焦がれし君よ
前作「いと貴きひと」の男性視点です。
随分前の作品ですので、少し雰囲気が異なっているかもしれません。
ご注意ください。
我欲は捨てねばならぬ。
己を殺して民の声を聞け。
そうしてようやく人の上に立つことが許される。
幼いころから、そう教えられてきた。
我慢せねば。
誰より多くのものを持っているのだから、誰よりも己を律さねばならぬ。
それが私に課せられた義務。
焦がれし君よ
彼女と出会ったのは十二歳の誕生日だった。
十歳の頃から政の勉強の一環として、父の隣で各大臣の報告を聞くようになった。
その中で常に公平な判断を下す父に憧れを抱いたのが始まり。
追いつきたいと勉学に励み、次期天子としてふさわしい行動を自らに課した。
自らの感情に振り回されず、常に大局を見る。
そして、誰もが従うに相応しいと感じさせる振る舞いを意識した。
臣下には寛容に、しかし侮られぬように。
「人前で僕と言ってはなりません」
そう窘められてからは、決して僕と口に出すことは無くなった。
子供らしい我儘も、侍女を困らせるだけであると気付いてからやめた。
私は誰よりも恵まれた存在であるのだから、今以上を望むべきではないのだ。
そんなある日、左大臣が娘を連れてきた。
十歳を迎えた娘を紹介しに来たのだという。
御簾越しでもわかる、愛らしい顔立ち。
何よりその天真爛漫な振る舞いに惹かれた。
「葵と申します。以後よしなに宜しくお願い致します」
緊張した面持ちでそう述べた後、ふにゃりと安心した顔で左大臣を見上げる顔。
誰にはばかることなく、父親に甘えるあどけなさ。
一身に愛を受けてきたからこそ、臆することを知らない無邪気さは、太陽のように眩い。
その輝きを、私に向けてほしいと思った。
二人が帰ってから、誕生日祝いにかこつけて彼女を望むと、驚くほどあっさりと許諾された。
彼女を私の遊び相手として、宮廷に召し上げるという。
柄にもなく浮かれ、挨拶の日は装身具のひとつひとつにまでこだわった。
それなのに。
早足になるのを抑えるのに苦心しつつ、彼女の待つ控室にたどり着き、襖をあけた先には、誰もいなかった。
何が起きているのかよく分からなかった。
その夜、彼女は惟典の許嫁となったことを聞かされた。
惟典は弟であり、将来は臣下に下る。
ならば、主として寛容にならねばならない。
惟典と葵は仲睦まじく、それは祝うべきことだ。
弟の許嫁が欲しいなどという愚劣な想いは、決して許されるものではない。
そう思うのに、彼女の姿を見るたびに、目を奪われる。
ある雪の日に、池に乗り出す葵の姿を見て、思わず声をかけそうになった。
その気配に気づいたのか、彼女がこちらを振り向いた。
初めて何の隔たりもなく目を合わせることができた彼女は、私が誰なのかわかっていないようだった。
それはそうだ。
私が御簾の向こうから彼女を見て、一方的に好意を寄せただけ。
今は手を伸ばすことすらできない存在となってしまったことがやるせなく、彼女から目を逸らした。
私は、彼女の名前すら呼べない。
歳を重ねるごとに美しくなっていく彼女を、ただ見ていることしかできなかった。
思い切らねばならないと思っても、気持ちを断ち切れなかった。
女性らしい落ち着きを身に付けたようでいて、夜中に閨を抜けだしたりする奔放ささえ、いとしい。
私は本当に愚かで醜い。
結局、惟典が逆らえないことを分かっていながら、葵を望んでしまった。
自らを律しきれなかった。
与える存在でなければならないのに、奪う存在となってしまった。
それでも後悔はしない。
夜の帳のその先で、ようやく彼女を抱きしめる。