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愛のある育て方:1



 片手には新たに買い足した生活雑貨、もう片方の手には飲み物や酒の肴等。

 スーパーでも一番大きなサイズのビニール袋一杯に入ったそれらを両手にぶら下げ、クリスティンは先週引越したばかりのアパルトメントに帰るべく足を進めていた。


 いくら週に一度の休みだからといって、少々買い込み過ぎたかもしれない。

 生鮮食品コーナーにも足を向けたのだが、新鮮な食材を前にしたところで結局自分は休日でも料理をする人間では無いという再認識を行っただけだ。

 クリスティンが苦笑を浮かべ、その場を通り過ぎたのは当然といえば当然の結果であった。




 この地域の冬は厳しく、面倒臭がらず手袋を持って来た方がよかった、と今更後悔しても遅い。

 唐突に吹いた突風の所為で、整えていないクリスティンの茶色がかった短い赤毛が乱れた。元々細い鳶色の眼も風を受け、ほんの少し涙が滲む。

 既に寒さと袋の重みで感覚の失った指から痛みが走る。クリスティンは、さらに家路を急ぐことにした。


 古びた赤い看板が掛かっていたバーの脇にある狭い路地に入り、暫く細い路地を進む。足を進める度、表通りに漂っていたものとは明らかに異なる暗い陰湿な空気が色濃くまとわりつくように感じた。

 所々に落ちているガラクタやゴミに注意しつつ進むと、表通りの賑やかさから徐々に遠ざかってゆく。

 見上げると、建物が密集している為に随分空が狭いのだと錯覚してしまう。

 電線が幾重にも重なった先に見える冬の鈍い空は、引っ越して最初の三日程だけは新鮮に感じたものだ。

 非常階段の所々に干された洗濯物が冬の風にはためき、生活臭を漂わせている。大通りから離れたこの場で耳を澄ますと、あちこちの建物の窓からテレビの音や子供を叱り付けている母親の声、他にも様々な生活音が漏れ聞こえる。


 この場所はいつ通っても、生活感に満ち溢れている場所だった。


 密集した建物の中で展開されている喧騒に飲まれ、半ばぼんやりしているうちに入る建物の前を幾分通り過ぎていた事に気付く。すぐさま向き直ると、元来た道を戻った。周りに建っているアパルメントと同様、年代を感じさせる建物の前でピタリと歩みを止める。

 そしてクリスティンは──牢獄を連想させるアパルトメント入り口の鉄格子を、塞がった両手の代わりに行儀悪く片脚で押し開いた。




 足を踏み入れたエントランスは、昼間でも薄暗かった。先程まで歩いていた外と一転した暗さに、思わず時間を確認してしまう。腕時計の針は、午後三時を少し過ぎた場所を指していた。

 エントランスといっても、部屋ごとに割り当てられた簡素な郵便ポストと一階の部屋へと続く廊下のみである。他にあるものといえば、上へと続く階段だけだ。目新しいものなど当然ながら何ひとつ無い。

 立ち止まって見渡す程珍しいものではなかったし、何よりもクリスティンが此処に住み始めて一週間近くになる。

 『504』と書かれたポストの郵便物をチェックした後は、真っ直ぐ古ぼけた螺旋階段へと向かった。


 クリスティンの足が一歩上がる度、静かなアパルトメント内にビニール袋が擦れる音と靴音だけが響き渡る。

 クリスティンは、人と人とがやっと擦れ違える程にまで狭い階段が苦手だった。

 体力はそれなりにあったものの、それでも最上階の五階まで毎回登る行為に到底慣れはしない。横幅が極端に狭いということもあり、なるべく住民と会わない様に……と変に気遣ってしまう。

 やはり「家賃が安いから」という理由だけで部屋を借りるものでは無い。と、まだ引っ越して日が浅いにも関わらず出る愚痴は尽きない。

 だが独り言を呟く事無く、もはや何度出たか分からない溜息だけを吐く。それは白い息となって、僅かに弛んだクリスティンの口から漏れた。


 三階を過ぎ、四階の階段へと差し掛かった時である。

 ふと視界の端に何かを捕らえたクリスティンは、階段を登る足を止めた。そちらを見上げると、五階付近から揺れる何かが見える。

 階段から僅かに身を乗り出し、様子を伺ってみると中央の吹き抜けに投げ出している脚があった。


 再び階段を登りながらも、興味の沸いたクリスティンはその脚を観察する。

 左右交互に揺らす脚は、小さく白い。この寒い季節だというのに靴下は履いていなかった。水色の小さなスニーカーと真っ白い両脚は見えるが、顔や身体は此処からでは伺えない。

 見る限り、廊下に座り柵から脚を出しているだけだろう。どうやら、こちら側に脚の人物が間違って降ってくる危険は無いようだ。

 視線を元に戻すかどうかクリスティンが悩んでいるうちに、こちらを見下ろす人物と目が合った。


 冷たい床に座り、両脚を階段から投げ出していたのは……、まだ幼い少女だった。

 歳の頃は十前後だろうか?

