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はるあらし  作者: 雨咲はな
本編
13/45

13.過去の影



 会話を交わしているうちに、愛美はすっかりハルさんに対して好意を持ってしまったらしい。

 最初は興味深そうに仕事の話を聞いていたのに、食事が進むにつれて、どんどん雑談のような内容になっていくのは、それだけ愛美が気を許しはじめたことの表れに思える。女性が二人いて、ファッションの話などを始めてしまったら、もう男のおれには口を挟むスキがない。

 ドルチェを選ぶ段にまでいくと、とうとう愛美はもう兄の存在すら忘れたように、ハルさんと二人でメニューを見てあれこれと盛り上がる有様だった。

 そりゃ、険悪になるよりは仲良くなってくれたほうが、おれだって安心だ。しかし、愛美があまりにも楽しそうにハルさんとお喋りをしているのを見ているうち、安心どころかだんだん心配になってきた。

 食事を終えて、ハルさんが席を外した時を見計らい、おれはこっそり念を押した。

「──愛美、ちゃんと判ってるな?」

「え、なに?」

 真顔になったおれを、愛美がきょとんと目を大きく開いて見返す。もしかしてホントに忘れてるのか、とますます心配になった。

「ハルさんは、お前の友達じゃないんだぞ」

 おれの言葉に、愛美は一瞬ぽかんとして、それから噴き出した。

「なあに、それ。お兄さん、一人蚊帳の外だからって、拗ねちゃってるの? それともヤキモチ? 男のそういう独占欲はどうかと思うな」

「そうじゃない」

 やっぱり判ってないじゃないか、と頭を抱えそうになる。

「ハルさんは、お前の友達じゃなくて、おれの見合い相手なんだ」

「もうー、だからヤキモチは」

「判ってるか? 彼女じゃなくて、見合い、の相手なんだ。おれが母さんに無理やり見合いに連れて行かれる時、お前が何を言ったか覚えてるか?」

「…………」

 愛美は口を閉じ、同時に笑みを消した。

 自分が言ったことを、今この時になって、やっと思い出したらしい。


 ──「お見合い」なんだもん。お相手の女性が気に入らなければ、お断りすればいいんだし。


「……ああ、そういうこと」

 呟くように言って、視線を落とす。

 納得して、それゆえに落胆したような、悲しそうな表情になる妹を見て、おれも少し気が咎めた。やっぱり、どんなに頼まれても、おれは愛美をハルさんに会わせたりしてはいけなかったのかもしれない。

「そうよね。お付き合いっていっても、まだ話が決まったわけじゃないんだものね。あんまり仲良くしちゃうと、ハルさんのほうから断りづらくなっちゃうわね」

 愛美の中で、おれがハルさんに断られる、というのはもう既定事項になっているらしい。ハルさんの予定では、おれがそのうち断りを入れる、ということになっているのだが、その時になったら目を三角にした愛美に激怒されそうだ。

「考えてみたら、変な話よね」

 と、愛美がテーブルの上の小さなカップを手に取る。持ち上げてから、中身のエスプレッソがもう残っていないことに気づいたのか、溜め息をついてまたソーサーに戻した。

「仲良くなって、いいお友達になれそうな相手でも、『結婚』っていう基準を満たさなければ、そこで縁が断たれてしまうのが、お見合いってことね。結婚するなら付き合い続行、結婚しないのならバッサリ終了、って、ものすごく極端な選択じゃない? 結婚か、無か──その二つのコースしかないのに、短い時間でどちらかを選ばないといけないなんて、怖いことでもあるわね。お母さんも智兄さんもお見合いで結婚したんだし、それでうまくいってもいるんだから、一概には言えないんだろうけど……でも」

 愛美が考えるように言って、そこで言葉を切った。

 短い期間でこの先の判断をしなければならないのは、確かに怖い。でも、たとえ長く付き合って結婚しても、失敗する例はいくらでもある。ということは、どちらにしろ、結婚なんていうものは、賭けみたいなものでしかないのかもしれない。

 その先の言葉を続けられないのは、判らないから続けようがない、ということなのだろう。愛美と同様、そこのところがまったく判らないおれも、小さく頷くことしか出来なかった。

