二〇〇七年 六月一八日
目が覚める前のような、ふわふわとした感覚が全身を包む。
夢見心地という言葉の通り、気持ちいい感覚だ。
それまで見ていた夢から覚醒するように、航大は慌てて目が覚める。
ベッドの脇に置いてある――いつも自分を起こしてくれるはずの――時計を見ると、すでに八時を過ぎていた。
「や、やばっ!?」
時計が指している時刻を確認した航大は完璧に遅刻だと思い、さらに慌てるようにベッドから起き上がる。寝巻き姿のまま自分の部屋を出て、リビングまで降りる。
「母さん、飯出来てる!?」
大声を出しながら、急にリビングに入ってきた航大に、恵は驚いた表情を見せる。
「どうしたの、そんなに慌てて?」
「どうしたのって、完璧遅刻だよっ!! また生活指導の中井に怒られるって――」
寝ぐせでぼさぼさな黒髪を揺らしながら、そのままの勢いでテーブルに座り、並べられている朝ご飯をかき込むようにして食べ始める。
恵は、朝はご飯という頑固なところがあるので、今日も並べられているのは朝から作り込まれている和食だ。ご飯が好きな航大には、朝からしっかり白米が食べられるというのはうれしい。
しかし、こういう時はすぐに食べ終えられるパンなどが好ましいのだが、いくら言っても恵は聞いてくれない。
「遅刻……? 何言ってんの。今日は病院寄って行くんだから、寝坊しても関係ないわよ」
「あ、そっか――」
恵に言われて、思い出す。
今日は二週間に一回の病院に通院する日だった。航大は病気にかかっており、現在は通院をしている状況なのだ。
病院に行く日だということを思い出して、ご飯をかき込むように食べていた航大は一旦箸を置く。
「何時に病院行くの?」
「今日の予約は一〇時三〇分だから、一〇時前には家出るわよ。それまでに学校の準備しときなさいよ」
「わかった」
病院の予約の時間を聞いて、航大はさきほどまでの慌ただしさを落ち着かせて、ゆっくり朝ご飯を食べる。
「父さんは?」
テーブルに二人分の朝ご飯しか並べられていないことに気付いて、航大が尋ねる。
「もう会社に行ったわよ」
「ふぅ~ん」
航大が起きた時間は、学校も遅刻している時間だ。
学校よりも朝が早い会社に勤めている洋平はすでに家を出ていて当然なのだが、航大は少し残念そうにする。
航大と洋平の間に親子の会話がなくなってから、もう随分久しい。たまにはゆっくり話したいとも航大は思っているが、なかなか時間が合わずにいる。そういう生活を続けているうちに、航大は父親である洋平と一日に数回会話をすれば、良いほうという親子関係になってしまっている。
「あんたも早く朝ご飯食べて、準備しなさいよ」
「わかってるって! ってか、あと一時間もあるじゃん」
恵に催促される航大だが、時計の時間を見て軽く反論する。
「毎日毎日そう言って、時間ぎりぎりになってるでしょうが。今日くらい余裕をもって病院に行くのよ」
「あ~、はいはい」
「ちょ……っ!? なによ、その返事!?」
航大の嫌気がさしているような返事を聞いて恵はさらに叱ろうとするが、航大はさっさと朝ご飯を食べ終えて、自室に戻ろうとしていた。
「航大っ!」
「ごめんごめん――」
そう言って、航大はリビングの扉を閉めていく。
「あ、また――っ!!」
扉を閉める直前に、また恵の大きな声が響いてくるが、航大は無視していく。
恵は言葉使い一つにも敏感に反応して、怒ってくる。毎度毎度丁寧に反省して相手にするのは骨が折れると航大は思っているのだ。それにはもちろん単純に怒られるのは嫌だという気持ちもあるが、何度も叱られて反省することはめんどくさいという気持ちもある。
自分の部屋に戻った航大は、寝巻き姿からクローゼットに仕舞っている着慣れた制服に着替える。
「病院か……」
もう何度目かになるか分からない通院は、航大にとって少しめんどくさい。
