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夢盗奴   作者: 安藤 淳
2/6

別れ

 恋人との別れは胸に鋭い痛みを残しましたが、それが徐々に癒える頃、新たな出会いが待っていました。

 病院に駆け付けると洋子の病室のドアには面会謝絶の張り紙があった。呆然と立ち尽くしていると、ドアが開き、白髪混じりの女性が洗物を持って出てきた。出会いがしら、二人は互いに見詰め合った。女の顔がにわかに強張った。

「あなた、中条翔さんじゃありません?」

「は、はい」

「娘から貴方のことは聞いています。でもまさか、貴方があの子をこんなにまで追い詰めるなんて思いもしませんでした。今年のお盆休みには貴方を連れて来るって、私に紹介するって言っていたのに……」

ここで言葉を切ると、ハンカチを取り出し、涙を拭ったが、直後に、その赤く濁った瞳をまっすぐ中条に向け、きっとなって言い放った。

「この責任はきちっと取ってもらいますから、そのつもりで。さあ、帰って、さっさと帰ってください。貴方をあの子に会わすわけにはいかないわ。貴方の顔を見れば、あの子は情にほだされ、貴方を許してしまう。それほど貴方を愛していた、だから自殺をはかったのよ。いい、自殺よ、自殺。貴方のしたことは、婚約不履行よ」

「お母さん、それは違います。私は彼女を裏切ってなどいない。彼女の勘違いなんです。分かって下さい」

「お母さんなんて、気安く呼ばないでもらいたいわ、けがわらしい。貴方は、自分のやったことの責任を取るのよ、それしかあの子に対する贖罪の方法はないの、分かった。兎に角、帰って、帰ってちょうだい」

中条を押しのけるようにして憤然と歩いて行く。そして廊下の角を曲がって消えた。振りかえり、部屋のドアに視線を戻した。面会謝絶の文字は中条を拒否するように、そこに掲げられていた。


 とぼとぼと四谷の街をさ迷った。確かに、洋子に対する愛情は以前ほどではなくなっていた。彼女との関係に何か漠然とした不安が常に付きまとっていたからだ。だからと言って、別れ話を持ち出すほど冷え切っていたわけではない。

 中条は女たらしではないが、経験は豊富だった。初体験は中学3年のことで、先輩の女性に童貞を奪われた。大学で演劇をやっている頃など女からの誘いは引きも切らず、女に苦労したことはない。

 そんな女遊びも洋子に出会ってからぴたりと止めた。洋子ほどの女はこの世にいないと思ったからだ。精神的にも、肉体的にもである。その精神的な部分に不安を覚えたとはいえ、愛し合う喜びは何物にも代えがたかったのである。

 しかし、何故、洋子が中条の見合のことを知ったのか不思議だった。それは母親の友人の紹介で、母親に言わせると、曖昧に返事をしているうちに、のっぴきならない状態になってしまったらしい。母親に会うだけ会って欲しいと懇願されたのだ。

 その見合いは新宿のホテルで行われた。中条は堅苦しい席を早々に立ち、見合い相手を新宿御苑に連れ出した。そして正直に打ち明けた。婚約者がいること、母親が結婚に反対していることも。相手は一瞬顔を曇らせたが、深い溜息とともに笑顔を返してきたのだ。

 ただそれだけのことだった。裏切ったわけではない。しかし、洋子は中条の秘密を嗅ぎ付け、そして絶望のあまり左手首を切った。もしかしたら、新宿を歩いていた二人の姿を偶然見かけ、その日の晩、中条に電話を掛けてきたのかもしれない。洋子の涙声が蘇る。

「私、知ってるの。貴方がお見合いをしたことを。私に黙って。まるで、だまし討ちじゃない。幾らなんでも酷過ぎる。貴方を後悔させてやるわ。このまま死んでゆくの。貴方の声を聞きながら…」

慌ててアパートに駆けつけると、既に救急車で運ばれた後だった。

ふと気が付くと信濃町駅前に出ていた。病院から、どこをどう歩いてきたのか覚えていない。深い後悔の念に胸が締め付けられた。見合いの事情を打ち明けておくべきだったのかもしれない。もう、終わりだと思うと胸が疼く。切ない思いが心に風穴を開けた。

 

 洋子に対する未練も、洋子の母親が要求してきた法外な慰謝料の額を見るに及び、ため息とともに徐々にではあるが薄れていった。途方もない金額だった。通常の十数倍、3000万円が要求されていたのだ。思わず、「性悪女」という言葉が甦った。

 最終的には示談が成立し、1000万円が支払らわれた。母親は小切手を見せ、中条にこう言った。

「高い授業料だったわね。でも、これであの娘と手が切れるのなら払う価値はあるわ。あの娘は貴方に相応しくなかったから。最初から分かっていたの。計算高いのよ、親子揃って」

