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はるあらし  作者: 雨咲はな
本編
12/45

12.不確定未来



 ──約束の日曜日、おれと愛美はホテルのティーラウンジで、ハルさんを待っていた。

 ハルさんと見合いをしたホテルとは、別のところである。あそこは桜庭の家族全員が顔を知られているため、下手に使えないのだ。あのホテルをよく利用する母に、「そういえば先日はご兄妹さまがお揃いでいらっしゃって……」などという話をされたりしたらシャレにならない。

 愛美は愛美の事情で、おれはおれの事情で、今回のハルさんとの会食の件を、母親にだけは知られたくなかった。

 見合いをしたのは伝統と格式を重んじる、一言で言うと老舗の古いホテルだったのだが、こちらはまだ新しい。そのためなのか、調度が綺麗で天井も高く、雰囲気は良いものの、ラウンジ内はかなり人が多くてザワザワしていた。

「お兄さん、なんだかソワソワしてるわね。ちょっと落ち着いたら?」

 愛美に注意されて、おれはラウンジの入り口に向けていた視線を自分の向かいの席に戻した。

「別に、ソワソワなんてしてない」

「してるわよ。さっきから何度も周囲をきょろきょろ見回してるし」

「いや、ハルさんがいるかもしれないと思って」

「なに言ってるのよ。そんなに広い場所でもあるまいし、先に到着してたら私たちに気がつくに決まってるじゃないの」

「だから──」

 あの人の場合、こっちに気がついても、声をかけずにニコニコしながら観察してるかもしれないんだ、と言いかけ口を閉じる。そんなこと言ったって、この妹に信じてもらえるわけがない。おれだって、そんなことをする人、ハルさん以外に見たことがないからな。

 ひとつ咳払いをしてから、内容を変えて言い返す。

「お前だって、ソワソワしてるのは同じだろう」

 こちらが頼んだことなので、おれと愛美は約束の時間よりもずいぶん早めにこの場所に着いていた。だというのに、愛美の前に置かれている紅茶は、まだまったく手つかずのまま、運ばれてきた時と完全に同じ形を保っている。変化しているのは、立ち昇る湯気がかなり少なくなってきたことくらいだ。ハルさんが来る頃には、もうすっかり冷め切ってしまっているんじゃないだろうか。

「私は──私は違うわよ。ちょっと緊張してるだけよ」

「同じじゃないか」

「違います。だって、お兄さんの彼女と会うなんて初めてなんだもの。妹としては緊張くらいするわよ」

「だから彼女じゃないって……」

 おれの抗弁を右から左へと聞き流し、愛美はふいに姿勢を真っ直ぐにすると、目を眇めておれを上から下までまじまじと眺めた。そういうことをすると、やっぱり母親そっくりだな、と思うが、口には出さないでおく。

「でも、こうして見ると、お兄さんもなかなかね」

「なかなかって何だ?」

「なかなか悪くないわ。お兄さんて、けっこう見た目がよかったのね」

「ちっとも褒められている気にならない」

 今日のおれはさすがにスーツではなく、私服を着ている。でもどちらでも、同じ家に住んでいるのだから、愛美にとっては見慣れたものだろう。なんで今さら改まって、と怪訝に思いかけ、そういえば、妹とこうして外で向かい合いお茶を飲むこと自体が今までなかったな、と思いついた。その珍しい状況が、愛美の目をいつもと少し変えているのかもしれない。

「別に褒めているわけじゃないわよ。ちょっと気がついただけ。……ねえ、お兄さんて、さ」

 愛美が一旦、言いにくそうに口ごもる。

「今まで、彼女がいなかったわけじゃないのよね?」

「…………」

 なんと答えたものか迷って少し黙り、結局、「……まあね」と一言だけ返した。それをどう受け止めたのか、愛美が慌てたように手を振る。

「うん、そうよね。ごめんなさい。こんなこと、ハルさんに会う前に聞くことじゃないわね。ただ、お兄さんて、勉強もスポーツもそこそこ出来て、見た目も性格も悪くないじゃない? それなのに、今まで彼女がいるとか、そんな話を一度も聞いたことがないなあと思って」

