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愛のある育て方:2



 元々話上手では無い方で、さらには故郷に戻って転職をした為親しい友人も殆どいなかったクリスティンに、ある日を境に小さな友人が出来た。





 ロッテは最初の頃、1週間に一度訪れてくる程度だった。

 だが、彼女が彼の元へと訪れる間隔は次第に短くなり、二人が知り合って2年近く経った今。

 気付いたら毎日、クリスティンの隣には必ずロッテが居る日常となっていた。



 ――ロッテと会って話をするうちに、彼女の事で幾つか解った事がある。


 最初の印象では彼女が10歳程度と思っていたが、実際はあの時既に12歳だったという事。

 本来ならば学校に通うべき歳にも関わらず、母親の言いつけで学校には通っていないという事。

 彼女の母親は大体昼間は家で寝ていて、そして夜になると「仕事」に出掛けるという事。



 最も、ロッテは自分の母親が何の仕事をしているのかは知らないらしい。

 彼女が父親の顔も知らず、それは彼女を生んだ母親自身も解らないという話を聞いた限り……、母親の職業やロッテの生い立ちについて、クリスティンには大体の察しがついていた。


 そして同時に、これは決してクリスティンから口に出すべき問題では無いという事も解っていた。



 彼女はまだ子供だから、知らなくてもいい現実というものがある。

 子供だからこそ、辛い現実から逃避する環境が必要なのかもしれない。

 だからこそクリスティンは、あえてそれを口に出す気にもなれなかった。




 当然仕事の事もあり、休日以外は幾ら早くとも夕方以降でないとクリスティンは戻れない。

 ロッテはいつも母親が「仕事」に出掛けてから彼の元を訪れていたのだが、それでも家に母親が男を連れ込んで来た日は朝から追い出されるとの事で彼女には合鍵を渡していた。

 休日も不規則で、決まった曜日に休めないという事も考慮した上で渡す結果に至ったのだが。


 彼女と出会って数週間後。

 鍵を渡した時、ロッテが涙を流して礼を言っていたのは……

 あれから2年経った今でも、クリスティンの脳裏に焼きついている。







「クリスさん、おかえりなさい!」


 古い所為かやたら響くドアの音に気付いたのだろう。

 明るい声と足音を立て、ロッテがリビングからクリスティンがいる玄関へと走ってきた。

 こうして自分を出迎えてくれる光景がすっかり馴染んできたが、それでもクリスティンには毎回気恥ずかしさが湧き上がる。

 彼が戸惑っている間に、毎回少女が自分の腰へと手を回して抱きつく事にもなかなか慣れない。


「……ただいま」

 それでも、クリスティンが彼女へ向けて発する短い帰宅の挨拶は……

 今では全く意識する事無く、自然と出るようになっていた。





「今日はヴルストが安かったので、いっぱい買ってきたんです」

 そう言って手を引くロッテと一緒に、クリスティンはリビングへと入る。

 コートとスーツを脱いで壁へと掛けた後、彼は整頓されているテーブル前のソファーへと腰掛けた。



 ロッテが彼の部屋へと訪れるようになってから、彼の生活には幾つかの変化が訪れていた。

 まずは掃除が大の苦手で、我慢の限界が訪れるまで決して片付ける事が無かったクリスティンの部屋が、今ではゴミを探す方が難しい程綺麗になったという事だ。

 それと……、クリスティンが食事の際、宅配サービスを殆ど頼まなくなった事。


 彼女は自分がただ何もせず、クリスティンの好意に甘えるのが嫌だったのだろう。

 ロッテの方から突然「掃除と料理をしたい」と言われた時には驚いたものだが、彼女の気がそれで済むのならば……と思い了承した結果がこれである。

 最初はどうも片付いた部屋が落ち着かなかったものの、毎日自分が汚した分だけ片付ける彼女を見ていると悪い気がしてしまい、今では極力部屋を散らかさない様自然と心掛けていた。