「母さん、そんな言い方はよせよ。彼女は自殺するほど思いつめていたんだ。ましてその責任はこっちにあったんだから」

「翔ちゃん。私、彼女が担ぎ込まれた病院に行って確かめて来たの。彼女の傷はたいしたことはなかったって、先生がにやにやしながらそう仰っていたわ」

「だって、面会謝絶の張り紙があったじゃないか」

「あのお母さんが貼ったんじゃないかしら。そんな気がする」

「それじゃあ、お母さんは、あれが狂言だとでも言うの、そんなことあり得ないよ。確かに迷い傷程度であったとしても、彼女が死のうとした事実にかわりはないんだから」

 

 中条が結婚したのはそれから2年ほどしてからだ。相手は例の見合い相手だった。二人はまるで運命の糸に操られるように再会したのだ。縁は異なもの味なもの、というが、二人の再会劇はまさにこの言葉通りである。

 その日、中条は下請けの部品製造会社を訪ねた。応接に通され座っていると、一人の事務員がお茶を運んできたのだが、その顔に見覚えがあった。一瞬、二人は見詰めあった。その女性が「あらっ」と両目を丸くし、お盆を胸に押し抱いた。中条もあの見合い相手だ

と思い当たり、声を詰まらせつつ、言葉を発した。

「た、確か、山下るり子さん……でしたよね」

「ええ、でも、まさか、こんな風にまたお会いするんて、不思議な縁ですね」

「全くです。僕も驚きました。それで、あの、その後……」

るり子がにこりとして言った。

「あれ以来、すっかり男性不信に陥って独身を通してます。一年半も」

ぷっと吹き出し、中条を見上げた笑顔が可愛いらしかった。中条も釣られて笑った。

 二人の会話はノックの音に遮られ、るり子はそそくさと出ていったが、ドアを閉める時、

中条にちらりと笑みを見せた。

 商談が済んで、総務のカウンター越しにるり子を探したが見当たらない。見送ろうとする担当者と歩きながら後ろ髪引かれる思いでエレベーターに乗り込んだ。しかし、このまま会社に戻る気にはならなかった。中条は決意を固めた。

 1階に着くと早速受付嬢に総務の山下るり子との面会を申し入れた。受付嬢の声が響く。

「お客様が下にお見えですが、11階にお通しして宜しいですか。えっ、ロビーでお待ち頂くのですね、はい、はい、分かりました」

受付嬢は受話器を置いた。

「山下はロビーに下りてくるそうです。そちらでお掛けになってお待ち下さい」

しばらくして5基あるエレベータのうち一基が11階で止った。そしてゆっくりと降りてくる。彼女が乗っているに違いない。もし、一度も止らなければ、自分たちは結ばれる。

そう思った。そして、エレベーターは一気にロビーまで降りてきた。ドアが開かれ、微笑むるり子がそこにいた。

 こうして二人は交際するようになり、半年後には結婚した。そして一年後には勝が生まれ、二年後には孫に見送られ母が逝った。小さなマンションから親子三人には広すぎる家に引っ越してきたのはそれから間もなくのことだ。

 幸せに暮らしていた。広い敷地に瀟洒な家、美人妻に可愛い子供。休日には日がな一日芝生で勝と戯れ、疲れると木陰で昼寝をした。二人目が出来ないのが唯一の不満といえば

不満だったが、それは勝が物心ついてからでも遅くはないと思っていた。

 そんな幸せな日々が壊れてゆくなど思いもしなかった。子供の成長を見守り、家庭から巣立つのを助け、そして夫婦して老いてゆく。そんな人生を送るものと漠然と考えていた。ゆっくりと時間は流れ、勝は5歳になろうとしていた。


 その頃、大学時代の演劇部の同窓会通知が舞い込んだ。主催者は一年先輩の阿刀田だった。彼は唯一人初心を貫徹し、演劇で飯を食っている男だ。中条のように最初から日和って一般企業に勤めた人間を心のどこかで軽蔑しているようなところがある。

 中条は行く気はなかった。どうせ阿刀田の独壇場になることは分かっていた。何年か前、偶然、阿刀田と新宿ですれ違ったことがあった。るり子と見合いし、新宿御苑へ向かう途中だった。阿刀田は、るり子にねっとりとした視線を送って、「ちょっと紹介しろよ」と下卑た口調で言ったものだ。

 中条は適当にあしらって、その場をやりすごしたが、そんな短い時間でさえ、大学の先輩である有名な演劇評論家の名前を出し、対等に酒を飲み演劇論を戦わせているなどと自慢するような男なのだ。