「母さんに知られると、うるさそうだったから」

 おれの答えに、愛美は頷いた。

「ああ、確かにそうね。考えてみれば、智兄さんだってそういうことは家で言わなかったし、私だって言わないものね。お互いさまね」

「…………」

 愛美は納得したように笑ったが、おれは何も言わず、少し微笑らしきものを浮かべるだけに留めた。

 ──考えてみれば、おれは家族の誰にも、深雪のことを話していなかったんだな、と、思っていたのはそんなことだった。

 母はもちろんだが、信頼している兄にも。無邪気なこの妹にも。スミさんにさえ。

 最初に、結婚、の二文字を考えはじめた時点で、そのうちの誰かに打ち明けていたってよさそうなものだったのに、と今になって思う。そうしていれば、おれも深雪も、現在とはかなり異なる道を進んでいたかもしれない。今さら、彼女との仲をどうこうしたいとは思わないし、気持ちも過去には戻れないが。

 真面目に考えているようで、やっぱり心のどこかでは、まだ現実味のない夢物語のように思っていたのだろうか。

 おれは、彼女との結婚生活というものを、果たしてどこまで真剣に思い描いていたのだろう。


 ……誰かと結婚する、ということを、おれはどう考えているんだろう。


「ねえ、お兄さん、あの人じゃない?」

 思考に沈みかけた手前で、愛美の声によって現実世界へと引き戻された。

 入り口へ目をやると、ラウンジ内を見回しているハルさんが見えた。軽く手を挙げて合図したおれに気づき、ぱっと嬉しそうな笑顔を浮かべる。

 その顔を見て、なんだかやけに、ほっとした。



          ***



 愛美がおれの隣の席に移り、それまで愛美が座っていた向かいの席にハルさんが座った。

 羽織っていたコートを脱ぐと、淡く明るい色のワンピースが目を引いて、まるでそこだけ一足早く春が訪れたかのようだった。

 よく似合ってる、とおれが少しぼんやり見惚れているうちに、ハルさんは愛美に向かって、にっこりしながら「はじめまして、菊里春音と申します。遅れて申し訳ありません」と礼儀正しく挨拶をした。

「あ、はい。はじめまして、桜庭愛美です。今日はすみません、わざわざ」

 遅まきながらここでようやく、愛美は自分のぶしつけさを反省したらしい。頭を下げて謝罪の言葉を出す愛美に、ハルさんは目を細め、今度はおれに向かってにこっと笑いかけた。

 可愛い妹さんですね、と言っているようなその表情に、照れくさいような気まずいような、複雑な心境になる。なんだかこれじゃ本当に、彼女に妹を紹介しているみたいだな。

 少しだけ、天気のことやここに来るまでのことを話してから、時計を見た。

「じゃあ、出ましょうか」

 着いて早々だが、昼食を一緒に、というのが目的なので、そうゆっくりもしていられない。なにしろ人出の多い日曜日だし、時間が遅くなると、どこの店も満杯になってしまう。

「ハルさん、なにがよろしいですか」

「そうですわね、イタリアンなんてどうですかしら」

「…………」

 思わず、口を噤んだ。

 無言になったおれの脇腹をこっそり肘で突きながら、愛美が、「いいですね、イタリアン」とわざとらしく喜んで同意する。気を利かせたつもりらしい。

「そういえば、このホテルの中にも美味しいイタリアンのお店がありますよね」

「ええ、私も以前に行ったことがございます。感じのいいお店でした」

「ですよね。正式なフルコースよりはラフだけど、その分、あんまり堅苦しくないし。空間が広くて、ゆったりしてるのもいいですよね」

「そうですわね。男性がはじめてのデートで女性を連れて行きそうなお店、というか」

「そうそう、そうですよねー。最初のデートでちょっと小洒落たイタリアン、って、いかにもなパターンですよね」

 女性二人で、陽気に盛り上がっている。

「…………」

 そこから離れ、おれはさっさと会計を済ませるために、伝票を持ってレジへと向かった。

 ハルさんめ……。



 ホテル内を移動して上階のイタリアンの店へ行き、料理が運ばれてきた時にはすでに、愛美はすっかり打ち解けてハルさんとお喋りするようになっていた。もともとほとんど人見知りをしない性格だということもあるが、ハルさんが自分の年齢に近くて安心した、という理由もあるのだろう。