 人形の様に整った顔立ちと蒼い瞳は綺麗なものの、対照的に肩上まで伸びたブロンドの髪はくすんでいる。

 目が合ったのはほんの一瞬で、彼女は一度だけクリスティンの顔を見た後は再び俯くと視線を下へと戻した。

 その姿は冬にも関わらず、短い紺色のスカートに大きめのシャツを着ているだけだ。

 やはり陽も当たらぬ廊下に座っていて寒いのか、幾分肩を小刻みに震わせていた。



 階段を登るにつれ少女との距離は近付く。だが、彼女は宙に浮いた脚を交互に動かすだけで、クリスティンが後ろを通った時にも振り向く素振りは見られなかった。

 既に何も反応を見せない少女の後ろを静かに通り過ぎ、クリスティンは廊下の奥にある自分の部屋へと足を向ける。

 部屋の前に立ったクリスティンは一度、床にビニール袋を置いた。酒が入っているものの割れ物の類は何一つ入っていなかったのでそちらには目を向けない。袋が床に降りる小さな音を確認した後は、ズボンのポケットから鍵を取り出した。

 ドアの鍵を開けつつ、最後に一度だけ少女へと視線を向ける。



 少女はクリスティンの視線に気付く事も無く、脚をブラブラとさせながら──、

 ただ、静かに座っているだけだった。







※※※







 スイッチを入れたまま、観ることも無く放置していたテレビの音が、狭いリビング内に響く。



 ダンボールから出し終えず放置していた服を寝室のクローゼットに収納したり、買ってきたものをそれぞれの場所へと収めてゆく作業で時間を割いてしまったのは仕方無い。

 引越しを始めて最初に迎えた休日がこうして部屋の整理で終わってしまう事位は、クリスティンが予想していた範囲内であった。

 ようやくそれらの作業を終えたは後リビングへと戻り、チラリとテレビへ目を向ける。

 既に真冬の短い陽は殆ど傾いていたので、部屋は薄暗い。テレビの光だけが、リビングを照らしていた。陽光が失われた部屋に明かりを灯し、クリスティンは中央に置かれたソファーへと幾分疲れた様子で腰を降ろす。

 何気無く窓へと視線を移したが、暗くなった今では向かいある筈のアパルトメントは見えない。電球の明るさに照らされ、今ではもうすっかり見慣れたリビングの景色だけが鏡のように映し出されていた。


 独り身で人一倍不精な癖があるクリスティンの住居は、引っ越してまだ一週間も経っていない。にも関わらず、狭いリビングでは既にゴミや空き缶が所々に散乱していた。

 まだ物が少ないので、クリスティンの中ではこれでも片付いている部類なのだが……、家にいる大半の時間を過ごすであろう場所は、着々と凄惨な状況へと変化しつつあった。

 煙草で焦がした跡が二、三箇所目立つソファーの前に置かれた低いテーブル。その上に規則正しく置かれているものは、殆どがビールの空き缶である。さらには、今日買ってきたうち冷蔵庫に入れなかった二本のビールが先程新たにテーブルの上へと追加されている。

 宅配で頼んでいる食事の空箱だけは、潰して纏めるのが面倒なので綺麗に積み重ねられている。それらは、テーブルの隣で同等の高さにまで連なる立派なタワーを形成していた。

 狭いキッチンカウンターも同様の有様であった。安物のコーヒーメーカー以外は一切飲食物と共通点が見当たらない、雑誌と新聞が交互に重なっている。

 整頓好きの友人やら恋人がいたならば、部屋に入った瞬間には顔が歪むであろう。だが、幸か不幸か、クリスティンには几帳面な知り合いなどいない。

 今まで他人に生活を指摘された事など一度も無いクリスティンにとっては、多少部屋の汚れなど全く気にならないものだった。


 だらしなくソファーに寝そべったまま、テレビを何となく眺めビールを飲む。

 口が寂しくなり、気付いたら煙草を吸っている……。という単純な行動を、クリスティンは暫くの間繰り返していた。だがそれら一連の行動も、突然脳裏を過ぎった重大な出来事により終わりを迎える。