 テーブルの隅に置かれた灰皿へと手を伸ばし、引き寄せて煙草を吸い始める。

 毎朝部屋を出る前は吸殻で一杯の灰皿ですら、クリスティンが戻って来た時には必ず決まってそれらは1本残らず無くなっていた。



 リビングに隣接しているキッチンからは、何かを調理している音や時折食器同士が合わさる音が聞こえてくる。多分、もう少しで夕食が出来上がるのだろう。

 自分では全く使用する事が無いキッチンから聞こえてくる賑やかな音を聞いているうちに、クリスティンの顔に微笑みが浮かぶ。

 もはや日常として当たり前となっている光景に、彼は振り向く事無く煙草を吸いながら……、これもまた普段と同じ様に、ポストに入っていた郵便物をチェックする作業を始めた。







 食事を終えた後は、先にロッテをシャワーへと行かせている間。

 クリスティンは、彼女が昼間に書いていた問題集の採点を始める。

 最初のうちは学校へ行っていない彼女に読み書きを教える程度だったのだが、ロッテは彼が思っている以上に飲み込みが早く、勉強が好きなようだった。


 昼間は自分も仕事に出ており、家では母親が寝ている為、家事以外は何もする事が無い彼女を不憫に思って、読み書き以外にもクリスティンが出来る範囲で勉強を教えようと軽い気持ちで教えたのだが……今では既に同じ歳の子供達が学校で学んでいるものと、同程度の内容にまで学力が達している。

 本屋などで市販されている教材程度しか買ってやる事が出来無い上、教員免許など勿論持っていないクリスティンだったが、それでも彼女は彼の教えた事を理解しているようだ。


 毎回殆ど間違っていない回答を確かめ終わった辺りで、彼女は丁度風呂場から戻ってくる。

 必ずと言っていい程、クリスティンに何処か間違った箇所は無いか?と聞いてくるロッテに対し、彼もまた同じ様に毎日告げる短い賛辞の言葉を口にしてやると、彼女は喜んで微笑みを浮かべた。


 彼女は、自分に褒められるのが嬉しいのだろう。

 口には出さないものの彼もロッテと同様、彼女が微笑む顔を見る度心地良い気分で満たされていた。

 恐らく彼がそのような感情に満たされるのは、ロッテがクリスティンに褒めて貰える様、勉強や家事を一生懸命してくれるのだという想いを重々感じ取っていたからなのだろう。


 だからこそ、彼女が笑顔を見せた時決まってクリスティンは……

 自分が彼女の為に、全力で行える可能性を必死に模索している自分に気付いていた。

 そして自分が、昔と比べ随分と変わったという実感も同時に味わっていた。







※※※







「クリスさんは、まだ寝ないんですか?」


 流石にリビングのソファーへと座ったまま書類は片付けられないと、寝室に置いた机に向かって職場から持ち帰ってきた書類と格闘しているクリスティンに声が掛けられた。

 既にシャワーは浴びていたので、今は腕時計をしていない。

 彼が机に置かれた時計を確認すると、いつの間にか午前2時を回っていた。




 僅かに座っていた椅子を引き振り向くと、先程まで寝息を立てていたロッテがベッドから半身を起こしてクリスティンを見つめている。

「……起きたのか?」

 彼が問うと、彼女は寝癖であちこちが跳ねている髪のまま頷いた。


「……まだお仕事ですか?」

「そうだな、あと少し掛かりそうだ」

「眠たくはないんですか?」

「本当は寝たいのだが……明日には提出しないと駄目だからな」

「……お仕事、大変ですね」

「まぁ前にやってた仕事に比べたら、今の仕事の方が……多少はマシだ」

「……そうですか」


 寂しそうに呟く彼女の言葉に対し、良心が少し痛むが仕方が無い。

 彼女もそれ以上は何も言わず、ただ黙って俯いている。

 無言で行っていた抗議もやがて諦めたのか、再び横になるロッテの姿を確認した後。

 クリスティンは正面へと向き直り再び仕事を再開する事にした。



 幾ら親しくなったとて……他人の子供であり、なおかつ幼いとはいえ異性であるロッテと共に寝るなど本来ならば決してあってはならない事だと、当然クリスティンも理解していた。