 結婚するって、どういうことなんだろう。

 結局おれは、その答えを見つけられない限り、何度見合いをしたところで、首を縦に振ることはないのではないだろうか。しかしその答えの見つけ方が、おれにはさっぱり判らない。霧の中を手探りして歩いているような気分だ。

 判らない──判らないが、ただ、

「……つまり、この話がなくなったら、もう二度とハルさんには会えないわけね」

 という、しょんぼりとした愛美の言葉だけは、妙に鋭い角度でおれの心に突き刺さった。



          ***



 店を出て、これから用事がある、と言うハルさんに、愛美はがっかりした顔になった。一度口を開きかけてすぐに閉じたのは、「また会いましょうね」と言おうとしたのを止めたからだろう、とおれは推測した。

「送りますよ」

 ホテルまでは車で来たので、ハルさんにそう申し出たが、やんわりと辞退された。もしかしてさっき席を外したのは誰かと電話をしていたのかな、この後、誰かと会う予定が入ってるのかな、とちらっと思う。

 もちろんおれはそれを口には出さずに、「そうですか」とだけ言って微笑んだ。

「じゃあ……」

 と、おれが言いかけた時、愛美が突然、素っ頓狂な大声を出した。

「あっ、あー、そういえば、私、お化粧直しするの忘れてた。大変、こんな顔じゃ外に出られない。ちょっと行ってくるから、待っててね、お兄さん。ハルさんも、ここでお兄さんと一緒に待っててもらえます? あとで落ち着いて、ちゃんとご挨拶したいから」

 そう言って、ひらりと身を翻しホテル内の化粧室へと走っていく。年頃の娘としてその行為はどうか、という以前に、ものすごくわざとらしい。お兄さんと一緒に、という部分を強調していたのは、気を廻しているつもりなのか、何か変なことを考えているのか。

 どうであれ、残されたおれにしてみれば、非常に気まずいことこの上ない。

「……えーと、今日はどうもありがとうございました、ハルさん」

 とにかく、愛美よりも先にハルさんに向かって礼を言っておくことにする。ハルさんは朗らかな笑顔でにっこりした。

「いいえ。あまりお役には立てなかったようですが、私は愛美さんとお話しできて、とても楽しかったです」

「それならよかった。愛美も、ハルさんのお話を聞いて、いろいろ考える機会をもらったと思います」

「そうですか? でしたらよろしかったんですけど。ただ美味しいイタリアンをご馳走になっただけのようで、心苦しく思っていたんですの」

「美味しかったですか?」

「ええ、とっても」

「先週、ご馳走し損ねましたからね」

 少し皮肉を込めて言うと、ハルさんが笑った。この人は、何をするにしても本当に楽しそうに笑うなあ。

「実は私、イタリアンも大好きなんですの」

 まるで重大な秘密を打ち明けるように声を潜めて言われて、おれも我慢できずに笑い出してしまう。

「だったら──」

 今度は別のもっといい店に案内しましょうか、と続けようとした言葉を呑み込んだ。さっきの愛美とまったく同じだ。

 今度って何だ。今度があるかどうかを、おれが決めてしまっていいのか。

 おれとハルさんは、気軽に「次」の約束が出来る関係じゃないんだといちいち思い知らされるのは、なぜか、あまり気分のいいものではなかった。胸の中に、何か余計なものがつっかえているような感じがする。


 ハルさんとの出会いが見合いじゃなかったら──


 という方向に向かいそうになった思考を、最後まで行く手前で、強引に押し潰した。

 そんなことは、考えたって仕方のないことだ。見合いじゃなければ、そもそもおれはハルさんと出会うことはなかったんだし、(仮)つきとはいえ付き合うこともなかったのだから。

「あら、哲秋さんのお知り合いですか?」

 いきなりハルさんに言われ、は? と目を瞬く。見ると、ハルさんの視線はずいぶん下の方向に向けられている。同じようにそちらに顔を巡らせてみて、おれは驚いた。

 自分のすぐ後ろに、幼稚園にもならないくらいの幼い女の子が、ちょこんと立っていた。しかもその女の子は、いつの間にかおれの上着の端を、伸ばした小さな手でしっかりと握り込んでいる。