 昼間行った買い物の際、自分にとって酒と同じ位大切なものを買い忘れてしまっていたのだ。それを思い出したクリスティンは、無意識のうちに大きな身体を起こしていた。

「ああ、畜生。よりにもよって、煙草を買い忘れるとは……」

 吸殻で覆い尽くされた灰皿に立て掛けていた煙草の箱を取り、一連の望みを託して中身を確認する。

 ほんの先程までは何気無く吸っていて中身をなど全く気にしていなかったが、残りが3本しか無い事実を目の当たりにして、クリスティンは丸めた肩をさらに落とした。

 生憎買い置きなどをする習慣も無く、スーパーへ行くついでに煙草屋にも寄ろうと家を出る時には考えていたのだ。

 大切なモノの存在をすっかり忘れていた自分を恨むものの、結果無いものは無いのだ。幾ら部屋の中で愚痴を言ったところで仕方が無い。


 クリスティンは家に戻った後でも手首に巻いたままだった腕時計へ視線を走らせる。幸いにも、大通りにある煙草屋が閉まるまで後少し時間が残されていた。

 この時間だと今から急いで家を出れば、煙草屋が閉まるまでには間に合いそうだ。

 今度は溜息とは反対に、安堵の息を吐く。

 一度外出して戻って来た所為もあり、また寒い冬空の中を歩くのは億劫だ。だが、このままじっとしていても埒があかないのも無論分かっている。

 渋々クリスティンは立ち上がり、ソファーの背に掛けていた黒いロングコートを手に取った。


「流石に、酒と煙草が無いと死ぬ……」

 部屋に自分以外の人間が居ない事位分かっているのだが、どうも独り暮らしが長いと知らず知らずのうちに声を出して呟く癖がついてしまっている。

 何年も着ている厚手のコートに腕を通しながら──、クリスティンは油断するとつい独り言を漏らしてしまう自分に対して、ゆっくりとかぶりを振った。







 軋むドアをゆっくりと閉め、鍵を掛ける前に何気無くクリスティンが廊下を見たのは……、こちらを伺う気配を感じていたからかもしれない。

 薄暗い廊下の階段付近で座っている少女の姿が目に入り、彼は鳶色の目を僅かに見開いた。


 蛍光灯の灯りの下、今は膝を抱えて小刻みに震えている少女の姿を目にして驚きを隠せない。

 確か自分が部屋へと戻ってきたのは、まだ陽が高い時間だった。

 あれから少なくとも3時間以上は経っているというのに、震える姿を見る限り彼女はずっとその場にいたという事なのだろう。

 先程出会った時には「外出した親が帰ってくるのでも待っていたのだろう」程度にしか思っていなかったのだが、今のこの光景にはやはり違和感を覚える。


 取り合えず、自分がただ部屋の前で呆然と立っているだけでも埒が開かないと、クリスティンはなるべく平静を装って廊下を歩き彼女の元へと近付く事にした。

 どの道買い物に行くのならば、階段を降りなければいけない。


 足音を鳴らし階段の前へと到着したが、やはり彼女は全く動じる事無くただ俯いて下を見ている。

 震える少女に何か声を掛けようかとも思ったが、もしかしたら彼女の親は自分が買い物から戻って来る頃には既に家へと帰ってきているかもしれない、という考えが過ぎった。




 だからこそ……

 クリスティンは自分が戻って来た時には彼女の姿が消えている事を願い、今は無言で声を掛ける事無く、階段を降りるという選択を取る事にした。











「……こんばんは」

 薄暗い廊下に響く低い声は、クリスティンの声。

 彼の挨拶は、自分の足元に座って震えている少女へと向けられたものだった。




 クリスティンが戻って来た時、やはり彼女はそこに座ったままだった。

 既に陽は完全に沈み気温がさらに下がっているにも関わらず、やはり先程と全く同じ薄着のまま。

 たった一つだけ、昼間会った時と違うのは……

 彼女が白い顔をさらに蒼白にし、唇の色も悪く、寒さに大きく震えている事だった。



「……こんばん……は」

 声を掛けてみたものの、無視をされたらどうしたものか?などと不安はあったが、少女は小さく震える声でクリスティンの挨拶に反応してくれた。

 少し驚いた様子で背の高い彼を見上げる彼女の顔色は、蛍光灯の下でもやはり熱を奪われ青白くなっている様子が伺える。


「君は、昼間からどうして此処にいるんだ?」

 なるべく穏やかに話そうと心掛けるも、10年近く子供と全くもって接点の無い職業に付いていたクリスティンにとって、子供が落ち着く様な話し方をしろという方が無理な話だ。

