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はるあらし  作者: 雨咲はな
本編
14/45

14.黄信号



 このところ、仕事が忙しい。

 というのは口実でもなんでもなく本当のことなのだが、そう急ぎでもない仕事で深夜まで残業したり、土日も会社に行ったり、家に帰っても勉強と称して部屋にこもっていたりするのは、言い訳のためという理由がかなり大きかった。

 誰に対しての言い訳かって? もちろん母だ。


「近頃、ずいぶんとお忙しいようですね」


 その日、日付が変わるような時間に帰ったおれにそう言った母は無表情に近かったが、声には露骨に機嫌の悪さを含ませていた。

 仕事第一の父と結婚した母は、どんなに息子の日々が忙殺されていようと、それが「仕事」という名目である限りは、文句を言ったりすることはない。しかしこの一カ月というもの、ほとんどおれと顔を合わせる機会のないことに、さすがに腹立たしくなってきたようだ。こちらから母を避けていたのだから、当然といえば当然なのだが。

「そうですね。年度終わりはいろいろあって」

 とおれは靴を脱いで、上り框に足を乗せながら素知らぬ顔で返事をした。

 母はいつもは零時前には必ず床に就く習慣を持っているのだが、まだ寝間着にも代えていないところを見ると、どうやらおれを待っていたらしい。ネクタイを緩めながら自分の部屋に逃げ込もうとしたおれの後について歩き出す母を見て、溜め息をついてその場に立ち止まる。

「なにか、用事ですか」

「お仕事はいつヒマになるんです、哲秋さん」

「残念ながら、ヒマにはなりません」

 おれが在籍する部署は、不眠不休で働きづめ、というほど多忙なものではないが、それでもヒマすぎて時間を持て余す、などということはまずない。大体、ヒマすぎて困る、なんて社員を抱えていたら、その証券会社はかなり危機的状況にあると思わなくてはいけないだろう。

 そしてそれはもちろん、わざと本題からずらした解答だったのだが、母には通用しなかった。顔は無表情を保ったまま、声の険だけが一段階上がる。

「いつ、身体が空くのかと聞いているんです」

「さあ、いつですかね。半年後くらいかな」

「バカなことを」

 おれがとぼけると、母は鼻からふんと息を出して、きっぱりと切り捨てた。

「半年もの間、お見合いを宙に浮かせておくつもりですか。お断りするならする、お付き合いを続けるなら続けるで、きちんと明確になさらないと、あちらのお嬢さんにだってご迷惑でしょうに。中途半端なままでは、次のお見合いも出来ないではないですか」

「…………」

 出たな、本音。やっぱりさっさと「次の見合い」のことを考えているんだな、ということが母の口ぶりから伝わって、おれはげんなりとした気分になった。

「仕方ないでしょう。春音さんにお会いする時間が取れないんですから」

「そんなものはご自分の甲斐性でなんとかなさい。殿方が仕事ばかりにかまけて、私的な時間を都合できないとは情けない。お父様は仕事で全国を飛び回っておられても、趣味の時間も女道楽の時間もちゃーんと上手に配分なさってますよ」

「息子にそんなこと言っちゃっていいんですか」

 ここで言う「女道楽」とは、愛人を何人も囲って女色に耽ることではなく、芸者遊びとか、そういうことを指しているものと思われる。ひょっとしたらそれだけではない場合もあるかもしれないが、詳細はおれだって知らない。ただ、母が父に怒ったり文句を言ったりするところや、両親が言い争いをしたり仲違いをするようなところを、一度も見たことはない。二人が仲良さそうに笑い合うところも、一度も見たことがないが。

「とにかく、一カ月も放置して、これ以上は許しませんよ。それともこの際、こちらから先方にお断りを入れますか?」

「いえ」

 母の提案に、おれは素早く否定の返事をした。あまりの素早さに、自分自身、少しうろたえてしまうくらいだった。

「……まだ、一回デートをしただけじゃないですか。それだけで結論を出せって言うのは、あんまりでしょう。それとも、見合いっていうのは、すべてにおいてそんなスピード勝負なんですかね。だとしたら、優柔不断なおれには到底向いていませんので、今後見合い話は一切受け付けられそうにないです」

