HERO
私が先輩を見つけたのは、高校に入学して一月が経った五月のある日。
教室に次の日提出の宿題を忘れたことに気付いた私は、学校に取りに戻った。
夜の七時を回っていて、人気のない学校は何だか不気味だった。
宿題を持って帰ろうとすると、トレーニング室から光が漏れていることに気付いた。
もうとっくに部活は終わってるはずだけど・・・誰かいるのかな?
外の窓からそっと中を覗いて見ると、一人の男子生徒が筋トレに励んでいる姿が見えた。
野球部かな?
坊主頭と筋肉のついた二の腕にそう見当をつけた。
何でこんな時間に一人で居残ってるんだろう・・・
半ば呆れながら見ていたら、一生懸命で必死なその姿に、何だか胸が締め付けられた。
その時、目が合ってしまった。ヤバいと思いつつそらせずにいると、野球少年は私の元に向かってきた。
「一年生?こんな時間に何やってんだ?」
「あ・・・忘れ物を、して・・・」
「ああ、取りに来たのか。」
「はい。」
思いの他背が高く、威圧感があるその人に、自然と声も小さくなる。
「じゃぁ、早く帰んなー。危ねぇぞ。」
ふ、と微笑んだ。
その笑顔が、余りにも綺麗で。見とれてしまった。
「どーした?」
顔が熱い。赤いだろうと自分でも分かる。
「あの、こんな時間まで、一人で居残り練習ですか?」
「ん?ああ、上半身だけな、鍛えとこうと思って。」
不思議そうな顔をした私にその人は説明してくれた。
「俺、今腰痛めてるから練習できねぇんだよ。ピッチャーなんだけどさ。だから体が鈍んないように上半身だけのトレーニングをしてたの。」
分かった?と、小さい子にするような仕草で聞いた。
こく、と頷くとまた柔らかく優しく微笑んでくれた。
「ほら、早く帰れー。ここも消されんぞ。」
「あの!名前は?」
思わず聞いてしまった。どうしよう。さっきとは比べものにならないくらい顔が熱い。
「3年2組、岩田達也。気を付けて帰れよ!」
ペコッと頭を下げると、走って校門を出た。
息を整え、歩きながら、イワタタツヤ・・・岩田先輩・・・呟いた私の姿は不気味だっただろう。
次の日、学校に着くとすぐに同じクラスの野球部員、早川の元へ向かった。
「はやかわ、はやかわ!岩田先輩ってどんなひと?」
「はぁ?いきなり何?」
「昨日ちょっとだけ喋ったの!どんなひと!?」
私の勢いに押されて、早川が説明した岩田先輩はこんな人だった。
野球部のエースで、一年生部員の憧れ。
誰よりも一生懸命で、野球に対する情熱は半端じゃない。
マウンドに立つと人が変わる。
負けず嫌い。
厳しいけれど優しい人。
「で、努力家なんだ!岩田さんはさ、天才だとか才能があるとか言われてるけど、影で誰よりも努力してんだよ。天才なんかじゃない。努力の人なんだ!」
目をキラキラさせて、岩田先輩について熱く語ってくれた。
努力家なのは知ってる。野球が大好きなのも。
じゃなければ、たった一人であんな時間まで居残ることなんて出来ないだろう。
「・・・何、加藤。岩田さんに惚れた?」
ニヤニヤしながら聞いてくる早川の頭を思わずカバンで叩いてしまった。
「何すんだよ!!」
「変なこと言うからでしょ!?そんなすぐ好きになる訳ないじゃない!」
「ふぅーん・・・」
疑わしげな目で見てくる早川は放っておいて、席に戻ろうとした。
私の背中に、早川が一言投げ掛けた。
「岩田さん、彼女いるよ。」
「・・・別に、関係ないし。」
そう、関係ない。
好きな訳じゃない。
あんな、数分話しただけの人を好きになったりしない。
ただちょっと、カッコイイなって思っただけ。
ほんとにちょっと。
好きじゃ、ない。
泣きそうなのは、気のせいだよ。
お昼、私は購買の帰りだった。
ふとトレーニング室を覗くと、岩田先輩がいた。
「岩田先輩!」
「うわっ!」
いきなり後ろから声をかけたから、凄く驚かれた。
「あ、昨日の。脅かすなよ。」
「ごめんなさい。お昼もトレーニングですか?」
「ん。すぐ夏の大会が始まるからなー。」
あ・・・同じだ。
朝、岩田先輩について語ってくれた早川みたいな、キラキラした目をしている。
「どうして、そんなに一生懸命なんですか。」
「え?」
「あ、ごめんなさい・・・でも、何で、そんなに頑張れるんですか?」
その時私は、夢中になれるものなんてなくて、好きなこともなくて、何となく入った高校で部活も入らず何となく毎日を過ごしていた。
岩田先輩を見ていたら、そんな自分が無性に情けなくなった。
「甲子園に行きたいからだよ。」
「でも、どんなに頑張ったって無理かもしれないのに・・・」
言葉にしてから、しまったと思った。怒られる!