 それでも彼女は、耳を澄まさなければ聞き逃しそうな程小さな声で彼の問いに答える。



「……おうちに、ママとなかよしのおとこのひとがきているときは……はいっちゃだめなんです」

「君のお母さんと……仲良しの男?」

 震えながらもゆっくりな放たれた彼女の言葉を聞き、クリスティンの表情が険しくなる。

 つたない言葉ながら、一体それが何を意味しているのか大よそ理解してしまった為だ。

 彼の表情と滲み出る雰囲気に驚いたのか、少女は何も言わず黙って1度だけ頷いた。


「君は、もしかしてお母さんのお友達が来る度に……こうして外に出ているのか?」

 もう一度頷く少女を前に、彼はなるべく平静を保とうとポケットに入れていた両の拳を強く握り締める。まだ可能性として捨てきれないものはあったので、さらに質問を続けた。

「……君が住んでいる部屋は何号室だ?」

「501、です」

 彼女を怖がらせない様なるべく感情を抑え、クリスティンは自分に出来る唯一の提案をなるべく穏やかな口調を努めながらも述べる事にする。

「……じゃあ俺が、今からお母さんに君を部屋へ入れて貰えるよう頼んでくる」

 少女が腕を伸ばし、指差す部屋を確認した後。

 そちらへ向かって歩こうと踵を返すクリスティンだったが、突然上がった悲痛な声とコートの裾を強く引っ張られる感触に足が止まった。


「だめっ!!」

 振り返ると、咄嗟に立ち上がった少女が今にも泣き出しそうな顔でクリスティンを見上げている。

「何故? 君だって本当は暖かい部屋の中に入りたいのだろう?」

「はいりたいです、でも……いたいのは、いやです」

「君は……」

 何故彼女は自分を止めるのか理由を聞こうと、胸元よりも低い位置から見上げていた少女に視線を合わせようと膝を折り、クリスティンは身を屈める。

 そこで、彼女の顔を初めて正面から見た彼の目が細められた。


 彼女がずっと俯いていたという事もあり、さらには廊下も薄暗く最初は分からなかったが、彼女の片頬が赤く腫れあがっている事にようやく気付く。

 注意深く目に映る範囲で他にも怪我はしていないか確認する。頬以外は特に目立った外傷は見当たらなかったものの、彼女が着ている薄汚れたカーディガンには洗濯程度では落ちなかったと思われる赤黒い染みが蛍光灯に照らし出されて目に入った。


「……いたいのは、いやです」

 もう一度硝子の様な蒼い眼に、溢れんばかりの涙を溜めて懇願する少女の顔から、クリスティンは目を逸らせなかった。



 彼女の態度に戸惑いながらも、クリスティンの浮かべる険しい表情は崩れる事は無い。

 例えそれはどのように解釈しようとも、根本的な要因はただ一つのみである。

 余り考えたくは無かったものの、彼の中でたった一つの答えしか導き出せなかった。





「……君の名前は?」

「ロッテ、です」

「じゃあロッテ。俺に一つ提案があるから聞いて欲しい」

「ていあん?」

「ああ、少し言葉が難しいか?」

「やっぱり、ママにいっちゃうのですか?」

「いいや。君のお母さんが居る部屋には行かない、だから安心してくれ。

ただしその代わり……お母さんのお友達が帰るまで、俺の部屋で待つというのはどうだ?」

「おじさんの、おへやですか?」

「そうだ、少し汚いが……まぁ暖房は効いているから、ここよりかは暖かいぞ」

 面と向かって「おじさん」と呼ばれるなど、初めての出来事に思わずクリスティンの顔に苦笑が浮かぶ。だが彼女が今年33となった初対面の自分に対し、そう呼ぶしか無いのだと考えれば当然だろう。