「そういうわけでは、ありませんけど」

 母はわずかに鼻白んだ顔になった。一回のデートで結論を云々、ということより、それなら今後の見合いもお断り、というおれの姿勢にたたらを踏むような格好になったらしい。これからのことを考えると、それは面倒だ、とでも計算しているのだろう。

「では、まだ、あちらのお嬢さんとお付き合いする気はあるわけですね?」

 母の探るような目が、おれの顔を覗き込んだ。

 しかし言ってはなんだが、おれは母に対して本音を隠すのは、子供の頃から慣れている。表情をまったく変えることなく、「そうですね」と穏やかに返した。

「なにしろ、春音さんがどういう人なのかも、よく判らないので」

 こちらは、まがうことなく本音だが。

「今のところ、お断りするつもりはない、と?」

「……そうですね」

 おれの答えに、こちらに向けられた母の目の端を、今までとは別の感情がちらりと走り抜けていった。よく判らないが、言葉にするなら、意外、というか、懸念、というか、そんな感じだった。少しだけ、むっとしたものも混じっていたような気もする。


 ──母にとっては所詮、これは破談が前提の「お試し見合い」だからな、とおれの心の片隅が醒めた調子で呟く。


 はじめての見合いというものを経験して、一回目のデートミッションをクリアした今となっては、もういつ潰れても構わない、というわけだ。かえって、次の見合いに向かうために、早いうちにそうなったほうがいい、とでも考えているのかもしれない。

 勝手だな──と思った。もぞりと黒いものが胸の中で蠢くのを意識する。それが形をとる前に、おれは母から顔を逸らして階段へと足を向けた。

「では、近いうちに、また先方とお会いする日時を決めますよ。よろしいですね?」

 背中にかかる母の声に、「はいはい」と肩を竦めながら返事をする。

「お仕事のほうは」

「なんとかします」

 声の調子は変えなかったが、自分の部屋へと向かう足取りは、我知らず荒くなっていた。

 おれが何度も「春音さん」と呼んでいるのに、返ってくるのは、頑として、お嬢さん、であり、先方、だ。

 ……母はどうあってもその名前を口に出すつもりはないらしい、と思うと、なんだかやたらとハルさんに対して申し訳ないような気持ちになった。



          ***



 ベッドの上に背広を放り出し、ドサッと身を投げ出すように椅子に座る。

 机の上に立てて置いてある、見合い写真の中のハルさんと目を合わせた。

 ──もう一カ月か、と思う。

 デートの後で一度会っているから正確には一カ月未満ということだが、それでも二月から三月へと、月はまたいでいる。まだまだ暖かくはならないものの、庭の桜の木には、ちらほらと固い蕾が付きはじめた。


 愛美も含めて一緒に食事をしてからこの時まで、ハルさんとはまったく連絡を取っていない。


 放置している、と母親は言ったが、その点は間違っていなかった。おれはこの期間、見合いのこともハルさんのことも結婚のことも、すべて放り出して、自分を忙しい状況に追い込み、ただ逃げていただけだったのである。

 一つには、自分の心に少し戸惑っていた、ということがある。

 おれは、自分とハルさんが、「見合い」という脆い縁でしか繋がっていないことを、改めて再認識した。断ってしまえば、それで一切がお終い、もう二度と会うことはなくなる、という関係だ。

 そのことを確認して、自分でも驚くくらい、胸がざわついた。ハルさんのあの声も聞けなくなる、ニコニコ顔も見られなくなる、という事実に、ぽっかりと空いてしまう穴があることに気がついた。

 ──でもだからって、どうしたらいいか判らない。

 いや、違う。気づいたところで、どうしようもない、ということだけが判った。

 これが普通の見合いならともかく、おれたちの場合、ハルさんが言うところの「予行演習」でしかないわけだ。おれとハルさんは現在、それを了解の上で、表面上の付き合いをしているに過ぎない。