そう思って身構えたけれど、岩田先輩は優しく笑って言った。
「確かにな。甲子園に行けるのなんて凄く低い確率だよ。うちの高校より強いとこだってたくさんある。
でもな、可能性はゼロじゃない。俺が野球部員である限り、一緒にプレーする仲間がいる限り、甲子園を目指すことが出来る。
行けないかもしれない。だけど行けるかもしれない。
こうやって、頑張ってたら少しでも近付くかもしれないだろ?
そーゆーので良いんだよ。今しか出来ないことなんだ。」
私に話してくれているのに、岩田先輩の瞳は、遠くを見ていた。
甲子園を見ていた。
やっぱり、この人綺麗だな。
高校生の男子に綺麗だなんて形容詞はふさわしくないかもしれないけれど、今私が知ってる言葉の中で、岩田先輩を的確に表現できるのはこれだった。
真っ黒に日焼けした肌も、均等についた筋肉も、夢を語る瞳も、笑顔も、心さえも、綺麗だと思った。
「昼休み終わるぞ?」
「あ、もう行きます。邪魔してごめんなさい!私、一年三組の加藤光です。また来ても良いですか?」
「良いよ。」
そう言って笑った岩田先輩は、やっぱり綺麗だった。
次の日も、その次の日も購買の帰りはトレーニング室に寄った。
ほんの数分間が楽しくて仕方なかった。
私は、早川の言葉をすっかり忘れていた。
トレーニング室に通い始めて五日目。
「岩田せんぱ・・・」
いつもの様にトレーニング室に入ろうとしたら、そこにはいつもと違う光景があった。
「あ、あなたがひかりちゃん?」
岩田先輩の隣に立っている女の人が、微笑みかけてきた。
私は入口にぼーっと立ち尽くしたまま、黙って頷いた。
「私、野球部のマネージャーやってます、水谷百合です。達也からよく話を聞いてたの。会えて嬉しいな。」
名前の通り、花の様に可憐な、素敵な女性。
「達也がね、面白い一年がいるっていつも言うから、会ってみたいと思ってたの。」
「ったく、だからってトレーニング付き合わなくて良いっつったのに…」
「良いじゃない、たまには。」
ああ、分かってしまった。
「あ、あの、私今から用事があって、もう行かなくちゃいけなくて・・・それじゃぁ!」
逃げる様にトレーニング室から飛び出した。
あのひとが、岩田先輩の彼女だ。
言われなくても、分かる。
だって、岩田先輩の笑顔はいつだって優しかったけど、あんなに温かな笑顔は初めて見た。
あんな愛しそうな瞳は初めて見た。
宝物を見つめるような、嬉しそうな顔を、私は初めて見た。
渡り廊下を走り抜けると、誰かに呼び止められた。
「お前、どうしたんだよ!!」
早川だ。悪いけど、今あんたの顔見たくないよ。早川が悪い訳じゃないことくらい分かってるけど。
早川は、焦った様に私に持っていたタオルを被せた。
大きめのそのタオルは、私の視界を遮った。
「何泣いてんだよ!?」
泣いてる?誰が?私が?
