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「おはようございます、平野さん、今日もいい天気ですね」
看護助手の松岡純也は声を張りあげながら、決められた時間に特別個室に入った。パーキンソン病末期の平野は、ベッドの中でまぶたを開いていたが返事はなく、表情筋の動きもない。
患者を起こしてクッションで支え、テレビをつける。朝の連続ドラマがちょうど始まる。患者は無表情のままだが、それでもこの患者が喜んでいるんじゃないかな、と純也は勝手に想像している。
平野がテレビを見ている間、窓を開けて風を通し、室内を清掃する。
ドラマが終わってから、明るい声で話しかけながら、患者の清拭、オムツを交換し、それからやっと食事だ。
平野家の家政婦が手作りの流動食をもってやってきた。
松岡がひと匙ずつ飲ませていると、家政婦は持ってきた家族の写真や、娘や孫の声を録音したiPodを取り出した。写真は平野のベッドサイドテーブルにおいてあったものと交換し、iPodはあとで松岡がスピーカーに接続することとなっている。
松岡は平野専属として雇われている。
夜勤なし、週休1日で月収17万円。
食事や身の回りの世話をしたあとは家政婦と世間話をして、あとはパーキンソン病の平野が突発的に動き出したりしないか、容態が急変しないか、横目でみながらネットやゲームをしているだけ。
給料がものすごくいいわけではないが、楽だし、恵まれた仕事だと思う。
ほんとうは待機しているだけの時間に勉強でもして、看護福祉士の資格でもとるべきなのだろうが、いまのままでも生活していけるので、ついだらだらとしてしまう。
いちどだけ会った平野の妻は、やり手のコンサルタントの肩書きにふさわしく、迫力のある大女だったが、松岡をみて気に入ってくれて、即決で専属契約をむすんだ。
やはり看護助手は男性がいい、力があるし、なにより女性には夫に触ってほしくないと、その時だけは照れた顔でいうのが、微笑ましかった。
娘たちも弁護士や会計士で、それぞれの夫も一流会社のサラリーマンや官僚で、孫たちも名門校に通っている。
特別病室は広くて1LDKのマンションのようなつくりをしており、高層で眺めも日当たりもよい。
家族が平日に見舞いに来たことはないが、毎日あたらしい写真や声がとどくのだし、休日には交代で来ているようだから、本当に忙しいだけで、けっして平野に愛情がないわけでも、金さえ払えばいいとないがしろにしているわけでもない。
松岡のもとにも、高級な食材のおすそ分けや、盆暮れには商品券が家政婦をつうじてこまめに届けられる。
だから平野は社会的立場においても、金銭的にも、家族の愛情にも恵まれた、勝ち組中の勝ち組なのだ。
でも奇妙な違和感が、松岡のなかにくすぶっている。
それは家政婦もおなじようで、世間話をしていると、いつも平野の家族がすごいエリートだけど、と話題が変わり、忙しいだけで一般的にいわれているような冷たい家族でもないし、使用人にも思いやりがあるよねと言ってから、一瞬、奇妙な間をあけてしまうのだ。
家政婦が帰った後、松岡はオンラインゲームにアクセスしながら平野の右手首に見慣れぬ赤い数珠がはまっているのに気がついた。
家政婦がはめていったのだろうか。
それだったら松岡になにか告げそうなものなのに。
妙だな、とは思ったものの、ちょうど仲間がログインしてきたのですぐに忘れて、ゲームに没頭した。