1.
ジャスミンの甘い香りが店の中まで入り込んでくる、爽やかな春の夜だった。
午前零時きっかり、店を閉めようとして水城陵は、正面扉の前のエントランスに人が立っているのに気がついた。
銀座中央通、ビルの狭間でひっそりと営業している宝石店Liebe。
日にひとり、客が来るか来ないかといった、曰くのある特殊な店である。
すこしばかり躊躇い、それでも水城が表に出たのは、その男が老いた上品そうな紳士で、遠慮がちにエントランスに立ち、いつまでも店を眺めているからだ。両手を杖にのせて、そこに体重をかけて崩れそうな身体をささえているようである。
寝間着にガウンを羽織っている。
病院がこの近くにあったかしら、と水城は不安になったが、よくよく見ると男の背後にタクシーが停まっていて、ハザードランプを点滅させていたのでほっとした。
「なにかご用でしょうか」
「こちらで、なんでも望みのかなうという商品を扱われていると伺ったのですが」
水城はきっぱりと、そのような商品は扱っていないと告げた。もう二度と、販売しないと約束したからである。
そうなのですか、噂だったのですね、まあそうなんでしょうね、とさほどがっかりした風もなく、老紳士はおだやかに言った。
「年甲斐もなく、お恥ずかしい。妻も子も孫もいる身の、老いらくの恋なんです。もう長くない身ですけれど、毎日が楽しくて、幸せで。
どうしたらこの気持ちが伝えられるかと、いつもそればかり考えているのです」
そう告白することも幸せそうな表情に、きりきりと水城の心は痛んだ。
正確に言うと、常備している商品ではないが、この店のオーナーがつくるアクセサリーには不思議な力がある。運命を引き寄せ、持ち主の願いを成就させる。ただしその力はひずみを生み、アクセサリーをはずせばその反動がいっきに襲いかかってくる。
だからオーナーの父親は、もう二度とアクセサリーを作らせぬようにと水城に厳しく言っている。
「申し訳ありません」
心を鬼にして、毅然と言いきる水城の眼下で、銀の塊が揺れた。
一見五歳児くらい、銀の髪に鮮やかな緑の瞳の幼児。この店のオーナーの架奏香紀だ。
ちいさな手で、ビーズのブレスレットを差し出している。女子高生がつけているような代物だ。
「これね、あげる」
老紳士はブレスレットをしげしげと眺めた。老人が持つと、数珠にも見える。このような代物、店にあったかしら、どうやってもこの店で取り扱うものではない。
「香紀、これってどこにあったの」
「さっきつくってみたの」
胸を張って香紀がこたえた。
あ、と思って水城が振り返った時には、老人の姿は無かった。からっぽのタクシーだけが赤い光を瞬かせながら停車している。コンビニの袋を持った運転手がやってきて乗り込むと、表示を「空車」に変えて、走りさった。