その時初めて、自分の頬が濡れていることに気付いた。
私、泣いてるんだ。
私、岩田先輩のこと好きなんだ・・・
そう思ったら一気に涙が溢れてきた。
声にならない嗚咽を上げて、私は泣いた。
昼休みが始まったばかりで良かった。
渡り廊下に誰もいなくて良かった。
涙を拭いて前を見ると、早川が困った様な顔をして立っていた。
「タオル、ありがとう。洗って返すね。」
「あ、ああ・・・」
「岩田先輩の彼女って、マネージャーさんだったんだね。」
「!・・・ああ。」
「凄く仲良しだから、すぐに分かったよ。綺麗で、優しそうな人。」
「凄く、お似合いだと思った・・・」
早川は何も言わない。
じっと私の隣に立っている。
「私なんて、敵いっこないなぁ・・・」
涙がこぼれそうになって、空を見上げた。
悲しいくらい青い空が広がっていた。
「あの二人、いつから付き合ってるの?」
「一年のときからって、聞いた。」
「・・・長いなぁ・・・」
私なんて、好きって気付いたのついさっきだよ。
「私が、二年早く生まれてれば・・・何か違ってたかなぁ・・・」
「・・・」
「違うね。たとえ私が二年早く生まれて、同級生にいても何も変わらない。無気力だし、やる気ないし。
マネージャーなんて絶対やろうとしてないもん。岩田先輩はやっぱりあの人を選ぶんだろうな。」
彼女は、岩田先輩と同じところにいる。
岩田先輩と同じ夢を見ている。
岩田先輩が彼女を好きになったのは、きっと運命だったんだね。
だけど、私が岩田先輩に出会ったのも、運命だと思いたいよ・・・
「羨ましいな・・・」
心の底から思った。
「あのさ!大丈夫だよ!!たった二年じゃん!どうとでもなる!」
必死で励ましてくれる早川の優しさが嬉しかった。
「敵わないことないって!加藤、そんなに悪くないよ。」
真っ直ぐ私を見て言ってくれる。早川の、精一杯の褒め言葉。
女の子に可愛いなんて、絶対言えない奴だから。
嬉しかったよ。
「ありがとう。」
次の日から、また何となく過ごす日々が始まった。
昼にトレーニング室へ行くことはなくなった。
岩田先輩に出会う前に、戻っただけだ。
だけど、私の中から岩田先輩の存在を消すことはできなかった。
階段ですれ違ったとき一瞬だけ目が合って、振り向いて微笑んでくれたことが嬉しかった。
廊下ではしゃぐ楽しそうな姿を見るだけで、幸せだった。
早川から、岩田先輩の怪我が完治して、普通の練習メニューに戻ったことを聞いた。
嬉しかったけれど、もうトレーニング室に来ないのだと思うと少し悲しかった。
私も、行くことは出来なかったのだけれど。
時々、お昼に岩田先輩と百合さんが一緒にいるのを見かけた。
廊下の隅っこで、外を見ながら楽しそうにお喋りをしている。二人の世界。
そんなとき私は屋上に行った。時々早川もやって来て一緒にお昼ご飯を食べた。
学校で一番空に近い場所だから、気持ちが神様に届くかもしれないと思った。
岩田先輩に届かなければ、意味がないのだけれど。分かっていて、何も出来なかった。
あの二人の間に入っていくことなんて出来ない。
だって岩田先輩は百合さんのことが本当に好きなんだ。ずっと見ているから、分かる。
困らせたい訳じゃない。幸せを壊したい訳じゃない。
ほんの少しで良いから、あの真っ直ぐな瞳に私の姿を映して欲しいと思ってた。
「だいすき・・・」
小さな声は青い空に消えていった。
ある日私が帰ろうと校門を出たところで、偶然岩田先輩に出会った。
「よぉ。久しぶりだな。」
私が呆然としていると岩田先輩から声をかけてくれた。
「今帰り?」
「はい。」
普通に、普通に。動揺しちゃダメだ。自分に言い聞かせた。
「じゃ、駅まで一緒に行こうぜ。」
心臓が飛び出すかと思うほど驚いた。一緒に帰る!?私と、先輩が!?