 だが普段彼女が床で寝ているという話を彼が聞いたその日から、クリスティンの家で母親が帰ってくる時間までロッテに睡眠を取らせる事にしたのだ。


 共に同じベッドで寝るようになったまでの経緯は、彼女にベッドを貸し自分がソファーで寝るというクリスティンの提案をロッテが頑として聞き入れなかったからである。

 かといって、狭い寝室にはベッドを2つ置くスペースなど無かったし、仮に置けたとしても恐らく彼女はそれをしても決して喜ばないだろう。

 逆に彼女がソファーで寝るという提案をクリスティンが出さなかったのは、結局は彼のエゴだったのかもしれない。だが、彼女一人をソファーで寝かせる位ならば、共に寝た方がまだ自分の中でも納得がいくという、彼なりに導き出した結果だった。


 無論初めは激しい抵抗があったのだが、毎晩ベッドに潜り込んですぐ寝息を立てて熟睡する彼女を見ているうちに、今ではもうその様な考えは彼の中から完全に払拭されていた。





「クリスさん」

 何も言わずに寝たとばかり思っていたロッテが再びクリスティンに声を掛けたのは、先程の会話が終わってまだ10分も経たない頃。

 今度は机に向かったまま振り向かない彼の広い背中を見つめたまま、彼女の言葉は続く。

「……無理しちゃ、駄目です」

 彼女の言葉に反応して、書類のページをめくる度僅かに動いていたクリスティンの腕が止まった。

「無理はしていないから、心配するな」

「でも……」

 振り向く事無く返って来た低い声に、ロッテはさらに言葉を続けようとするものの……

 結局は何も思い浮かばなかったので、彼女はそっと瞼を閉じることにした。





「……やっと寝たか」

 紙が擦れる音と、ペンで書き込む音以外は何も聞こえ無い空間の中。

 それらの音に規則正しい小さな寝息が加わったのを確認すると、クリスティンはようやく小さな呟きと共に深く溜息を吐いた。

 後数行書けば終了するという所で、時計を確認すると先程見た時から既に1時間近くは経っている。



 実のところ、彼が明け方近くまで持ち帰った仕事に追われていたのは今日だけでは無い。

 本来残業や仕事の持ち帰りなどは原則的に無いのだが、クリスティンを快く思わない上司が半ば無理矢理押し付けてきた仕事を片付ける事でここ1週間は精一杯だった。

 一人で片付けるには到底無茶な量と思われた書類の期限が明日までという事もあり、これが済んだらようやくひと段落着くだろう。


 ロッテにはなるべく気遣わせない様振舞っていたつもりだったが、先程の彼女を見る限り結局は心配させてしまっていたのだろう。

 実際睡眠不足続きで眠気も高まっていたので、最後の数行を手早く片付けた後。

 クリスティンは書類を鞄の中へと放り込み、スタンドの電気を消した。



 ベッドの端で蹲るように身体を丸め寝息を立てているロッテを起こさない様細心の注意を払い、クリスティンもベッドへと潜り込む。

 二人で寝るには少し狭いベッドは毛布もシーツも既に彼女の体温でほのかに暖かく、もともと限界だった彼の眠気はさらに刺激された。


 ロッテには悪いが、今度の休日には昼まで存分に眠らなければならない……

 そんな事をぼんやりと考えながら瞳を閉じたクリスティンだったが、枕が僅かに動く感触と同時に訪れた頬にかかる息で再び眼を開く。

 スタンドも部屋の明かりも既に消していたので最初は寝息が近付いた程度の認識しか無かったが、徐々に暗闇に慣れた眼で実際にそれを確認すると、無意識のうちに彼の口から笑みが零れていた。

 彼が顔を横に傾けると互いの鼻先が触れそうなまでに近い位置へとロッテがやってきたのは、寝息を聞く限りただの偶然なのだろう。

 このまま何もせずに寝かした方がいいのだろうが、反面クリスティンは彼女が気になって恐らくは寝れなくなるだろうという事態は容易に想像出来た。


 枕で出来た頭と首の間にある小さな隙間へクリスティンはゆっくり腕を通すと、彼女の小さな頭をそっと自分の腕へと乗せてやる。

 寝ている為身体中の力は抜けている筈なのに、彼女の頭は驚く程に軽かった。

 そのまま自分の腕へ頭を預けた姿勢のまま、変わらず寝息を立て続けるロッテの姿を確認した後。




 ようやくクリスティンも、短い睡眠を取るべく瞳を閉じた。







※※※







 "Tous pour un, un pour tous"

