二〇〇七年 六月一八日 Ⅱ
恵が運転する車が学校の校門前に着いたのは、三時間目が始まって数分経った頃だった。
今学期に入ってから、すでにこの曜日の授業を三回休んでいるため、単位をしっかりと取るためにも今日は午後から登校するというわけにはいかなかったのだ。
「ありがとう、母さん」
「しっかり勉強してくるのよ!」
「わかってるよ――」
手を振ってくる恵に愛想なく返事を返すと、航大は自動車を見送るということもせずに校門をくぐる。
遅刻届を書くために生活指導教室に行かなければならないのが憂鬱ではあるが、今日は寝坊などの理由ではなく――しっかりとした理由があるから怒られることはないだろう。
校門をくぐって、いつものように下駄箱に向かうのではなく、事務室の前を通って生活指導室へ向かう。
生活指導室は事務室の玄関口から校舎に入った廊下の途中にあるのだ。
「こんにちは……」
事務室の窓口にいる事務員の女性に軽く会釈をする。
事務員の女性も挨拶を返してくるが、そのままそそくさと生活指導室まで歩いていく。数メートル歩いただけで生活指導室の前に着くが、すぐに扉を開けるという事が出来ない。
生活指導を担当している教師に航大は顔をはっきりと覚えられ、あまり良い印象を受けていないのだ。
そのため航大は自然と怖気づく。
(……よし――っ!)
一呼吸置いて、自分を勇気づける。そして、小さく扉をノックする。
「失礼します――」
キィという不快な音を響かせながら、扉は開く。
「おぉ、どうした?」
室内には、やはり見慣れた仏頂面でたくましい髭を伸ばしている教師がいた。
「あ、あの……遅刻届を書きに来ました」
「おう、そうか。寝坊じゃないだろうな?」
「き、今日は違いますよ……」
鋭い眼光を向けてくる髭もじゃ教師に、鞄から出した診察証明書を渡す。
疑い深い視線を向けながら受け取る髭もじゃ先生だが、診察書は間違いなく本物だ。
「どうやら、本当に本物みたいだな――。よし、ハンコを押してやるから、担任に渡しておくように」
「はい」
今日はそれほど機嫌が悪くないな、と判断する。
もしかしたら朝の遅刻が一人もいなかったのかもしれない。そういう日は稀だろうから、髭もじゃ教師の機嫌が良いのだろう。
「失礼しました」
ラッキーな日だったなぁ、と一人で思いながら生活指導室を出る。
遅刻扱いでも出席をしなければならないため、航大は三時間目が終わらないうちに自分のクラスを目指す。
生活指導室と教室棟を繋いでいる連絡通路を歩きながら、航大は病院を出る前の恵の態度を思い返す。
(先生に、病気のことで何か言われたんだろうか……)
真っ先に考えられることはそれだった。
しかし朝起きて体調が悪いということはあるが、病気の進行は薬を服用していることで抑えられている、はずだ。
それでなければ、航大がこうして学校に通うということも出来ていないだろう。
起きた時の調子が悪いなど慢性的な体調不良はずっと続いているが、それも生活に支障をきたすほどではないのだ。
その他に、航大に見当がつくことはなかった。
(薬を変えるとか……は、本人にも言うだろうし、母さんに何を言ったんだ?)