夢じゃないかと思った。
「彼女さんは、良いんですか?」
心臓がキュッとなるのを感じながらそう聞いた。
「今日委員会・・・って彼女って何で知って・・・」
バレバレなのに。自分じゃ気付かないものなんだろうか。
「早川に聞きました。」
「あいつ!!明日は校庭十周だな。」
「他の女と一緒に帰って良いんですか?」
「それくらいで怒るような奴じゃねえよ。」
顔を少し赤く染めて、岩田先輩は言った。
百合さん、ごめんなさい。私今、別れちゃえって思った。
心底、この人の彼女になりたいと思った。
ふと横を見ると、また少し引き締まってたくましくなった様な気がする。
頑張ってるんだ。
「どーした?」
私の視線に気付き、岩田先輩が問掛けた。
「綺麗だなぁと思って。」
「は!?」
驚いてる。いきなり綺麗なんて言われたら当たり前か。
「日焼けして真っ黒な肌も、引き締まった筋肉も、堂々としたオーラも、全部綺麗です。
頑張ってる人って綺麗なんですね。」
「あー・・・」
先輩は照れた様に坊主頭をかきながら、ぶっきらぼうにありがとなと言った。
「カッコイイなぁー・・・夢中になれるものがあって。」
「お前はないの?好きなこととか。」
「分かりません。」
「まぁ、その内見つかるよ。焦んな焦んな。」
な?と言って頭を撫でてくれた。
ダメだよ、先輩。
そんなことしたら本人にその気が無くても、女の子は期待しちゃうよ。
「もぉすぐですね、大会。頑張って下さいね。」
「ああ!」
力強く頷く先輩を、頼もしいと思った。カッコイイと思った。
「やっぱ彼女さんに、甲子園に連れてってやるとか言うんですか?」
「・・・まぁ、マネージャーだし、な。」
「何か良いなぁ、そーゆーの!」
冗談ぽく濁したけれど、本音だった。
「じゃー、お前も連れてってやるよ。」
そう言ってまた頭を撫でた。
え!?と顔を見ると、ニッと笑う先輩がいた。
本気で、死ぬほど嬉しかったんだ。
あたしが言わせた様なものだけど、それでも良い。
"お前も"だけど、それでも泣きそうなほど嬉しかった。
「だから試合の応援来いよー。」
喋ったら泣きそうだったから、しっかり頷いておいた。
家に帰るとすぐに早川に電話した。良かったなぁと言ってくれた。
「早川の応援もするよ!」
「俺は出ねぇよ!一年はほとんどスタンド!」
「なーんだ、そうなの。じゃぁ一緒に応援頑張ろうね。」
話しながら、電話の前で自然と微笑んだ。
「最近、お前良い感じだな。」
「え?」
「一生懸命で、楽しそう。」
お世辞でも嬉しかった。
そうか、わたし楽しそうなんだ。
岩田先輩に恋をして、一生懸命なんだ。
不毛な恋。
それでも一生懸命だった。
それから半月後、夏の県予選が始まった。
岩田先輩の背中には『1』番が輝いていて、マウンドに立つ姿は今までで一番カッコ良かった。
そんな岩田先輩を、一番傍で見守ることのできる百合さんが羨ましくて仕方なかった。
私の学校はノーシードだったけれど注目されていたから、一回戦から結構たくさんの人が試合を見に来ていた。
私ももちろん全試合見に行くつもりでいた。
早川に、スタンドの一番前に来いよと言われたけれど、そんな野球部の応援団の中には入れない。
そう言って後ろの方でこっそり応援した。
岩田先輩が三振を取る度にこっそり拍手していた。
私が来ていることに、岩田先輩は気付いていないかもしれない。
それでも良い。
野球をしている岩田先輩は別人の様で。
きっと対戦相手しか見えていないのだろうと思った。