「それにしても、ハルさんがこんなに綺麗な人だなんて知りませんでした。お兄さんたら、ハルさんのこと、あんまり教えてくれないんですもの」

 いきなり「ハルさん」呼ばわりをされても、ハルさんはまったくいつもと変わりなくニコニコしたままである。

「お兄さん、『ハルさんは可愛い人だ』としか言わないんですよ。照れてたんですね」

 愛美がからかうように付け加えて、おれは飲みかけていた水を噴きそうになった。「まあ」とハルさんがくすくす笑うのを見て、今度は冷や汗が出そうになる。

「それくらいしか、言いようがなかったんじゃございませんかしら。なにしろ私、取り立てて変わったところもない、平凡な人間ですから」

 しれっとした笑顔で、なに言ってるんですか、ハルさん。

「そんなことないですよ。美人だし、優しそうだし、とっても上品だし。お見合いで、哲兄さんが一目惚れした理由が判ります」

 お前もなにを言ってるんだ、愛美。

 ハルさんと愛美の間で和気藹々と交わされる、本当のところからはかなりズレた会話を横に、おれはひたすら黙って料理を口に入れていた。他にどうしたらいいのか、まったく判らない。下手に言葉を出すと、ものすごく大きな墓穴を掘ってしまいそうだ。

「ちゃんと、働いてらっしゃるし」

 だから、ようやくその本題が切り出された時には、本当にほっとした。

 愛美はそう言うと、それまでの笑みを消して、真面目な瞳でハルさんの顔を正面から見た。ハルさんも微笑んで、手にしていたナイフとフォークを白い皿の上に置く。カチン、という小さな音がした。

「──ちゃんと、と申しますかどうかは判りませんけど」

 ハルさんは静かに言葉を出した。

「愛美さんがお聞きになりたいことは、どれでしょう? 菊里商事についてですか? 私が在籍する海外事業部についてですか? 仕事の内容についてでしょうか? それとも、働こうと思った動機? 入社してからの周りの目? お母様に対する説得の方法?」

 どれをお話しいたしましょう? とハルさんが穏やかに訊ねる。その視線を受け、愛美の目が迷うようにふらりと揺れた。

 ここに至ってはじめて、自分が本当に聞きたいのは何だろう? と自問自答しているかのように。


 自分自身が欲しい答えは、なんだろう?


「…………」

 おれはただ黙って、二人のやり取りを眺めていた。

「……あの、ハルさんは、どうしてお父様の会社を選ばれたんですか」

 愛美の問いに、ハルさんは小首を傾げて一旦間を置き、そうですね……と考えるように言った。

「菊里商事はもともと私の祖父、父の父が興した会社なんです。最初は従業員二十名ほどの、小さな会社だったのですけど、祖父が苦労して大きくいたしましてね。祖父が引退し、父が跡を継いだ時には、抱える社員は数百名にまで膨らんでおりました」

 会社としては、そんなに大きいわけではございませんけど、とハルさんは少し笑った。

「それでも、祖父も、父も、自分の会社を愛しておりましたし、仕事に誇りを持っておりました。ですから父は社長になってから、なおさら張り切って、一生懸命に働きました。全精力を傾けて仕事に没頭し、その甲斐あって、規模もますます大きくなったのですが──」

 そこでわずかに、声音を落とした。

「私が小学校に上がる前くらいから、いろいろとトラブルや不幸な出来事が続きまして。景気が悪いこともあり、それまでずっと上向きだった業績が、一気に下降してしまったんです」

 そう言いながら、ハルさんは自分の細い指を動かして、底辺のない三角のような形を宙に描いてみせた。

 途中までは上り坂、ある一点から、急激な下り坂だ。どう見ても、ゆるやかな角度ではなかった。

「ずいぶん、危ない状態だったようです。その頃の父は、傾きかけた会社を立て直すために、本当に必死でした。私も幼かったのですけど、日に日に憔悴していく父の姿はよく覚えています。──結局は、桜庭の傘下に入ることで、会社は最悪の事態を免れたわけですけれど」

 おれと目を合わせ、くすっと笑う。「ですから、桜庭一族に、感謝はあれど恨みはございませんの」とイタズラめいて付け加えた。

「……それでも、私の意識には、強くその当時のことが刻み込まれております。大きくなったら、なんとしても菊里商事に入って、父の助けになろう、と子供なりに真剣に思った記憶が今も残っております。父の右腕になって働きたい、というよりは、頑張ってお手伝いしよう、という、その程度のものですが。その気持ちが大人になっても変わっておりませんでしたので、菊里商事に入社いたしました」