「でも……」

「……子供が大人に気を使うもんじゃない。

俺も独り暮らしが長い上、こちらに越してきてからは話し相手が居なかったのでね。

実を言うと……少し退屈していたのだよ」

「おじさんは、ひとりでさみしいのですか?」

「……かもしれないな。

だから君さえよければ、どうかと思ってね?」

 クリスティンが着ているコートの裾を掴んだまま離さないロッテは、暫くの間困った様に顔を右へ左へ揺らして思案していたようだった。

 どうやら、自分が精一杯付いた「一人は寂しい」という嘘には気付かれていないらしい。

 彼女が安心してくれるのならば、と思い告げたものだったがそれでも嘘が苦手なクリスティンにとっては、自分で告げておいて余り心地良い気分にはなれなかった。

「まぁ、嫌なら無理にとは言わないが……折角同じ場所に住んで、こうして話をしてくれた子が風邪を引いてしまうのは、余り良い気分はしないかもな」

「おじさんは、いたくしないですか?」

「大丈夫だ、何もしない……。それは絶対に約束するよ」

 「独りは寂しい、退屈だ」と告げた言葉以外は全て本心なので、彼女の蒼い眼から視線を逸らさずに言い聞かせる事にする。

「ロッテ……部屋に来るか?」

 目線を背の小さい自分に合わせたままの姿勢でクリスティンが最後に告げた言葉を聞き、ようやく彼女も安心したようだ。



「……よろしくおねがいします」

 丁寧に頭を下げて自分へと礼を述べるロッテに対し、クリスティンは微笑みを返す。

 やはり下手な言葉は何も言わない方がいいと、ただ黙って彼は彼女の頭を撫でて返事を返した。







※※※







 しかし……

 まさかこの歳になって、見知らぬ少女の面倒を見る羽目になるとは思わなかった。



 丁度ロッテを部屋に招き入れた直後に蛇口を捻っておいたので、バスタブが湯で一杯になるまでさほど時間は掛からなかった。

 戸惑う彼女をクローゼットに放り込んだばかりのシャツと一緒に浴室へと押し込み、再びリビングへと戻って来たクリスティンが最初に思った内心は、まさしくその一言のみであった。


 自分で言い出しておいて何だが、それでも自分以外の人間が部屋に居る事は不思議に思える。

 痛々しい傷と、今にも泣き出しそうな顔を目の前で見せられ、思えば咄嗟に飛び出した一言だった。

 幼い彼女の話から推測した出来事が事実ならば、これが見捨てておけるだろうか?

 それこそ多少の引け目はあれど、後悔する事は何も無かった。




 「ゆっくり温まるまで浸かっておけ」と言っておいたので、彼女は暫く上がってこないだろう。


「さて……」

 自分以外は誰も居ないリビングで、クリスティンは溜息と共に独り言を吐く。



「面倒臭いが……これは流石に片付けないとマズいな……」

 休日であった為、ろくに整えていなかった短い赤毛を掻き……

 彼は好き放題散らかったままのテーブルを見据え、もう一度深く溜息を吐いた。













 風呂から上がり、ソファーに腰掛けたままロッテは隣に座っているクリスティンを見上げていた。

 浴室に連れて行かれた時に渡されて着たものの、ロッテにとってはかなり大きめのシャツは気付いた時にはすぐ袖で手が隠れてしまう。

 余り過ぎた袖から出た手にはマグカップが握られており、中には湯気を立てたホットミルクが入っている。先程風呂から上がってきた際に、すぐに手渡されたものだった。

 何度か息を吹き掛けながら、少しずつそれを飲んでいたのだが……


「あの……」

 大人しくミルクを飲む彼女の傍らで腰を降ろしたまま、テーブルの上へ載せていた紙箱を次々と開けてゆく彼を見て、ロッテが思わず漏らした言葉がそれだった。





「どうした?」

「えっと……その……」

 口篭る理由が分からず、クリスティンが彼女の方へと目を向けた。

「それ、たべものですよね?」

 ロッテがそっと指差した先には、テーブルの上に並べられた数個の紙箱。

 彼女が風呂から上がって暫くした後、チャイムが鳴り立ち上がって玄関へと行ったクリスティンがこれらを全て持ってきたのだ。

 その白い紙箱の横に記されている文字は、何と書かれているのか彼女には読めなかったが、漂ってくる香ばしい匂いと彼が箱を開けた際に見えたものは、既に調理されていた幾つかの食べ物である。