照りつける太陽の暑い陽射しの中、あんな暑そうなユニフォームを着て、一生懸命プレイする選手のみんなはこの上なくカッコ良かった。
みんな、キラキラしていて綺麗だと思った。
順調に勝ち進んで、ベスト16。
ベスト8を決める試合がやってきた。
これに勝てば十年ぶりのベスト8。
優勝すれば初の甲子園出場。
試合の前日は、ドキドキして眠れなかったよ。
その日まで、私は甲子園に行くのは岩田先輩たちだと信じて疑わなかった。
寝ていない体に容赦なく降り注ぐ陽射しはとても辛かったけれど、試合が始まればそんなこと忘れてしまった。
点が、入らない。
私の学校は先攻で、一回から岩田先輩が登板していた。
相手校は優勝候補と謳われていた高校で、ピッチャーは超高校級だったらしい。
打てないのだ。見事に三者凡退に抑えられる。
けれど岩田先輩も抜群のコントロールで、打たせて取っていた。
バックを、仲間を信じていた。
事件は6回に起きた。
相手校の攻撃中。
打球はピッチャーライナー。
危ない、と思った。
その次の瞬間には、岩田先輩はマウンドにうずくまっていた。
右腕を押さえて。
打球が右腕に当たってしまったのだ。
一瞬だけ見えた、泣きそうな顔を私は忘れることができない。
球場がざわめき、すぐに審判と救護班が岩田先輩に駆け寄った。
先輩はベンチに入り、治療のため試合を中断すると言うアナウンスが流れた。
気付くと私はスタンドの一番前で、バックネットにしがみついていた。
隣に早川がやって来て、肩に手を置いて言ってくれた。
「大丈夫だ。」
と。
大丈夫。岩田先輩なら大丈夫。
こんなところで終わらないよ。
だって甲子園に行くんだもん。
彼女を、連れて行ってあげなきゃいけないでしょう?
私も、連れて行ってくれるって言ったでしょう?
甲子園に行くのは岩田先輩だよ。
二十分ほどして、試合が再開された。
マウンドには、岩田先輩が立っていた。
球場に大歓声が響いた。
思わず泣きそうになってしまったのを、早川に気付かれないように必死で隠した。
岩田先輩は迫力のピッチングで三振を取り、6回も0点に抑えた。
スタンドの野球部員たちは、岩田先輩の腕が心配で仕方ない様子で話していた。
「あんな鋭い打球が当たって、平気な訳ねえんだよ。」
「今は気力で投げれても、無理したら腕ぶっ壊れるかもしんねぇんだぞ!?」
「監督、何で達也に投げさせてんだよ…」
祈らずにはいられなかった。
どうか、どうか勝たせて下さい。
あんなに汗をかいても、痛くないはずのない腕を振り上げて、一生懸命野球をしている岩田先輩から、野球を取り上げないで下さい。
その時だった。さっき以上の歓声が球場を包んだ。
4番の笠井良先輩の、ソロホームラン。
7回で、とうとう先取点。
鳥肌が立った。
その後もランナーは出たけれど、点は入らなかった。
それでも、希望は膨らんだ。
みんなが、岩田先輩の気持ちに応えようとしている。
全員で、勝ちに行ってる。
頑張れ、頑張れ。
7回の裏、マウンドに立ち、必死で投げる岩田先輩の姿を見ていたら、いてもたってもいられなかった。
「いわたせんぱい!がんばって!!」
叫ばずにはいられなかった。
願わずにはいられなかった。
こんなに誰かの笑顔を望んだのは、初めてだった。
一点差。あと3回抑えれば、勝てるんだ。
7回も抑えたけれど、心なしか岩田先輩の顔色が悪い気がする。
辛そうに、見えた。
8回の攻撃は、打線が繋がらずランナーが出るも惜しくも0点。
裏では、マウンドに立った岩田先輩の顔色は戻っていたけれど、腕が振れていない気がした。
