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4.

 彼女が夜勤明けで帰ってきたとき、松岡はまだコタツの中で寝ていた。手のひらの中にはなぜか赤い数珠があった。


 彼女は無言で松岡を見下ろしていた。目の下には真っ黒に隈がうかんでいた。


「おかえり、なにかあった」

「救急の患者さん、40代の妊婦さん、母体はなんとか助かったけど――ショックで錯乱がすごくて、やっぱり年取ってからはいろいろリスクが」


 彼女は疲れきった顔で、それ以上はしゃべらなかった。いやな沈黙があった。


 松岡は起き上がったけれど、彼女の顔を見ることができなかった。


「いろいろ考えた、明日には30歳になる、こうしていていいのかって、このまま一生子どもを産まない人生なんてあるのかって、純也のことは好きだよ、でもわたし、子ども産みたいもん、ちゃんと家庭を持ちたいもん。


 もう無理だよ。


 別れよう」


「オレと別れてどうするの。他にオトコでもいるのかよ」


 どうして男って、すぐそう考えるのかな、彼女は乾いた声で笑った。


「いるわけないじゃん。これから探す。コンカツとか」


「そんなんでいいの、好きでもない相手と子どもが欲しいから結婚して、なんて変じゃない。そんなのやめろよ。


 オレ、ちゃんと資格取るよ、もっと給料のいい仕事を探す。そうしたら結婚しよう」


 腹の底から押し出していったつもりの声が、空虚に響いた。

 ぞっとする目で、彼女は松岡を見ていた。


「帰ってくるとき、考えていた。

 もし純也が次の仕事見つけていたら、純也のこと信じて、もうすこし待ってみようって。ううん、見つかってなくてもいい、仕事を探そうとしているだけでもいい、そう自分に言い聞かせながら一歩一歩歩いてきた。


 でも純也寝ていた。


 無職なんだよ。貯金もないじゃん。


 なのに寝ていた。


 どうして?

 わたしが働いているから?


 わたしが家賃も光熱費も食費も、いままでだって多く払っていたのに、これからはぜんぶ、純也の分までわたしが面倒見るの?」


「ごめん、でも」


「男の人っていいよね、年とっても、若い女の子とくっつけば子どもできるもん。

 だから真剣に考えていない。


 でも女はそうじゃない。


 もうずっと、時計の針の音が聞こえている。

 一秒一秒、年をとっていくんだ、老けて、体力がなくなって、ちゃんと子どもが生めなくなるんだと、いまも、この瞬間も、チクチク聞こえている」


 彼女は震えるくちびるを、前歯でつよく噛んだ。

 まなじりから静かに涙を流して、松岡を見ている。


 そんな風に泣かせたいんじゃない。

 彼女を幸せにしたいと本気で思っている。嘘じゃない。


 けれど、それをどう証明すればいいのだろう。


 じっさいに松岡は無職で、考えてはいなかったけれど、たしかに明日からは彼女に家賃を払ってもらい、食費も出してもらうしかない。

 そんな男の言葉、誰が信用するのだろう。


 松岡の携帯電話が鳴った。

 彼女が怒りを通りこした無表情になったので、あわてて電源を切ろうとしたが、平野家の家政婦からで、思わず出てしまった。


『ああ、松岡さん、ご無沙汰しています、その折はどうも、奥様がお話ししたいと、今代わります――ああ、はいはい、はいはい、松岡さんね、すみませんご挨拶もできなくて、なんか病院の方でちょっと変な気を使ったようですね、ほんとうにもう、失礼しました、主人もずっとね、松岡さんに感謝しておりまして、ええ、そう、そう、もちろんわたしたちも安心して心置きなく働けたのは、松岡さんのおかげですからね、実の家族ですからね、分かるんですよ、あんなんでもね主人がすごく喜んでいたことがね、それでいちど宅に来ていただいて線香の一本でもあげてくれないでしょうか、お話したいこともありますし、ああ、そう、そう、じゃあ代わりますね』


 鼓膜に突き刺さる大声に、松岡が電話をはなして声を聞いていると、家政婦がまた出てきた。背後からは、お母さんしゃべりすぎ、おばあちゃんうるさくて迷惑だったんじゃないの、と快活な声が幾重にも響いてきている。


 家政婦はまた電話に出てくると、平野の家や弔問する日時についてかんたんに打ち合わせた後、少しばかり声をひそめて平野が遺言で、家政婦や松岡にもちょっとした金額の遺産を謝礼として用意していて、平野の家族も気前よくそれを認めている、やはり本当の勝ち組はちがうわね、わたしたちの言ってた通りよね、と得意そうに教えてくれた。

 専属契約だった松岡が、平野の死後に無職となることも予期していたから、病院にも次の仕事の話もしてあるらしいですよ、ともいう。


 あまりの話のうまさに、呆然としながら電話を切って振り返ると、彼女の顔に血の気が戻っていた。涙も止まっている。


「――宝くじでもあたったみたいな?」松岡が道化ると、


「遺産ていくらだろ。いつもお中元とかで1万円の商品券だもんね、もっとだよね」


 さっきまでの話なんて、なかったようにけろりとしている彼女に松岡は苦笑したが、でも、本当に助かったと心底思った。


「いくらかは分からないけど、仕事も紹介してくれるみたいだし、その方がありがたいよ」


「純也の人徳だね、純也、いい男だもん」


「調子いいヤツ」


 呆れて言うと、彼女がけらけらと笑う。


ああ、この声を一生聞いていたいな、と思った。彼女がこんな風に笑いながら母親となって、松岡の傍らに居る姿が、ごく自然に想像ついた。

絶対に彼女と別れちゃいけないと思う。


 結婚しよう、とのど元まで声が出かかったとき、「それ、なに」と彼女が赤い数珠に気がついた。


「平野さんの形見、なのかな」


「へえ、カーネリアンのブレスレットでしょ」


「高いの」


「高くないよ、女子高生がつけるようなヤツ、パワーストーン。ええと、たしか行動力とかエネルギーを与えてくれるの。

 もしかしてお見舞いでお孫さんが作ったのかな」


「かも」


 彼女の腕に赤いブレスレットがきれいにおさまった。


「それ、結婚指輪の代わりって言ったら怒る?」


 彼女は呆れたように口をぽかんと開けたが、安くてもいいから、ちゃんと式は挙げて、そのまえに親に挨拶に行くこと、とぴしゃりと言った。


 そのツンとすました横顔を見ながら、松岡はコタツで背を丸め、しみじみ幸福を噛みしめた。


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