しかし、身体に関わることなので疎かにすることもできない。毎日薬を飲むことは当然として、生活での変化などもちゃんと報告しないといけないのだ。
部屋の隅に置いている机には「毎日飲むように」と言われている薬が置かれている。毎日飲んでいても効果が表れているのかどうかもはっきりと認識できない薬だが、航大はカプセル状の薬を飲むことを怠ったことはない。
その薬の隣に置いてあるノートに視線を移す。
「ナラタージュ……。いつか叶う時はくるのかな――」
ノートの表紙には、ナラタージュと小さく書かれている。
それは航大の伝えたい想いが詰まった読み返される物語を綴っていく日記だ。表紙をめくると、何日か分の日記がすでに書かれている。そこに書かれている内容を軽く読んで、航大は自然と気恥ずかしくなる。
そのまま日記をぺらぺらと読んでいると、
「航大ーっ! 用意できてんのー?」
部屋の外から、恵の声が聞こえてくる。
気がつくと一〇時前だった。病院に行かなければならない時間である。
「ちょっと待って!」
制服には着替えたが、まだ鞄を用意してなかった。
机の上に無造作に置かれている教科書やらノートやらを薄っぺらい学生鞄に慌てて詰め込む。軽く忘れ物がないか確認をして、部屋を出る。
「遅いわよ」
「そんな急がなくてもいいじゃん」
階段を下りた先にある玄関で航大を待っていた恵は、すでにパンプスも履いて、今すぐにでも家を出れる状態だった。
「予約してるんだから、急がないといけないでしょ」
「ちょっとくらい遅れたって大丈夫だろ」
恵は航大を急かすが、それほど急ぐ気のない航大はさらにトイレに行こうとする。
「ちょ――、遅れちゃうわよ!」
航大の背中に恵が声をかけるが、航大は取り合わない。
「すぐ済ますから――」
時間に厳しい恵とは対照的に、航大は相当ルーズだ。時間に追われるように生活していても、それを駄目なことだとあまり思わないのだ。
その性格の違いから、恵のいらいら度が増していく。
「早くしなさいよーっ」
トイレの扉越しに恵の声が届いてくる。
何度も催促してくる恵に、うんざりとしながら航大はトイレから出る。その表情は気だるそうだ。
「まだ全然間に合うって。それに、何回も言わなくても分かってるよ」
「分かってないから、言ってんのよ。ほらっ! 遅れたら先生の迷惑になるんだから、急ぐわよ!」
「わかったよ……」
どこまで正確に動きたがるんだろうか、と疑問に思いながら、航大は恵に急かされて家を出る。
玄関の扉を開けると、強い日差しが視界を一瞬奪う。
今日も雲一つないと言えるほどの快晴で、少しくらいは陰りを作ってくれてもいいのに、と思えるほどの強い日の光を太陽は放っている。
やはり見上げた空は遥か遠くまでも青い。
航大が通っている病院は、昨年新しくできた総合病院だ。
この地域には総合病院のようにベッド数が一〇〇を越えるような大きな病院がそれまではなく、地域の小さな診察所などしかなかった。
そこに内科、外科、産婦人科、耳鼻科など多数の科がある総合病院がやっと開院したのだ。
白を基調とした室内には、航大ともう一人――白衣を纏った医者が椅子に座っている。静かな雰囲気が、緊張を漂わせてくる。それに負けないように航大は、椅子の上で両手をきつく握っている。
「うん。病気の進行はさほど変化がないね。良い状態だよ。最近は調子も良いんじゃないの?」
担当医の先生は今日の検査を終えて、航大にそう尋ねてくる。
「ん~。そうかもしんないですけど、朝方はやっぱり気分が良くない時が多い……かな」
「なるほど――ね。寝苦しさとかはよく感じる?」
「あ、はい」
航大の説明を受けて、先生は少し考え込むように顎に手を当てる。そのまま、だいぶページ数が増えた航大のカルテを読み返す。