いくら考えても分からない。
胸のもやもやとした気持ちがなくならないまま、航大は自分のクラスである二年四組の教室の前まで来ていた。
「……」
教室の前まで来て、すぐに扉を開けることを身体が自然と拒む。
授業中の教室に遅れて入るということが、なかなか恥ずかしいのだ。また遅刻して入ると、教室中の視線を集めることになるが、それが嫌でもあるのだ。
(ここでぐだぐだしてても仕方ない……か――)
そう意を決して、教室の扉を開ける。
「すいません、遅れました」
いきなり開いた扉に、やはり教室中の視線が向く。黒板に文字を書いていた教師が、教室の扉を開けて入ってきた航大に視線を移す。
「なんだ、航大か――。遅かったじゃないか? また遅刻か?」
「は、はい……」
三時間目は、古典の授業だ。
古典を担当している教師は黒板に古文を書いていたのを中断して、出席名簿を取りだす。
「遅刻届です」
教壇に立っているその教師に、航大は生活指導室で受け取った遅刻届を渡して、自分の席へ向かう。
「おう。一応あとで担任の先生にも言っておくんだぞ」
「わかりました」
古典の教師に言われたことに返事をして、航大は自分の席に座る。
教室中の視線が、未だちらほらと自分に向けられていることを、軽く意識しながら航大は学生鞄から教科書とノートを取り出して、黒板を見つめる。
「じゃあ、続きやるぞーっ!」
途中で中断した授業を再開する教師にばれないように、航大の隣の席に座っているクラスメートが話しかけてくる。
「何かあったのか?」
「ん? あぁ、また寝坊……だよ」
視線を黒板から移さずに、航大は答える。
「またって――。何回目だよ!?」
「さぁ? 数えてるわけないでしょ」
小声で驚いてくるクラスメートに、航大はむすっとした言葉で返す。
隣に座っているクラスメートはそれほど仲が良いとは言えない男子だ。
席が隣だから、という理由でしか喋らない間柄と言える。そのクラスメートにあれこれと言われるのは、航大は嫌なのだ。
「お~い、おまえらちゃんと聞けよー」
そこに、教壇から航大とクラスメートを見ている教師の声が届く。
「遅刻もしておいて、授業も聞かないってんじゃないだろうな?」
「い、いえ……、すみません……」
おしゃべりをしていたことで、教師に怒られる。
隣に座っているクラスメートをちらっと一瞥して、航大は黒板に視線を戻す。授業でやっている内容は、航大が休んでいるうちに随分と進んでいるようだった。
この授業を休んでいた航大は授業の内容についていくことができずにいた。
三時間目が終わると、
「航大君、今日も学校来るの遅かったね」
「ほんとほんとっ。なんか寝坊多いよな、お前って」
自分の席に座っている航大の周りに、特に航大と仲のいい――裕也、誠、希――友達が集まってくる。
「あぁー…、朝は弱いんだよね」
なんとか取り繕うように苦笑いで答える航大だが、話しかけてきた裕也も冗談で言っていることなので、特に気にはしていないようだ。
「そんなんで、テスト大丈夫なのか?」
「ん~なんとかなると思うよ。困ったときは、ノートとか貸してくれるよね?」
心配してくる友達にも、航大は軽く返す。
航大が遅刻して登校するのは、クラスメートにはすでに周知のことだ。誰も本心から不思議がる人はいない。
それどころか、航大の友達はネタとして弄ってくるほどだ。
航大自身も、その扱いに異論は唱えていない。こうして弄ってくれることで友達になれるのならば、それでいいと思っているのだ。
「俺らのノート見ても航大の助けにはなんないでしょ。希の貸してもらえよ」
「そうそう」
裕也の言ったことに誠も同調する。航大に勉強を見てもらうことが多い二人は、自身の取っているノートが役に立つとは思っていない。
「ノート貸してくれる?」
「うん、私はいいよ。早い方がいいでしょ? ちょっと待ってね、ノート取ってくるっ」
二つ返事で答えた希はノートを取りに、自分の席へ戻って行く。
「そういえば咲良はどうしたの?」
航大は、学校では裕也、誠、希に咲良を加えた、この五人のメンバーでいることが多い。
裕也と誠、咲良とは一年の頃から同じクラスで、転校してきた希と同じクラスになってからすぐに仲良くなったのだ。
