3.
平野の容態が急変し、亡くなった。進行性の病気の末期で、誰もが覚悟していたため手続きは淡々と進み、松岡はもう病室には顔を出さないように告げられた。
いままで知らなかったが、平野はこの大学病院のOB会で顔が利き、その会の票集めやなんやらの関係で、遺族や親族、関係者との対応は、ろくに病室にも来なかった高名な医者や婦長がおこなうらしく、いままで世話してきただけの松岡に出しゃばられると邪魔らしい。
そうはいってもこの1年以上、平野の世話はほとんど松岡がしていた。
仕事だし、適当に手を抜いてもいたし、平野は病気のため無表情で声も聞いたことがないけれど、人と人との仕事だから、それなりに気持ちはあった。
最後の挨拶ぐらいはしたかった。
平野の家族と話もしたかった。
アパートに帰って愚痴ると、「年収200万円の男だもんね、あそか、いまは無職だ」と同棲中の彼女は棘のある声で言って、出勤した。
年収200万円の男、とは松岡が自虐的に、結婚を迫る彼女を断るときにつかう決め台詞だ。
もうすぐ30歳になる彼女が、出産のタイムリミットだと焦る気持ちも、頭では理解している。
でも、現実問題として松岡は年収200万円だ。
彼女は看護師で松岡の倍以上は稼いでいるけれど、彼女が出産して働けないとき、松岡の給料で家族を養っていくなんて不可能だ。
そもそも松岡は、自分の給料じゃ子どもなんて分不相応、無理だ、だったら結婚する必要もないと思っている。
ならば彼女と別れるべきなのかもしれないけれど、彼女のことは嫌いではない。
いっしょで暮らしていることに慣れてしまって、別れたいとも思わない。彼女も別れを望んでいないと、うぬぼれでなく思う。
だったら松岡がもうすこし男らしく責任感を持って、資格でも取り、もっといい収入の仕事にうつるべきなのだろうが、どうもそういう気にはなれず、ついゲームに没頭してしまう。
ふたりで稼いでいる限りは、そこそこに楽しく生活もできる。
だったらなにも変わる必要はない。
出しっぱなしのコタツにもぐりこみ、松岡がそう考えながらうとうとしていると、「あのう」と呼びかけられた。
あわてて飛び起きると、いつのまにか見知らぬ男性が室内にいて、松岡の傍らでしゃちほこばって正座している。昭和の公務員のような太い黒縁メガネをかけた男だ。
はじめて見る顔だが、よく知っているような気もする。
すみません、すみません、と男は正座したままぺこぺこと幾度もあたまを下げた。事態はよくわからないが、悪意があるわけではなさそうだ。
松岡はおきあがると、コタツ布団を持ち上げた。
「あー、よく分かりませんが、とりあえず足をくずしてください。
コタツどうですか、いまの季節でも、意外と悪くないですよ」
男は顔をくしゃくしゃに崩した。
「ああ、すごく松岡さんらしい。そういうところも好きなんですよね」
え、と松岡が驚くと、男は耳まで真っ赤になってうつむいた。
「す、す、す、すみません。
変ですよね、変な話です、自分でもわかっています。
妻も子も孫もいて、なにひとつ不満はない、不満はないどころが十分すぎるのほど恵まれているのに、こんな感情を持ってしまうなんて。
でも毎日、幸せだったんです。
自分なんかたいした人間ではないのに、毎日こんなに幸せでいいのかと思うくらい、松岡さんと一緒にいることができて、幸せでした。
毎日どきどきしていたんです。人生の最後にこんなときめきがあるなんて、夢にも思っていませんでした。
だから、どうしてもひとことお礼がいいたかったんです。
それだけがずっと心残りだったのですが、それも叶い、わたしは幸せ者です」
男は両手で松岡の手をくるんで握った。男の手首には見覚えのある赤い数珠がはまっていた。
「ああ、これですか。なんでも望みがかなうんです。だからわたしもこうして」
男は手首から数珠をはずすと同時に、姿が消えた。