの、と。
その結婚相手はおれではなく、どこかの会社の社長の息子だという。
頭が真っ白になる、という状態があの時のおれだ。
よくよく聞いてみれば、深雪はおれと付き合っている間に、その息子に見初められて、交際を申し込まれたらしい。最初は断っていたのだが、あまりにも強く望まれて、とうとうほだされてしまった──というのは深雪の言い分なので、実際どうだったかは判らないし、知ろうとも思わない。
とにかく簡単に言うと、その社長の息子とおれとで二股をかけて付き合っていたのだが、このたび向こうからプロポーズされたので、受けることにした、ということだった。
ごめんなさい、と深雪は大泣きに泣いて、おれに謝った。
当然、おれは最初の茫然自失から抜け出ると、腹を立てた。衝撃もあったが、なにより屈辱があり、怒りがあった。二股をかけられていたことにも気づかずに、呑気に結婚のことなんかを考えていた自分も許せなかった。
深雪を取り戻すことで、一緒に自分のプライドも取り戻したかったのかもしれない。今思うと、みっともなくて赤面するしかない。
考え直してくれ、とおれは何度も言ったが、深雪は頑なに首を横に振るばかりだった。ごめんなさい、と殊勝に謝りはするものの、断固として決心を翻すことはなかった。
おれとその男のどっちが好きなんだ、と訊ねた時に、はじめて、深雪は泣きながら、正面からおれを見た。
「どっちも好きよ。同じくらい好きだから、条件がいいほうを選ぶんじゃないの。だって私の人生なのよ。幸せになれそうな道を取って、何がそんなに悪いの?」
その時、おれは知った。
深雪は、おれが思っていたような、弱い女なんかでは全然なかった。誰かに守られる必要もないくらいに、したたかで強い。
深雪は深雪の揺るぎない価値観と人生観で、冷静におれともう一人の男を天秤にかけて、「幸せになれそうなほう」を選び取ったのだ。
その「幸せ」には、性格や愛情よりも、将来性とか経済力とかが、大きなウェイトを占めている──という、ただそれだけのことだった。
なるほどね、と思ったら、もうそれ以上何かを言う気力も湧かなかった。
わかった、とだけ言った。
おれはその時、その一言で、深雪との恋愛に幕を引いて、彼女との未来を諦めた。
──そこで終わっていたら、なにも問題はなかったのだが。
***
葵は、見合いの話とハルさんの話を、大はしゃぎで聞いた。
特にデートの内容にはテーブルに突っ伏して、げらげらと大笑いしていた。周囲から視線が飛んできても、まったく気にしない。
思えば、兄もハルさんの話を聞いた時には楽しそうにウケていたな。なんとなく複雑である。おれの話し方に、問題があるのだろうか。
が、ホテルでの一件のところまで進むと、葵はぴたりと笑うのを止めた。眉を寄せ、渋い顔つきになって口を歪める。
「そりゃ、未練なんかじゃないね」
きっぱり言い切って、テーブルの上をとんとんと指で叩いた。イラついている時の葵のクセだ。何にイラついているのかといえば、おれに対してというより、深雪に対してなのだろう。
「哲は、未だに傷ついてるんだよ。だから似たような女を見て、動揺しちゃってるってだけの話じゃないか」
「そうかな……」
返事をしながら、おれは手元のコーヒーカップに視線を移す。白いカップの中では、すっかり冷めてしまった褐色の液体が、ゆらゆらと静かに揺れていた。
「……あのさ、別れてから、ゴタゴタがあっただろ」
「うん」
おれの言葉に、葵の目が一瞬下を向いた。
葵にこのことを話すのは、これがはじめてだ。
「その時、深雪がさ」
「うん」
「おれが悪い、って何度も言ったんだ」
「勝手な女だ」
葵の口調は吐き捨てるようなものだった。
そうだ、勝手だ。おれもそう思う。
……そう、思った。
おれと深雪の別れの経緯を聞いて、激怒した葵は、約束を放棄して、深雪におれの家のことをすべて暴露した。
その後、すぐに深雪からおれの許にかかってきた電話の第一声は、
──どうして。
という詰問で、糾弾だった。すでにその時、彼女は泣いていた。
どうして黙ってたの。ひどい、ひどい。
そう言って、おれを責めて、なじって、泣いた。別れを切り出した時の泣き声とは違う、本当に痛切な声だった。
昔から、男は女を守るべし、との祖父の教えを忠実に覚えていたおれだが、この時ばかりはそれを振り捨てた。
「裏切ったのは君だろ? どうしておれが責められるのか、さっぱり判らない」
後にも先にも、女性に対してあんなに冷淡な声を出したのは、あれがはじめてだ。
でも深雪は、それを聞いてますます激しく叫んだ。
「じゃあ、私が悪いの? 全部? 付き合っていながら、本当のことを言ってくれなかったあなたには、何ひとつ非はないって言うの? 結婚に条件を求めた私が卑しいって思ってるんでしょう。あなたは結局、自分が恵まれた環境にいるから、私も、他の人たちも、見下してるのよ。本当は、そうやって黙っていることに優越感を抱いてるのよ。だから、みんなを騙しても、平気な顔して笑っていられるんじゃない。悪いのはあなたじゃないの。言ってくれたら──知っていたら、私だって」
私だって?