 なにより、ハルさん自身が、そのことをきっちりと理解してしまっている。今さら、おれの内面に変化が起きてきたことを知っても、ハルさんは困惑するだけだろう。母も同様に、ハルさんをそういう対象として見ていないのは明らかだ。

 そして、もう一つ。

 おれはどうやら、未だに過去をずるずると引きずっているらしい。

 いや、引きずっているのは知っていたが、それは、深雪に対して未練を持っている、ということではないと思っていた。彼女に対する複雑な感情は、おもに自分自身へと跳ね返るものであって、「未練」という名前が付くものではないと思っていた。彼女への気持ちについては、それはそれで決着がついている。そう思い込んでいた。

 けれど、あのホテルで。

 深雪に似た女性を見かけたというだけで動揺した自分に、おれは判らなくなってきたのである。おれはまだ彼女に気持ちが残っているんだろうか。だからあんなにも狼狽したんだろうか。「恋」と呼ぶものはとうに処分して外に追い出したつもりだったのに、実は今もまだしっかりと自分の中に居座っているんだろうか。

 だとしたら、余計におれは前には踏み出せない。

 限りなく保留、という気分になって、仕事を口実に逃げ回っていたが、それでも、時間ばかりが経っていくことに、うんざりしはじめていたのは確かだ。ハルさんからもまったく連絡がなく、それは当然だと思うものの、少しイラつく自分を持て余していたのも否定しない。

 おれはやっぱり、優柔不断だなと落ち込む。

 ……ハルさんは、元気にしてるかな。



 時々自分が、信号機を見ているような気分になる。

 おれの前には道があって、その向こうには信号があるのに、点灯している色が何色なのかが、おれにはまったく判別できない。

 青か、赤か、黄色か。

 青は進んでよし。赤は止まれ。黄色は──黄色は確か、やっぱり止まれ、だ。

 でも。

 すでに停止線を越えていて、もう安全に止まることが出来なくなっていたら、進んでよし。

 どれだ?



        ***



 友人の葵から連絡が来たのは、そんな頃のことだった。

 日向葵、ひゅうが・あおい、と読む。多分、「向日葵」のように、お陽さまに向かってぐんぐん真っ直ぐ伸びる男であれ、というつもりで親はその名前を付けたのだろうが、子供の頃から、ヒマワリ、ヒマワリとからかわれて育った葵は、ものの見事にひねくれた皮肉屋に成長した。おれとは中学時代からの友達で、おれが知っている「悪さ」の大半は、この男から教わったものばかりだ。

「よお、哲、元気ー?」

 夜遅くだというのに、スマホから聞こえる葵の声は、いつもと変わらず軽かった。ちょうど仕事から帰ったところで、着替えを済ませたタイミングを見透かしたみたいに電話がかかってくるのもいつもと同じだ。葵はどういうわけか、昔からそういうのが抜群に上手い。

「元気だよ。葵とは最近会ってないけど、変わりはないみたいだな」

「おかげさまで」

 何がおかげさまなのか知らないが、葵はそう言って楽しげに笑った。どうせまた、新しい彼女が出来たとか、そんな報告をするために電話をかけてきたのだろう、とおれは思った。葵はその名に似合う綺麗な顔立ちをしているが、女性に対する節度のなさにかけては右に出るものはいない。