 彼女が風呂に入っている間に、いつもの様にクリスティンは宅配サービスを頼んでいたのだが……彼女の好みが全く分からなかったのでこれもいつもと同様、主に大半が肉類に傾いたメニューだった。



「まぁ……食い物だな」

 ロッテが発した言葉の意味が理解出来ないものの、彼は苦笑を浮かべる。

「腹が減っているだろう? 食べるといい」

 そう言って隣に行儀良く座っているロッテに眼を向ける。

 だがクリスティンの言葉を聞いてもなお少女がずっと怪訝そうに首を傾げている様子を見る限り、彼女が手を伸ばす気配は無い。

 もしかしたら彼女はこの手の料理は駄目だったのかもしれない、と今更ながら反省が湧き上がるものの一応遠慮しているのかと思い、今度は彼女の手に握られているマグカップへと腕を伸ばす。

「ほら、カップ」


「……食わないのか?」

 ロッテからマグカップを受け取ったものの、ずっと首を傾げているロッテを前に今度はクリスティンが困惑する番である。

 やはり彼女は、肉類が嫌いだったのか?

 そう思いかけた矢先、ロッテが震える声で彼に問い掛けた。

「これ、たべてもいいんですか?」

「当たり前だろ? 今日は多めに頼んでおいたから、思い切り食えばいい」

「えっと……」

 自分が食べてもいいのか?という疑問には答えた筈だが、それでも彼女は俯いたり顔を上げたりまだ何かを言いたそうな様子が伺える。

 何も言わず黙って彼女の言葉を待っていると、ようやくロッテが俯きながらも言葉を続けた。



「きょうは、なにかの……おいわいですか?」

「お祝い?」

 彼女が言った言葉をそのままクリスティンが意味も解らず反復すると、彼女は入浴で血色の戻った頬を赤らめ小さく頷く。

「たべものがいっぱいあって……おいわいかとおもいました」

「ああ……そういう事か」

 ようやく彼女が自分に何を伝えたかったのか、クリスティンは納得する。

 別に彼女は、料理が駄目なわけでは無かったのだ。

 恐らく、自分が普段食べているものと比べると違うものに戸惑っていただけに過ぎない。


「普段は余り食わないのか?」

「……はい」

「そうか……」

 俯いたまま一度だけ頷く彼女を見て、今度は何も返す言葉が思い付かなかった。




 彼女の手を引いて部屋の中に入った時、子供のものにしてもやけに痩せているとは思っていたのだが、薄々感じていた自分の予感はやはり的中しているのかもしれない。

 クリスティンは微笑みながらロッテの金色の髪を撫で、なるべく彼女に言い聞かせる様に言った。


「……いいから気にせず、食えばいい」

「いいんですか?」

「勿論だ」

「……ありがとうございます」


 部屋に入ると言った時と同じく、深く頭を下げると彼女は満面の笑みを浮かべてテーブルの上にある料理へと手を伸ばし始めた。

 クリスティン自身も朝から何も食べていなかった為、空腹の筈だったのだが……

 一生懸命料理を美味しそうに頬張るロッテを前に、気付いた時には時々食事の手を止め歳相応に浮かべる彼女の幸せそうな笑顔を眺めていた。







「なぁ……ロッテ」

 流石に頼んだ量が多く、それぞれの箱に少しずつ残った料理を一つの箱に纏め終えた後、それまで黙って黙ったまま何も言わなかったクリスティンが口を開いた。

「なんですか?」

「……君は、お母さんに酷い事をされているんだろう?」


 幼い相手を気遣う言葉すら無く……、

 ただ冷静に判断した予想だけをロッテに告げると、クリスティンはソファーから立ち上がった。

 前のテーブルを少し移動させ、彼女の前へと座るスペースを確保する。

 そのまま静かに彼女の前へ腰を下ろし、何も答えずただ蒼い眼を悲しそうに伏せるロッテを彼女の視線よりも少し下の位置から見つめた。



「さっき君は廊下で会った時、俺がお母さんが居る部屋へ行こうとしたらこう言った。

『いたいのは、いやです』と……そう言って、俺を止めたよな?」

「……はい」

 先程まで浮かべていた笑顔は既に彼女の顔から消え、初めに出会った時と同様に表情を曇らせながらも、ロッテはクリスティンの問いに答える。

「ほんとうは、だれにもいったらだめなんです……」

「それは何故?」

「また、おこられて……たたかれるんです」

「……成る程」

「おじさんは、やさしいから……ひみつだけどいいました」

「そうか……有難う、ロッテ」