 それが、あの会社を選んだ理由です、とハルさんはニコニコした。

「でも、その、社長の娘ということで、いろいろあったんじゃないですか」

「ええ、いろいろございます」

 遠慮がちな愛美の問いかけに、あっけらかんと返ってきた答えは、過去形ではなかった。となると、現在も、その「いろいろ」は続いているらしい。

 ハルさんは、しかし、それについての具体的なことは一切言わなかった。その「いろいろ」についての感想も、まったく口にはしなかった。

 大きな窓から差し入る陽射しに照らされながら、背筋を伸ばすハルさんは、今まででいちばん大人びて見える。

 舞台の上で子供と一緒に踊ったり、おかしな設定でデパートの店員を振り回したり、澄ました顔で人をからかって楽しむハルさんとは別人みたいだな、とおれは思いかけ、それを打ち消した。

 ……いや、違うか。


 これもまた、彼女の一面なんだ。

 ハルさんは、「社長の娘」ではあるけれど、同時に、芯の通った「働く女性」でもある。

 ──その姿は、とても美しいものに思えた。


 愛美は束の間、そういう彼女をぽうっと見てから、おそるおそるというように質問を重ねた。

「イヤなことも、ありました?」

「イヤと思うかどうかは、自分の心の持ちようではないですか?」

「…………」

 困惑したように眉を下げる愛美を見て、ハルさんは口元を緩め、首を傾けた。

「愛美さんが知りたいのは、そういうことなのでしょうか。人間関係だけでなく、大変なことは、それはたくさんございます。仕事ですもの、失敗して落ち込むことも、理不尽なことも、納得できないことも、悔しくなることもございます。そういうことでしたら、私でなくても、哲秋さんでも、もう一人のお兄様に訊ねられても、答えは得られると思いますけれど」

「…………」

 愛美の視線が徐々に下に向かう。

 そのまま黙りこくってしまった愛美を見て、おれとハルさんはちらっと視線を交わした。多分、お互いに思っているのは同じことだ。

 ……きっと、愛美は迷っているというより、不安なのだろう。

 母が提示するはっきりとした道筋のある未来と比べ、自分が行きたいと望む未来が、あまりにも漠としすぎていて、心細くてたまらないのだ。

 本当にこっちに行っていいのだろうか、大丈夫なのだろうか。そういう気持ちがある自分に気づいているから、母に強い態度で向き合えない。愛美が無意識に求めているのは、大丈夫、こっちで間違いないよと力強く断定して、背中を押してくれる手の平だ。似たような立場のハルさんからなら、それをもらえるのではないかと、愛美は期待していたのかもしれない。

 ──でも、それは無理な話なんだ、愛美。

 誰にも、未来の保証なんてしてやれない。誰からも答えはもらえない。

 求める答えは、自分で見つけるより他にない。

 ……いや、偉そうなことは言えないけどね、と苦笑した。おれもまだ、それを探している途中なのだから。

「ごめんなさい。私、やっぱり、参考になるようなことは何も申せませんでしたね」

 ハルさんが柔らかい口調で言うと、愛美は「いえ」と、案外しっかりした声で言って、ふるふる頭を横に振った。

 愛美だって、自分が求めているものがどこからも与えられるものではないことくらい、もう判っているはずだ。おれや兄が言うよりも、ハルさんの言葉はまだしも愛美の心に率直に届いたことだと思う。

「少し……少しだけど、スッキリしたような、気もします」

 愛美が呟くように言うのを聞いて、ハルさんはにっこりとした笑顔になった。

「それはよかったですわ。では、乾杯いたしましょう」

「え。乾杯、ですか。何に?」

 水の入ったグラスを持ち上げるハルさんに、愛美がきょとんとする。おれは、また「お肉に」とでも言うんじゃないだろうなとヒヤヒヤした。

「愛美さんのこれからの明るい未来と、来たるべき戦いに。大変なことはたくさんございますけど、嬉しいことや、楽しいことも、同じようにたくさんございます。重要なのは、あまり悩みすぎないことですわ。反省はしても、後悔はしないようにいたしましょう」

「は、はあ……」

 愛美がますますぽかんとしている。おれは呆れるのを通り越して、感心した。ハルさんに堂々とそう言われると、本当に未来が明るく思えるから不思議だ。

「ハルさんのその何事にも楽天的な性格が羨ましいですよ、おれは」

「ケ・セラ・セラですわ、哲秋さん」

 歌うように言うハルさんに、おれと愛美は同時に噴き出した。笑いながら、三人で乾杯する。

 これからの未来と、来たるべき戦いに向けて。

 お兄さんの言うとおり、ハルさんて可愛い人ね、と愛美がこっそり囁いた。




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