一人目は打ち取ったけれど、二人目の打者はフォアボールで出塁。
球威も制球力も落ちている。
三人目は、デッドボールだった。
この大会で、初めて見る岩田先輩のデッドボール。
1アウト一、二塁になってしまった。
キャッチャーがタイムを取り、選手がマウンドに集まる。
何を話しているか分からないけれど、岩田先輩の顔に笑顔はなかった。
けれど、キャッチャーの目を見て首を振り、何か言ったのが分かった。
推測でしかないけれど・・・
降りるかと問われ、大丈夫だと答えたのだろうと、思った。
最後まで俺が投げると、岩田先輩なら絶対そう言う。
試合が再開された。
次の打者は犠牲フライで、一人ずつ進塁。
2アウト二、三塁となった。
あとアウト一つだ。今、一点差でリードしていることに変わりはない。
そう思ったときだった。
甘めに入ったストレートを、打者は見逃さなかった。
打球は、ライト方向に伸びる・・・
信じられなかった。信じたくなかった。
ボールがライトスタンドに落ちる。
相手スタンドで悲鳴にも似た歓声が沸き起こった。
次々とランナーがホームに帰ってくる。
バックボードには、三点が。
逆転ホームラン。
岩田先輩は、汗を拭い次の打者に向き合った。
汗。きっとそう。涙じゃない。泣くのは、まだ早いよ。
打者をファーストゴロに打ち取り、最終回を迎えた。
1番から始まる打線。最高の打線だ。
4番の笠井先輩に繋げば・・・きっと、きっと。
1番はヒットで出塁。2番はバントで1アウト二塁。
3番は犠牲フライを上げたが、相手の捕球エラーで出塁。1アウト一、三塁になった。
応援団の声援。吹奏楽部の演奏。観客の歓声。全部遠く聴こえた。
ただひたすらに、両手を組んで祈った。
どうか届いて。
笠井先輩の打球は、三遊間ヒット!
わぁぁっと歓声が沸き起こった。
けれど・・・
さっきのエラーをフォローするかの様なファインプレー。
ゲッツー・・・
相手ベンチから選手が飛び出し、抱き合っている。
グランドで選手が泣き崩れている。
全てが遠い世界での出来事に感じた。
試合終了を告げるサイレンが鳴り響き、選手が整列して挨拶をし、握手を交わしている。
選手、監督、マネージャーがバックネット前に並び、スタンドに頭を下げて挨拶をする。
岩田先輩がキャッチャーの先輩に肩を支えられ、深く深く頭を下げる。
そのまま、頭を上げない。上げられないんだ。
がっしりとした広い肩が、小刻みに震えているのが分かった。
私の頬に、温かいものが伝う。
もう、涙を隠そうなんて頭になかった。
その場に、泣き崩れてしまった。
せんぱい。せんぱい。涙が止まらなかったよ。
おもちゃの様に溢れ出る涙を、どうやって止めれば良いのか分からなかった。
いつかの昼休みの様に、早川がわたしにそっとタオルを被せ頭を撫でた。
あの時と違うのは、タオルごしに伝わる早川の手が、震えていること。
私より早川の方がずっと悔しいはずなのに。
尊敬する先輩たちに、今すぐ駆けつけて一緒に泣きたいはずなのに。
早川はずっと泣きじゃくる私の隣で、声を殺して歯を食いしばって泣いていた。
しばらくして涙が止まると、グランドには誰もいなかった。
スタンドも、まばらに人が残っているだけだった。
「加藤、俺集まんなきゃいけないからもう行くけど・・・」
「あ、うん。ごめん早川、付き合わせちゃって・・・」
「いや、全然良いよ。お前も来る?先輩に、会ってけば?」
「ううん・・・良いや。帰るね。」