「あのさあ、俺、新しい彼女が出来てさあ」

 やっぱりな。

 葵は一通りその彼女についてをべらべらと喋ったあとで、「哲は? そろそろ彼女できた?」となんでもなさげに問いかけてきた。

「…………」

 もしかして、自分の彼女のことよりも、本題はこっちだったのかな、とおれはそれを聞いて思う。「そろそろ」という部分に、「深雪と別れてから」の意味を言外に感じ取った。

「……まだだよ」

 おれが答えると、葵は明らかに落胆したらしかった。

「そうかー、まだかー」

 がっかりしたような声に、おれは笑い出してしまう。

「あのさ、何度も言うけど、別に葵の責任なんかじゃないんだから、そんなに気にすることないんだぞ?」

「うーん、でもなあ」

 葵が以前付き合っていた彼女の友人が、深雪。おれは葵を通して深雪と知り合った。出会いから別れまでの経緯を、葵は全部知っている。

 別れてから起こったゴタゴタに、直接関わっていたのも葵だ。だから葵はかなりそのことを気にして、責任を感じている。

 深雪と友人でもあった彼女と別れたのは、俺の浮気が原因だったと葵本人は言うが、実際のところは違うのかもしれない。訊ねてもすっぱり否定されるだけだろうけれど。

「あれは、おれが悪いんだよ。むしろ葵には、申し訳ないことしたなと思ってるんだ」

 中学の頃からの友人だった葵は、当然ながらおれの家のことを知っている。その葵に、家のことは黙っていてくれと口止めしたのはおれ自身。深雪は付き合いはじめてから別れるまで、おれのことを、少し裕福な家の息子、としてしか認識していなかった。

「なに言ってんだ、悪いのはお前じゃなく、ハッキリキッパリ、あの女だろ。そんなんだから、相手がつけ上がるんだ」

 吐き捨てるように、「あの女」と呼ぶ葵は、いつも怒る前に諦めてしまうおれに対して、そしておれの代わりに、怒っているのかもしれない。葵は道徳心は少々欠けているが、友情には厚い。

 だから、深雪がおれから「もっと条件の良い」男に鞍替えをした時、誰よりも怒り狂ったのは、葵だった。

 あちらの話が進んだのを見計らって、深雪にすべてをぶちまけ、嘲笑したのも、いちばん効果的な報復を狙ったからだと、後になって言った。

 葵独特の、冷淡な眼差し、皮肉で辛辣な口調で。


 ──惜しいことしたね、と。


 深雪はそれを聞いた時、真っ青になって言葉も出なかったという。怒りのためか、嘆きのためか、ブルブルと身体を震わせるその姿を見て、葵は大いに溜飲を下げただろう。

 それから起こったあれこれは、あまり思い出したいものじゃない。

 とにかく、それらすべてをひっくるめ、葵はおれにひどく罪悪感を抱いている。何度も自分の短慮を謝り、すっかり消沈してしまった友人に、おれのほうが困ってしまったくらいだった。

 それで葵は、たまにこうして連絡をしてきては、おれのその後を訊ねてくるのである。言葉にはしないが、もう大丈夫? 吹っ切れた? 傷は塞がった? と、心配と気遣いを覗かせて。

 女性関係についてはいろいろと問題があるが、悪い人間ではないことだけは間違いない。おれはいつも葵からの電話を受けると、微苦笑を浮かべたいような気持ちになる。

「じゃあさ、哲、今度合コンがあるんだけど、来ない?」

「…………」

 本当に、これさえなければ、いい男なんだけどね。

「お前、さっき、新しく出来た彼女の話をしたばっかりだよな?」

「それはそれでしょう」

「何がそれはそれだよ。行かないよ」

「別にいいだろ、合コンくらい。誰かと付き合えって強制なんかしないよ。たださ、たまには女の子と楽しくわいわいやる時間もあったっていいじゃないかって思うだけだよ」

「…………」

 女の子と楽しくわいわいやる時間、と言われたところで、おれの頭にぱっと浮かんだ顔があって、一瞬口を噤んでしまったのは失敗だった。

 時間にしたらほんの少しの沈黙だったのに、こういうところは敏感な葵は、すぐさま何かを感じたらしい。

「なに? 何かあった?」

 と、しつこく追及してくる。電話なので姿は見えないが、きっと今頃スマホの向こうでぐぐっと身を乗り出しているのだろう。

「いや、別に、何かってほどのものでも……」

「あったんだ? なに? なに? ねえねえ、なに?」

 ホントにしつこいな。

 おれはちらっと机の上の写真に目をやり、ひとつ溜め息をついた。

 ハルさんと会う日はまだ決まっていない。

「……近いうち、仕事が終わってから、一緒にメシでも食おうか。その時、ゆっくり話そう」

 おれの言葉に、葵は大喜びで賛成した。




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