いつものメンバーが一人いないことに気付いて、航大は教室中を見渡しながら尋ねる。
「あぁ、トイレかどっかじゃないか?」
そのことに気付いた裕也も教室を見渡すが、咲良の姿は見つからない。
「咲良は先生の準備室行くって言ってたよ。はい、航大君っ。休んでた時の内容のとこに付箋貼っといたから」
そこに戻ってきた希が答える。
「そっか。借りてる漫画持ってきたんだけどな……。あ、ノートありがと。助かるよ」
「ううん、どういたしまして」
休んでいた航大に分かりやすいように、ノートには付箋がいくつか貼られている。
これがあれば、どこのページが航大が休んでいた日の内容かすぐに分かる。
「咲良はそのうち戻ってくるだろ。それより今日食堂行く?」
航大の前の席の椅子に腰かけている誠が、みんなに聞く。
「ん? あぁ、僕は今日弁当だから、どっちでもいいよ?」
「俺も」
「私もいいよ」
航大たちの返事を聞いて、
「じゃあ食堂で食おうぜっ! 今日は俺、弁当持ってきてなくてさ」
「咲良には聞かなくていいの?」
この場にいない咲良はどうするのだろう、と疑問に思った航大が誠に聞き返す。
「咲良には三時間目の前に聞いて、何も用意してないって言ってたから、もう食堂に行こうって誘ってるよ」
「そうなの?」
このような何気ない会話も、航大にはとても貴重なものだ。
高校に入ってから出来た友達である裕也たちは、航大にとって宝物と言える。それは中学時代とは劇的に違う学校生活を送れているからだ。
中学時代の航大は、ほとんどの時間を一人で過ごしていた。それは友達がいなかったから、ではない。
航大が患っている病気のため、学校にまともに通う事が出来なかったという理由が大きい。いや、学校に通うことはできていた。しかし授業は休むことが多く、通信制のような個別授業という形までとられていたからだ。
決して友達がいなかったわけではない。
今でも連絡を取り合う中学校時代の友達もちゃんといる。その数が人並みではないというだけだ。
「おう。ちょうどいいやって思ってさ――」
「俺らが弁当あるからいいって言ったらどうするつもりだったんだよ」
後先を考えずに行動している誠に、裕也が感じていた疑問を聞く。
「そ、そりゃ、みんな説得して食堂に連れていくに決まってんだろ……」
苦しい言い訳を言う誠に、希が笑う。
「説得って――。そんなんしなくても食堂についてってあげるに決まってるでしょ」
「え? ほんとか?」
「当り前でしょ。そんな私たちひどくいないよ」
驚いた表情をしている誠に、希は小さく笑顔を見せながら言う。
「そっか、サンキューな……」
「なに、照れてんだよ――!!」
「な……っ!? 照れてねえよ――っ」
「その反応が照れてるっていうんだよ」
裕也と誠の会話が、航大には微笑ましい。
友達というのは、このように会話を楽しめるのだと改めて実感した。
そうこうしていると予鈴のチャイムが鳴る。
「あ、んじゃ、四時間目の後は食堂で昼飯だかんな!」
「分かってるよ」
確認する誠に、裕也が「何度も言わなくていいって」と返事を返して、それぞれが自分の席に戻って行く。
(結局戻ってこないな。咲良には後で返せばいいかな――)
そう航大は思い、机の中を漁って授業の用意を始める。
咲良が教室に戻ってきたのは、四時間目が始めるぎりぎり前だった。
四時間目の現代文の授業が始まっている。
航大の席は廊下側の真ん中辺りである。航大自身はこの位置の席に満足している。
教壇からは死角になりやすいらしく隠れて内職することも出来て、質問を当てられることもあまりなかった。もっと言えば、窓側の席のほうが風景などを見ることも出来るのだが。
「それで、えぇ~。この一文には作者の心理ではなく、当時の時代背景が盛り込まれているわけだが、次の選択肢の内、どの時代背景が正しいか、誠! 答えてみろ」
「……!? えぇ~、俺っすかぁ……?」
机上で腕組みをしながら突っ伏していた誠が当てられる。
「そうだ! そんな体勢で授業受けてるからだ」
「ちぇ……っ。え~と、答えはウっすか?」
「はぁ……、お前は考えずに即答しただろ? もっと設問と選択肢をしっかりと見て、答えろよ」