本当は会いたかった。だけど、会ったところで何を言って良いのか分からない。
無理に言葉にしようとして、てきとうで安っぽいありきたりなことしか言えない気がした。
きっと岩田先輩の隣には百合さんがいる。
何も言わず、ただ隣に静かに寄り添って支えている姿が目に浮かぶ。
正直、見たくなかった。
それに、選手の多くは悔し涙を流しているだろう。
ユニフォームを泥だらけにして、目を真っ赤にして、お互いを讃え合い泣いているのだろう。
その涙は、頑張った証。
一生懸命だった証拠。
そこに、あたしはいちゃいけない。そう思った。
あの試合から二週間。
甲子園では、各都道府県を勝ち抜いてきた強豪校たちが頂点を勝ち取るために戦っていた。
私の県からは、激闘を制したあの高校が甲子園出場を決めた。
悔しいけれど、頑張って欲しいと思う。
ある晴れた日。
テレビでは関西の高校と東北地方の高校の試合を中継していた。
私は、学校の屋上で空を眺めていた。
夏休み中だから、部活動の生徒しかいない学校は、いつもとはまた違う雰囲気に包まれている。
ふとグランドに目を向けると、そこでは野球部が練習していた。
三年生は引退し、一、二年生の新チームがそこにいる。
屋上からでは誰が誰かなんて分からないけれど、早川も汗だくになって練習しているのだろうなと思った。
その時、背後でガチャッと屋上の重い扉が開く音がした。
反射的に振り向くと、そこには思いもせぬ人が立っていた。
「よぉ。」
少し伸びた髪の毛に、Tシャツにジーパンという姿だけど、笑顔は何も変わらない。
大好きな、あの笑顔。
岩田先輩の笑顔。
思わず泣きそうになって、顔を戻しまたグランドに視線を落とした。
すると、岩田先輩は私の隣に来て、同じようにグランドを眺めて言った。
「おー、あいつらしっかり頑張ってんなぁ。」
「・・・どうして、ここに?」
「ん?早川に聞いたら多分ここだって言ったからさ。」
「私に、何か用ですか?」
全く可愛げのかけらもない。だって気を緩めたら涙が溢れそうだった。
数秒の間の後に、先輩はゆっくりと言った。
「甲子園、行けなくてごめんな。」
「先輩のせいじゃないっ!」
思わず私は先輩の方をしっかり向いて言った。
「うん。それでも、連れてってやるって言ったのに、約束守ってやれなくてごめんな。」
ああ、どうしてこの人はこんなに優しいんだろう。
どうしてこんなに真っ直ぐなんだろう。
抑え切れなくなった涙が零れた。
「俺さぁ、野球辞めようかと思ったんだ。あの試合で打球が腕に当たったろ?それでも投げ続けたから、肘が炎症起こしててさ。
ずっと野球ばっかやってたから、良い機会なのかもしれないと思った。でも、あの試合で投げきることができたのは、
野球が本当に好きだからだ。本当は感覚なんてなくなってたよ。それでも投げきれた。勝ちたいって気持ちだけで。
まぁ、結局負けたけどな。それでも、あそこで降りてたら後悔が残ったと思う。投げきれて良かった。
お前の声が聞こえたよ。がんばってって、ちゃんと届いた。あんまり必死な声だったから、頑張んないとやべぇなって思った。
負けたけど、最後まで頑張れた。応援来てくれてありがとな。」
「・・・」
私は何も言えずに泣き続けた。
言葉になんてならなかった。
「でさ、思ったんだ。俺、やっぱり野球が好きだ。投げれなくなった訳じゃない。リハビリでも何でもやってやるよ。
もう高校野球には戻れないけど、野球に関わってたいんだ。またこの学校に、指導者として戻って来れたら良いと思ってる。