私だって、あっちの男ではなく、あなたを選んだ?
そうだろう。「同じくらい好きだから、条件のいいほうを選ぶ」、と堂々と言ったのは君だ。
でも、それはあまりにも、勝手な言い分だと思わないか。
結局、深雪にとって、おれはその程度の存在でしかなかったということだ。あっさり捨てたものに付属していた条件が、自分で思っていたよりも大きかったことを知り、悔しくなって泣き喚くだけの。
彼女にとって、惜しいのは、桜庭の名前だけで、おれじゃない。
だったら、桜庭の息子であれば、おれじゃなくてもいいということだ。
「…………」
おれはもう、何もかもが虚しくなって、無言のまま通話を切った。最後まで、スマホの向こうでは、深雪の、「あなたが悪いのよ」という甲高い声が響いていたが、おれはまったく無視した。
そして切ってからすぐに、彼女の番号もアドレスも削除して、着信拒否の設定をした。
だから、知らなかった。それを人づてに聞いて知ったのは、しばらく経ってからのことだ。
──その電話の直後、深雪が自分の手首を切った、ということを。
「騒ぎを起こした張本人は、結局、手首を剃刀で撫でたくらいで、ピンピンしてたっていうんだから、ただのポーズだったんだよ。お前が悪い、なんてたわごとを真に受ける必要はない」
葵の容赦ない言葉に、おれは浅く頷く。目の前のテーブルでは、葵の長い指がまたとんとんと動いていた。
「そうかもしれないけど」
でも、その話を聞いた時の衝撃は今でも忘れられない。葵は俺のせいだと何度も謝ったが、そうでないことはおれがいちばんよく知っている。
衝動的にでも、深雪をそんな行動に走らせた原因は、間違いなくおれだ。
そのことが、ずっと離れない。
「でもさ、今になって思うと、深雪の言葉に、ああ本当だな、って納得する自分もいるんだよ。おれは結局、自分のことしか、頭になかった。自分自身のことを隠したまま、彼女とちゃんと向き合うこともしないで、庇護の下に置こうなんて、あまりにも傲慢だった。おれに深雪を責める資格はない」
多分、あの時のおれが、二度と深雪と連絡を取れない状況にしようとしたのは、彼女の言葉の中にある真実を認めたくなかったからだ。
あの時、切り捨てるような真似をしなかったら。
いいや、最初から、おれが自分のことを深雪にすべて話していたら。
どうしても、そう思う。
「バカバカしい」
葵が冷笑した。
「それとこれとは別だね」
「別かな」
「ぜんぜん違う。混同するな。お前のそれは、罪悪感であって、未練なんかじゃない」
「…………」
罪悪感だ、と言い切る葵の言葉を否定するつもりはなかった。それがあることは誰よりおれが知ってる。今まで引きずって、女性との付き合いを避けてきたのも、結婚のことなんて考えたくもなかったのも、そのためだという自覚もある。
でも、果たして、罪悪感と未練は別物か?
あなたが悪いのよ、という声が、ずっと、おれの心の重石になっている。その声から逃れるすべが見つからないから、おれは深雪に囚われ続ける。それは、気持ちが残っている、ということと同義にならないか。
そういうのを、「未練」と呼ぶんじゃないか、と気がついたから、ここに来て、おれは困惑しているのだ。
それがある限り、おれは決して前へは進めない。