「まあ」

 と声を上げて、ハルさんは腰を屈めて女の子と目線を合わせた。

「哲秋さん、こんな可愛らしい恋人がいらっしゃるんでしたら、そう仰ってくださらないと」

「…………」

 大人の一面があっても、やっぱりハルさんはハルさんなのだった。

「大変ですわ、これはいわゆる修羅場というやつですわね。私、三角関係の当事者になるのは初めてですの、困りましたわ」

「ものすごく嬉しそうなんですけど。さすがにこんな年齢はおれの守備範囲外です」

 ハルさんはおれの言葉を聞き流して、ニコニコしながら「はじめまして。まずは落ち着いて話し合いをいたしましょう」と女の子に話しかけている。放っておくと、ハルさんがどこまでも悪ノリしそうなので、おれは慌てて周囲を見渡した。

 女の子の母親らしい女性はすぐに見つかった。少し離れた場所で、数人でお喋りをしているグループの中に、一人空っぽのベビーカーを傍らに置いている若い女性がいる。多分あれだろう。

 しかし彼女もその友人たちも、賑やかに話して笑うのに夢中で、幼い子供がフラフラとその場からいなくなったことには、まったく気づいていないらしかった。

「困ったな」

 とおれは頭を掻きながらもう一度目線を下げて女の子を見る。

 母親を呼んだほうがいいのだろうか、それとも向こうに連れて行ったほうがいいのだろうか、と迷う。しかしどうやって連れて行けばいいんだ。甥や姪を抱っこしたことはあるが、だからって二十八の男が、見ず知らずの女の子の手を引いたり、抱き上げたりしたら、なんだかマズくはないだろうか。

 女の子はおれの煩悶を余所に、自分の母親のほうにすら見向きせず、片手でおれの上着を握ったまま、もう片手の指を自分の口に入れてちゅうちゅうと吸って、顔だけはまっすぐハルさんのほうに向けている。

 格好だけなら、まるで女二人が正面切って対峙しているようで、もう二十歳くらい年齢を上乗せしたら、確かに修羅場に見えなくもない、かもしれない。

「でもこういう場合の冗談としては普通、『隠し子?』あたりが妥当なんじゃないですかね」

 ついうっかり余計なことを口走ってから、ハルさんの目が輝くのを見て後悔した。

「まあ、哲秋さんには、お子さんが」

「違います」

「では、性的不能疑惑もこれで解消されて、お母様もさぞご安心を」

「違いますから。子供の前でそういう発言はやめましょう、ハルさん」

「それはそうですわね」

 ハルさんは素直に同意して、自分の手で口を押さえた。本当のところ、子供の前でなくても、そういう発言はどうかという気がするのだが。

 口を噤んだハルさんは、今度は黙ってまじまじと女の子と相対した。女の子のほうは、さっきからずっと身動きもしないでハルさんを凝視し続けている。

 未知との遭遇みたいだな、と、笑いの発作が込み上げてくるのを抑えつけるのに、おれは非常に苦労した。二人とも、何を考えているのか他の人間にはさっぱり判らない、という点が共通しているから、お互いに通じるところがあるのかもしれない。

「……ハルさんは、子供が好きなんですか?」

「いえ、周りに子供がいないので、もの珍しいだけです」

 問いかけると、あっさりした返事が返ってきた。

 どうやらハルさんは、自分の母性をことさらにアピールするような性格ではないらしい。でも、考えてみれば、その返事はかなり正直だ。おれだって、甥と姪が生まれるまでは、子供というものとはまったく縁がなかったのだし、自分から近寄ってみたこともなかった。


 ふいに、子供を見かけるたび、わあ可愛い、と喜んでいた女の姿を思い出した。


 彼女も、周囲には子供がいなかったはずだ。いなかったから、ただ可愛く思えただけだったのか、それとも、あれは子供好きというよりは、一種の主張だったのか。

 自分は家庭向きだ──という。

 そう考えてから、皮肉な見方をしてるな、と少し苦笑した。子供を構いたがったり、手料理を振る舞ったり、人の世話を焼きたがったり、彼女のそういう、「家庭的なところ」に惹かれたのはおれ自身だったのに。