大学でも、野球続けるよ。また頑張るよ。野球が、大好きだからさ。」
それだけ言って、今までで一番綺麗に微笑んで、岩田先輩は背中を向けた。
「岩田先輩!」
先輩がドアノブに手をかけたとき、私はとっさに呼び止めていた。
先輩が驚いた様に振り返って、どうした、と目で問う。
「私、岩田先輩になりたかった。大好きなものがあって、夢中になれることがあって、夢があって、一生懸命で、キラキラ輝いてて・・・
そんな先輩がずっと羨ましかった!私も、一生懸命何かに頑張って、心の底から泣いたり笑ったりしたいと思った。」
一拍置いて、呼吸を整えて、
「私ね、デザインの勉強をするって決めた!!」
言えた。二週間、ずっと考えていたこと。
「小さい頃、絵を描くことが大好きだった。時間も忘れて夢中で、一日中でも描いていられた。上手だって褒められると嬉しかった。
だけど、そんな気持ち成長するにつれて忘れていった。好きなことも夢も見失って、ただ何となく毎日を過ごしてた。
そんな私に、一生懸命頑張るってカッコイイんだって、綺麗なんだって、そう教えてくれたのはあなたでした!
もう迷わない!諦めない!夢を持つことも頑張ることも、無謀だなんて思わない。
泥だらけのユニフォームで、汗だくになって笑う先輩は、凄く凄くカッコイイと思った。綺麗だと思った。
私も、先輩みたいに輝けるかなぁ!?」
敬語を使うことも忘れ、涙声になりながらも伝えた。
岩田先輩は真っ直ぐ私を見つめ、黙って聞いていてくれた。
そしてさっきよりもゆっくり、一言ずつ言葉を紡いだ。
「光。お前にぴったりの、良い名前だな。出来るよ。お前なら大丈夫。今、俺に夢を語ったお前は凄く輝いてたよ。
自分に負けんなよ。頑張れ!!」
最高の笑顔のエールを、先輩は私にくれた。
それだけでどこまでも頑張れる気がした。
私が初めて本気で好きになった人は、凄く凄く素敵な人だって胸を張って誇れるよ。
報われることはなかったけれど、好きにならなければ良かったなんて思ったことは一度だってないよ。
岩田先輩に出逢えて良かった。岩田先輩を好きになれて良かった。
あなたに恋をして一生懸命だったあの日々は、私の大切な宝物。
こんな私に笑いかけてくれて、名前を呼んでくれて、頑張れって言ってくれて・・・
本当にありがとうございました。
十年後。
八月のある日。夕方のテレビニュースでは高校野球の特集をやっている。
県代表に決まった高校の特集だ。
アナウンサーが選手一人一人に尊敬する人は?とインタビューしている。
監督と答える選手が多い中で、父親やプロ野球選手の名前を出す者もいた。
そして真っ黒に日に焼けたピッチャーの少年は、満面の笑顔でこう答えた。
「コーチです!」
と。
それを聞いたアナウンサーがこう言った。
「そういえば、コーチの岩田達也さんはこの学校の卒業生でしたね。
在学中はエースナンバーを背負い、堂々たるピッチングで、精神面でもチームを支える素晴らしい選手だったと聞いています。」
それでは甲子園でも優勝目指して頑張って下さい。と締めくくり、場面はスタジオへと変わる。
「今の子、そっくりだなぁ・・・」
私はゆっくり微笑んだ。
トントンと部屋がノックされ、急かすような声がドア越しに響く。
「光さーん!!新しいデザイン画上がってますか?」
「はーい!できてるよ!今開けます。」
さぁ、仕事が一段落したら母校の活躍を見に、甲子園でも行こうかな。
半分実話です。
評価、批評、感想などありましたらよろしくお願いします。