誠の解答に、現代文を担当している教師は重たいため息を吐く。
「考えたって、わかんないっすもん」
「そう最初から決めつけたら、駄目だろ。他の人はちゃんと考えて答えてるんだぞ?」
「ん~……、じゃあ答えはウじゃなくて、アっすね!」
教師がため息を吐いたことで、選択肢のウは正解じゃないと判断した誠は、別の選択肢を答える。
「はぁ……、お前ってやつは――。もういい。答えはエだ」
「ありゃ、間違えたっ」
誠のいい加減な解答に呆れた教師は、自ら設問の答えを言う。
「じゃあ、なぜ答えがエなのか説明していくぞー」
授業を行っている教師の話も、航大には半分までしか頭に入ってこない。航大の頭の中は今朝のことでいっぱいだった。
(ここ最近、朝の体調が悪い……。やっぱり入院したほうがいいんだろうか……)
航大の担当医の先生からは、実は何度も入院を勧められていた。
入院をすれば、病気の進行は今よりも遅らせることが出来るという。それは堅実な対応だろう。慢性的な体調不良もある航大には、安静にしていることが必要なのだ。
しかし、それでは航大の願い――想いは成就しない。そう思い直すと、やはり入院をすることは憚られた。
「つまり――ここの登場人物の台詞の中に、留学している学生たちの国際状況が加味されているわけだ。学生の留学に関するそれぞれの国の状況について述べられている選択肢エが答えになる。わかったか~?」
淡々と授業は進められていく。
航大は朝、体調が悪いことをたしかに感じている。しかし学校に来てから、その体調の悪さも感じなくなっている。
それは授業を受けやすい体調であることに変わりはないが、それでも授業に身が入らないのだ。
「誠、わかったか~?」
「ちょ……っ!? なんで、俺だけ名指しなんすか?」
「さっき答えられなかったからに決まってるだろうが!」
「そんな――」
誠と教師のやり取りに教室中で笑いが起こるが、航大はやはり反応しない。頭の中で別の事を考えているからだ。その視線は黒板の一点を鋭く凝視している。
「名指しで呼ばれたくなきゃ、もっと集中して授業を受けるんだな」
誠に意地悪く言う教師の言葉に、また笑いが起こる。
それは希も例外ではなく教師の言葉に笑いながらも、自身よりも前の列に座っている航大が、ほとんど無表情でいることに気付く。
(……?)
みんなにつられるように笑っていた希の表情が一瞬で戻った。航大の表情があまりに不自然すぎるからだ。
クラスの全員とは言わないが、ほとんどの生徒が教師と教師に弄られる誠のやり取りに笑っている。それだけを見れば、良い雰囲気のクラスと言えるかもしれない。
しかし航大はその雰囲気の良いクラスの中で、一人だけ笑っていなかった。小馬鹿にしているような笑い方で済ましている生徒もいるが、航大の表情はそれとも程遠い。
(どうしたんだろ……)
航大の表情を見て、希は不思議に思う。二年になってから知り合った友達が、初めて見せる表情をしている。その事がすごく怖くも思えた。
そのように考えていると授業の終わりを告げるチャイムが鳴る。
「……!! よ~し、今日はここまでにするぞ~」
チャイムが鳴ったのを聞いた教師が声を掛けるが、クラスの大半の生徒はチャイムが鳴ると、一斉に教科書やノートを仕舞いだす。
チャイムが鳴ったその瞬間から戦争が始まるのだ。
「お~い、お前ら……。まだ号令してないぞ~?」
教壇に立つ教師の声も誰にも届かない。弁当を持った野球部のグループが、すでにさっそうと教室から出て言っている。
「はぁ……」
教師のため息が聞こえてくる。その姿を航大は動かしていない視界の端で捉えている。
「どうかしたのか、航大?」
「……っ!?」
そのまま黒板を凝視し続けていた航大は、いきなり裕也に声を掛けられて驚く。
「いや、何でもないよ――」
笑顔を作って取り繕う。
「? とりあえず、俺らも急ごうぜ。もう食堂は人でいっぱいだろうよ」
そう。
戦争とは食堂の席取り合戦である。限られた席数に一〇〇人を超える生徒が押し寄せれば、すぐにテーブルは埋まって行く。
食堂を利用する生徒は、必然的にこの席取り合戦に参加せざるを得ない。