 (山は山を必要としない。 しかし、人は人を必要とする。)



 フランス出身の、今も何処かの戦場で元気にしているであろう数少ない親友の口癖がそれだった。

 元々はスペインのことわざらしいが、毎度酒を煽る度に彼が漏らしていたこの言葉を思い出す。

 独りで生きる道を決めたクリスティンに対し説教と共に繰り返し告げる親友のことわざは、当時の自分にとってはただ鬱陶しいだけのだったのが……



 普段の様に会社から戻って来た彼に対し、ロッテが告げた言葉の意味をようやく理解した頃。

 自分が20代前半の頃には耳から流していた親友の言葉の意味を、今更ながら実感した。













「……クリスさん。今日で、お別れです」


 蒼い眼を潤ませながら、それでも涙が零れるのを必死で堪えながらロッテにそう言われた時。

 単純な言葉にも関わらず、クリスティンには全く意味が理解出来無かった。













 引越してから丁度3年近い月日が過ぎた今、もう登る事が普通に思えていた階段を登りきり……

 廊下の奥に向けたクリスティンの視線が、彼の部屋の前で膝を抱えて座り込むロッテの姿を捕らえた時には既に違和感を感じていた。


「……どうした?」

 彼の口から出た疑問を投げ掛ける声を聞き、ゆっくりと彼女は膝に付けていた顔を上げる。

 朝起こして朝食を食べた時には普段と同じ様に笑顔を浮かべていたロッテだったが、クリスティンの声に反応して上げた顔には今朝の面影は微塵も無かった。

 今ではめっきり無くなった母親からの暴力がまた再開されたのかと一瞬ながら勘繰ってしまったのは、彼女が部屋に入る事無く此処に居る事情が全く解らなかった為だ。

 僅かに戸惑いの色を見せるクリスティンを見上げるものの、ロッテは一言も言葉を発しなかった。


「ロッテ?」

 顔は上げてくれたものの、何も言葉を告げないロッテの様子は明らかにおかしい。

「部屋に入らないのか? 鍵でも無くしたのか?」

 彼女に問い掛けたい疑問はもう一つあったが、まだマシだと思える片方の可能性をクリスティンが口にすると、ロッテは首を数度横に振り無言ながらも彼の言葉を否定した。

「……お母さんに、また何かされたのか?」

 他に原因が思い当たらなかった為、少し躊躇したもののクリスティンがもう一つ浮かんでいた疑問を投げ掛けても、彼女は首を横に振るだけだった。



「じゃあ……どうして此処にいる?」

 自分が思い付く限りの可能性を考え巡らせるが、幾ら考えても先に告げた2つしか思い浮かばない。

 こうなれば、直接彼女から理由を聞き出す他無かった。

 まだ秋先とはいえ気温が下がってきていた時刻だったので、取り合えずは彼女を部屋へと入れそこからゆっくり事情を聞けばいいと思った矢先。

 突然ロッテは立ち上がると、クリスティンの顔を見上げたまま片手を彼へと差し出した。



「……クリスさん、これ」

「ロッテ……?」

 目の前に居る少女の表情ばかりに気を取られていた為、彼女が何を訴えているのか解らなかった。

 だが、彼女が差し出した片方の掌に乗っている鍵の存在を捕らえ、彼女が一体自分に何を告げたいのか、さらにその意図が解らずクリスティンは戸惑う事しか出来ない。

「鍵がどうした?」

 怪訝な表情を浮かべるクリスティンを前に、ロッテは暫く何も言葉を発しなかった。

 暫くして、意を決した様に彼女が告げたシンプルな言葉は……



「……クリスさん。今日で、お別れです」



 嘘でも冗談でも無く。

 言葉を聞いた瞬間のクリスティンには、全く意味を理解する事が出来無かった。







「……お別れ?」

 やっとの思いでクリスティンの口から出た声は、ロッテの言葉を反復するだけのものだった。

「はい、今日で……さよならなんです」

 頷く事も首を振る事も無く、彼を静かに見上げた姿勢のまま肯定の文句だけをロッテが告げる。