航大が通院をするようになってから、もう半年を越えている。この担当医の先生とも診察の話だけでなく、学校での出来事など世間話をするほどの関係になっている。家族以外の大人に悩みなどを打ち明けられる人は、航大にとって貴重な存在だった。
「同じ症状が続くようだったら、そっちの検査もまた行うことにしよう。次に予約している患者さんもいて、今日はもう時間もないからね。航大も遅刻を結構しているみたいだし、授業には出ないと単位も危ないでしょ」
先生に名前で呼ばれることも、もう慣れている。
仕事で患者を呼び捨てで呼ぶのはどうなのだろうという意識も最初はあったが、担当している患者によって親しみやすさを出すために対応を変えているらしい。医者とはそういうものなのだろう、と詳しく知らない航大はそれで納得しているのだ。
「それほどひどくはないよ! 最近はちゃんと授業にも出れてるんだし」
「そうなの? お母さんは、また今日も寝坊したって慌てて起きてきたんですよ、って笑いながら言ってたよ」
皮肉も込めながら先生は言ってくる。
「な!? 相変わらずひどい親ですよ……。息子のことを軽口で笑い話に使うなんて――」
「まぁまぁ。お母さんもそうは言ってるけど、航大のことを心から心配しているよ?」
「それを、息子にちゃんと示して欲しいんですけどね……」
嘆いていると診察室の扉が突然開いて、二人は驚く。扉を開けて入ってきたのは恵だった。
その顔を見た航大はそっぽを向くが先生は、
「おや、どうされました?」
「いえ、もう病院を出ないと四時間目に間に合わないと思って――。それより、何か話してたの?」
疑うような航大に視線を向ける恵だが、航大も負けずに返す。
「別に――。あんたの陰口を言ってただけだよ」
「親に向かって、あんたとはなんて口の利き方よ!!」
航大の言葉の悪さに恵は叱りつけるが、そっぽを向いたままの航大は話を聞かない。
「それじゃ先生、また来るよ」
そう言って、恵よりも先に診察室を出て行った。
航大が診察室を出ていくのを見てから、恵は先生に向き直る。
「すいません、息子がまた失礼なことでも言ってなかったでしょうか?」
「いえいえ、そんなことは言ってませんよ」
笑いながら返してくる先生の顔を見て安心をする恵に、先生は加えて気になることを言う。
「お母さん、航大君のことについて、少しお話があります。航大君を学校に送った後にでも、また病院に寄ることは出来ますか?」
「はぁ……。出来ますけど、息子がどうかしたのでしょうか?」
「今は航大君を学校に送ってあげてください。お話は少し時間をとりますので――」
先生にそう言われて、恵は航大の身体に何かあったのではないか、と不安を感じる。
しかし、航大を学校に送らなければならないことも事実なので、その不安を一旦胸の奥にしまう。
「わ、わかりました。では、また後でお伺いさせて頂きます」
「えぇ、お願いします」
先生に一礼をして、恵は診察室を出る。
診察室の外には恵が出てくるのを待っていた航大が、ベンチに座って携帯電話を開いていた。恵が出てきたことに気付いて、顔を恵の方へ向ける。
「何か言われたの?」
「え!? う、ううん――」
「……?」
歯切れの悪い恵の返事に、航大は頭にはてなを浮かべる。
「さ、行きましょ!」
「あ、あぁ……」
間違いなく何かがあったと思わせる恵の態度だが、航大は追求することはせずに恵の後を追う。それは航大には話せられない大人の事情ではないか、と思ったからだ。
再び車に乗って、航大が通う高校へと向かう。
その車内の雰囲気は、少し重たい。運転をしている恵はそれに集中しているわけでもなく、先生に言われたことについて、頭の中で考えていた。また航大は、その恵の様子が急におかしくなった理由について考えていた。
車は通い慣れた通学路をひたすら走っている。