「わたしのほうが、ありがとうです

おふろあたたかかったし……ごはん、おいしかったです」

 震える声で頭を下げるロッテに対し、ただクリスティンは「どういたしまして」と一言だけ返す。



「君がお母さんに酷い事をされていて……

それが辛くて嫌ならば、俺は君を助けてくれる場所を教えるが……どうする?」

「たすけてくれるばしょですか?」

「そうだ、きっと君の助けになってくれる」

「ママと、はなれちゃうんですか?」

「……そうなるな。

だが、君は悲しい思いも痛い思いもしなくなる……それは、約束する」


 今日知り合ったばかりだが、彼女が置かれている境遇は決して見過ごせるものでは無い。

 ロッテを部屋に招き入れてからずっと様子を伺っていたが、やはり彼女の母親は彼女に酷い仕打ちをしていると……クリスティンの抱いていた疑念は、今は既に確信へとなっていた。

 こうして一晩だけならば保護してやる事も可能だが、後々になって彼女の事を考えればこのままで終わらすわけにはいかない。

 ……結局それは、見て見ぬフリをするのと何ら変わりの無い事なのだから。


 そう思ったからこそクリスティンは彼女と向き合い、今の自分に極力出来る限りの対策を教える事を決意したのだが……彼女から返ってきた言葉は、彼の予想だにしないものだった。





「わたし……ママといっしょがいいです」

「……ロッテ?」

 彼女の口から漏れた「母親と一緒がいい」という言葉に、クリスティンは驚く他無かった。

「また部屋を追い出されたり、またその頬みたいに怪我をするかもしれないのだぞ?」

「でも、わたしがいなくなったら……ママは、さみしいとおもいます。

かなしいとおもいます。だから、いっしょがいいんです。

わたしとママは、ずっといっしょがいいんです……」

「じゃあせめて、病院だけでも行かないか? きっと、その頬の怪我だけじゃないんだろう?」

「ママにおこられちゃうし、しんぱいさせちゃうので……いきません」



 口端だけを上げ、笑みを浮かべる彼女を前に……クリスティンは今度こそ言葉を失った。





 自分では最善だと思って出した提案を断り、暴力を振るわれても母親と一緒に居る方がいい。と言える幼い少女の強さと優しさが、目の当たりにしてもなお信じられなかった。

 決してクリスティンには持つ事が出来無い彼女の信念に対し、素直に自分は彼女の力になってやりたい、とただ今はその思いで一杯となっていた。

 「大人だから守らねばならない」「子供だから救われるべき存在だ」などいう社会的概念が根本から崩れ去り、自分の目の前で微笑む少女の蒼い瞳から目を離すことが出来ない。


 「少しでも自分は彼女の力になれないだろうか?」という思いばかりが先走り、思考が追い付かない事など……これまで生きてきた人生の中で初めてだった。




 だからこそ、無意識のうちに行ってしまったのだろう。

 彼が咄嗟にロッテの細い手を引き寄せていると気付いた時には既に、クリスティンの太い腕の中に彼女の細い小さな身体が収まっていた。





「……おじさん?」

 唐突に腕を引かれ、床に座っている彼に抱き締められる形となったロッテが戸惑いの声を漏らす。

「君は俺より強いな……強くて、優しい子だ」

 彼女の顔を胸へと押し当て、クリスティンは金色の伸びたロッテの髪を優しく撫でる。

「君が今のままでいいと言うのなら、俺に何も言う権利は無いな。

だが……また何か辛い事や悲しい事があれば、また今日みたいに家を追い出されたりしたら……此処に遊びに来るといい」

「おじさん、またきてもいいんですか?」

「ああ、構わない。

俺が居なくても、勝手に入って構わない……」

「……おじさんは、どうしてそんなにやさしくしてくれるんですか?」

「それは……君が、とても良い子だと思ったから……だろうな」

「いいこ、ですか……

いいこ、って……はじめていわれました……ありがとうございます」



 彼女が発した言葉は、それが最後だった。

 人に「良い子」と言われたのは、彼女にとっては本当に初めての事だったらしい。



 それにクリスティンが気付いたのは……

 何も言わず自分の胸に顔を埋め、静かに泣きじゃくるロッテの姿を見てからだった。



















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