 しかし、学生時代、阿刀田の芝居を洋子と何度か見に行った。二人して楽屋に花を届けたこともあったのだ。同窓会の招待状は洋子と過ごした青春の思い出を呼び覚ました。いつの間にか懐かしさが心を満たしていた。そして呟いた。

「洋子はどうしているのだろう?阿刀田さん主催の会に来るなんてこと…ないか…」

あの自殺騒ぎや慰謝料問題の修羅場が遠い日の出来事となり、時間というフィルターを通して懐かしさだけが抽出されていた。自分のために命を投げ出そうとした健気な女のイメージだけが膨らんでゆく。思わず欠席の文字を消していた。


 会場は中野サンプラザの小ホールで、50人ほどの先輩後輩達がグラス片手に談笑している。懐かしい顔を見出し近付こうとした矢先、阿刀田が目ざとく中条を見つけ、人を掻き分け寄ってきた。

「おい、久しぶりだな、新宿でばったり会って以来だろう。あの時は、確か子供が生まれ

るとか何とか言っていたと思ったが」

どうやら誰かと勘違いしているようだ。るり子を紹介しろとしつこく迫ったことなど、すっかり忘れているようだ。苦笑いしながら答えた。

「お久しぶりです。先輩、それ、誰かと間違えていません?確か先輩と会ったのは女房と結婚する前ですから、子供なんて生まれてなんかいませんよ。まあ、それはそうと、お元気そうじゃないですか。相変わらず派手にやってるんですか?」

「ああ、相変わらずだ。そうそう君にも紹介しておこう」

こう言うと、阿刀田は中条に覆い被さるように肩を組み中央へ進んでゆく。そこには白髪の老人が数人の紳士達に囲まれ談笑している。阿刀田はそこに強引に割って入った。その強引さは、ゆとりを失った人間の焦りに誘発されている、そう感じた。

 恰幅のよい白髪の老紳士が迷惑げに顔を歪めた。阿刀田はかまわず口を開く。

「飯田先生、紹介いたします。こちらは東都大学演劇部55年卒の中条翔君です。飯田先生と同じように彼の御母堂は我が演劇部に多大な貢献をなさった方です。中条君、この方は我々の大先輩で演劇評論家の飯田久先生だ」

中条が挨拶すると、飯田先生はにこりと微笑んで挨拶を返した。そして先ほどからの相手と話しの続きに入っていった。中条はその場を離れたが、阿刀田はその輪の中に入ろうと必死で耳を傾けている。その額に玉の汗を浮かべているのが見えた。

 その時、中条の背後から、男が耳打ちした。

「奴も必死だ。奴が立ち上げた劇団が潰れかけている。もう、お前は寄付の話しを持ちかけられたのか」

驚いて振り返ると忘れられない顔がそこにあった。学生時代の悪友、桜庭がそこに佇んでいた。目顔で挨拶し、なるほどと言った表情で何度も頷いた。

「いや、まだだ。だけど、俺にはそんな余裕などない。親父の遺産はお袋があらかた食いつぶした。狛江の土地も相続税が払えず物納だ。残ったのは300坪の土地と家だけだ。

とはいえ、そんな家の事情を話すのも癪だな」

「そんなことないよ。ない袖は振れんと言うべきだ。俺なんて50万小切手切らされた。阿刀田先輩には昔から泣かされっぱなしだ。でも、怒ると怖いからな」

「ああ、まったく。ところで樋口洋子はどうしているんだろう。お前聞いているか」

「ああ、横浜の金持ちのぼんぼんと結婚したって聞いている。一度横浜で会ったことがあるけど、とにかく派手な女だよ。上から下まで金ぴかで、こてこてだった。お前別れて正解だよ。あんなんじゃ、いくら稼いだって追付きゃしない」

二人の背後に佇んでいた後輩の上野が割って入った。

「いや、それがそのボンボンってのがかなりのやり手で、洋子に不審を抱いて私立探偵をつけたらしいんです。結局、彼女の浮気がばれて家を追い出されたってことですよ。その後、六本木のうちの店にもよく来たけど、相変わらず派手だった。あのスタイルだから目立ってましたよ」

上野はその店のオーナーだ。桜庭がにやにやしながら聞いた。

「もしかして、お前、洋子を食っちまったか、それとも食われちまったか、どっちかだろう?」

上野は真っ赤になって否定したが、桜庭はにやりと笑って意味深な視線を中条に送ってきた。中条は深い溜息とともに色褪せた青春のマドンナの思い出を屑籠に放り投げた。

 結局、上野も寄付を迫られているという話しにうんざりして、中条は、阿刀田に気付かれぬよう会場を後にした。その日は桜庭等二人と六本木で飲み明かしたのだが、数日後、阿刀田から電話が入った。案の定寄付の話しだったが、やんわりとお断りした。

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