 じっと女の子を観察していたハルさんが、首を傾げて、そろりと手を出す。女の子がようやくおれの上着から手を離し、差し出されたハルさんの手に触れ、指をきゅっと握った。

 ハルさんは女の子の小さな手を見て、「まあ」と感嘆の声を上げた。

「哲秋さん、ちゃんと爪がありますわ、こんなに小さいのに」

「そりゃそうですね」

 どちらかというと、感嘆のポイントがそこであることのほうが不思議だ。

「私、こんなにすべてがミニサイズの生き物をはじめて間近で見ました」

「それを子供って呼ぶんですよ、普通」

「でも、近くで見ると、可愛いものですわね」

「そうですね」

「このまま連れて帰りましょうか」

「ダメです犯罪です」

 どこまで本気で言っているのか判らなくて怖い。大急ぎでハルさんを牽制してから、おれはもう一度母親のほうへ視線をやった。

 と、ようやく自分の子供がいないことに気がついたらしい母親が、焦ったようにきょろきょろとあたりを見回し、名前を呼んだ。女の子がその声に振り向き、ハルさんから手を離して、悠然とした歩調で母親の許へと戻っていく。トコトコ歩く後ろ姿を見送って、おれはほっとした。やれやれ。

 母親の女性は、戻ってきた子供に安堵して笑ったが、次の瞬間、眉を吊り上げて怒った顔になった。どこに行ってたの、勝手にいなくなったらダメでしょう、と女の子に向けて注意している声が聞こえてくる。子供を見ていなかった当人がそれを言うのはどうかなあ──と思いながら女の子に同情していたら、「知らない男の人に連れていかれたらどうするの」と続けられて脱力した。

 もしかしなくても、おれは誘拐犯の疑いをかけられているんだろうか。どちらかといえば、誘拐を未然に防いだほうだと思うのだが。

 ハルさんにもその声は聞こえたのか、形のいい眉をきゅっと寄せ、頬に手を添えた。

「まあ、あらぬ疑いをかけられてますわね、哲秋さん」

「みたいですね」

「失礼ですわ」

「まったくです」

「幼女趣味のロリコンだなんて」

「そんなことは言われてませんよ!」

 突っ込んでから、たまらなくなって噴き出してしまう。おれの負けだ。

 こんな些細なことでさえ、ハルさんと一緒にいると飽きないよなあ──とくつくつ笑いながら、愛美のいる化粧室のほうに、なにげなく視線を移した。

 その瞬間、笑いが止まった。

 視線の先、たった今、化粧室の扉の向こうに消えた女性──


 ──深雪?


 一瞬ぱっと頭に浮かんだその名前を、おれはすぐに否定した。

 まさか、見間違いだ。さっき彼女のことを少し思い出したりしていたから、似たような顔にダブって見えてしまっただけだ、きっと。

 ほんのわずか目が合ったような気がしたその女性は、瞬きひとつの間に、化粧室の中へと入ってしまった。おれが顔を向けるまで、こちらを見ていたようにも思ったのだが、すぐさま逸らされてしまったから、ほとんど確認も出来なかった。

 顔も、はっきり見えたわけではない。もしかしたら、髪型とか、全体の雰囲気とか、そういうものが似ていたのかもしれない。

「哲秋さん?」

 ハルさんに呼びかけられてはっとする。それと同時に化粧室の扉が開いて、愛美が出てきた。

「ああ、いらっしゃいましたね」

 ハルさんの言葉に、おれは再び笑みを取り繕って頷いた。愛美が出てきた後の化粧室の扉は動かない。そちらに目が固定しそうになるのをなんとか自制して、やって来る愛美に向けた。

「お待たせしましたー」

 愛美が無邪気に駆け寄ってくる。

 今、お前と入れ違いに入った女の人がいただろう? という質問を飲み下すため、おれはひそかに拳を握った。

 バカバカしい。別人に決まってるじゃないか。それに、たとえ聞いたところで、愛美は深雪の顔も名前も知らない。

 ホテル内は快適な温度に保たれているはずなのに、背中に薄っすらと汗をかいているのを自覚した。自覚した途端、舌打ちしたいほどの忌々しさに襲われる。なんとか顔には出さずに狼狽を押し隠すのがやっとだった。

 動揺しているのは、深雪と似た女を見たということが理由じゃない。

 自分がまだ、そんなにも彼女に──過去にこだわっているのか、ということに、おれはひどく衝撃を受けていた。




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