「ママが、今日の夕方にはこの街を出て……何処か別の街へ行くって……

だから……お別れなんです。

だから……鍵を返して、お別れの挨拶をしなきゃと思って……」

「……そうか」


 必死に涙を堪えるロッテの前で、ただそう短く答える事しか出来無い自分が情けなかった。

 それでも、何でもいいから兎に角声を出さなければ彼女を悲しませるだけだと思い、必死に頭から無難な言葉を振り絞る他無かった。


「……寂しくなるな」

 彼女が鍵を差し出したままだったので、クリスティンはゆっくり掌の上に乗っているそれを取りながら、なるべく独り言の様に呟いた。

 鍵を受け取る際、手が震えない様必死に自分の腕へと言い聞かせていた為何とか平然は保たれたのだが、どうしても続けるに相応しい言葉が何一つ出てこない。



「クリスさん……」

 今まで堪えていた涙がついに抑え切れなくなったのか、ロッテが上擦った声で自分の名を呼ぶのが聞こえる。返事を返そうとクリスティンは口を開くも、ポロポロと大粒の涙を流しながら彼の胸へと飛び込むロッテに遮られ……彼の喉から彼女の名を呼ぶ声は出なかった。




 『元気でな』

 『俺が居なくても、お前はちゃんと立派にやっていけるさ』

 『今まで、有難う』

 『風邪をひくんじゃないぞ』

 等々……


 取り合えずはロッテに何か伝えなければと……クリスティンの頭の中で様々な言葉が水底から生まれる気泡の様に現れ、そして次々と思考の海へと消えてゆく。

 きっとそれは、決して本心から告げたいと思う言葉では無かったからだろう。

 浮かび上がる数々の言葉全てを口にする事すら出来無かったが、喉の奥から押し上げるように上がってくるたった一つの本心が口を付いて出そうな衝動を抑える為。


 クリスティンは自分を諌めるかの如く、溜息と共に大きく首を振った。




「……クリスさん」

 自分の胸で泣きじゃくる小さな少女の髪を撫でる事しか出来なかったクリスティンの耳に、か細い震えたロッテの声が届く。

「本当は私、行きたく無いです。クリスさんとお別れなんて嫌なんです。

それでも、それでも私は……ママを…………」

「……解っている」

 彼女が告げたい言葉は、恐らく自分が必死に押し殺している言葉と同じなのだろう。

 だが互いにそれを口にする事は決して叶わないのだと、恐らく自分も彼女も解っている。

「……もしまた、何か辛い事があったら戻って来るといい」

「いいんですか?」

「ああ、勿論だ。遠慮しなくてもいい」

「……有難う、ございます」

「それと、これを……」

 彼女を抱き締め髪を撫でていた両腕をロッテから離し、クリスティンは素早く首に掛かっていたチェーンを外すとそれをロッテの着ている服のポケットへと入れた。

 それは彼が普段から片身放さず身に着けていたものであると気付いたロッテは、顔を上げクリスティンの眼を見つめるるが、その小さな顔と視線は再び彼の胸元へと大きな手で押し付けられる。

「お前は俺の大切な娘だから、また会う時まで預かっていてくれ……」



 上から降ってきた静かな言葉に対し、ロッテは父親の様に大好きなクリスティンの名を呼びながら彼の胸で泣く事しか出来無い。

 クリスティンもそれ以上は何も言わず、娘の様に可愛がっていたロッテの髪を撫でる。


 互いが互いを想っているという事は、この3年近い日々を過ごしてきて充分に解っていた。

 だからこそ、決して告げてはならない言葉もあるのだ、ということも解っていた。




 本当ならば本心か告げたい想いを、互いに心の奥へ押し込めたまま。

 彼等は時間が許される限り、最後の別れを惜しむ事しか出来無かった。









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