二〇〇八年 一二月一七日
洋平と恵には一人の息子がいた。
大切な――大切な一人息子がいた。あの日が訪れるまで。
見上げると冬の空が広がっている。
しかし身体を刺すような冷たさはあるのに、青く広がる空はどこか温かく感じる。
火葬炉の煙突から、緩やかに煙が空まで上がっていっている。
目を凝らしていれば、煙がどこまで上がっても見えるのではないかと思えるほどだ。
しかし眼に浮かぶ涙が、顔を上に向けることを拒ませる。
頬を流れる涙は拭うと、嫌気がさすほどに暖かく感じる。涙がこれほどに熱を持っているものだと、今気付いたかのようだ。
洋平と恵の周囲には、喪服を着た多くの人がいる。みんな親戚たちだ。
葬式には学校のクラスメートや担任の先生も出席していたが、今はいない。彼らが流してくれた涙を、二人はちゃんと覚えている。
それだけ愛された息子だったのだろう。そう考えると、洋平は子供に恵まれたと思えた。
息子のために涙を流してくれる人がいる、これほど恵まれたことはない。そう思えたのだ。
見上げた空は、どこまでも青い。
今の気持ちを汲み取るように、静かな雨を降らせてくれればいいのに。
全てを終わらせて家に着いたのは、二〇時を回ったころだった。
居心地良く見慣れた我が家に帰ってきても、ここが本当に自分の家なのだろうかと疑問に思うほど、気分が晴れない。
今までの人生でこんな気持ちは初めてだ。
「あなた――、とりあえずご飯作るわね」
玄関でぼうっと立ち尽くしていると、二〇年以上も連れ添ってきた恵が小さく話しかけてきた。その声に意識が戻ってくる。
「あ、あぁ……」
こんな気分でも人はお腹が空いてくるし、眠たくもなってくる。自然と生活するために動こうとする身体を、恐ろしく感じる。
気丈に振舞おうとする意識さえも、結局はそういうことなのだ。
恵は久しぶりに履いただろう黒い革靴を脱ぐと、そのままリビングのほうへ歩いて行った。
その背中を見ていると、自分の妻はなんと気丈な人間なのだと洋平は思ってしまう。上辺だけでも元気に振舞おうと頑張っていることに気付きながらも。
(そうしないと押し潰されるからか……)
恵のあとから洋平もゆっくりと靴を脱いで、我が家の廊下を歩く。
廊下の途中には、二階へとつながる階段がある。さらに階段を上った先には、一人息子である航大の部屋がある。
時々、その部屋から聴こえてくる音楽が、今は聴こえてこない。
そのままリビングに向かおうかとも思ったが、洋平は何となく二階への階段を上る。
あまり大きくない我が家ではあるが、二階には三つ部屋がある。一つは恵と洋平の寝室で、もう一つはほとんど物置として使われている。そして最後の一つが航大の部屋だ。
階段を一段ずつ上がる足がとても重たく感じる。それは疲労から来るものではなく、精神的なダメージから感じるものではるが、一段上がるたびに呼吸が乱れる。
それでも階段を上り切ると、だいぶ傷や汚れが目立ち古くなっている『航大の部屋』と書かれた札がぶら下がっている扉が見えた。
ゆっくりとその扉を開ける。
航大の部屋に入ると暗く見づらいが、何度も入ったやはり見慣れた風景だった。しかし、ここに大切な息子の姿はもうない。
「はぁ……」
自然とため息が出る。
この瞬間が訪れることを何日もかけて、覚悟してきた。
してきた――つもりだった。
しかし実際に目の前にすると、その覚悟がもろく崩れる。ここまで自分が弱い人間なのかと洋平は自分に落胆する。
それも無理ないことのはずなのに、自分を強く持とうと意識してしまうために、自らの無力を呪いたくなるのだ。
航大がよく座っていた机には、今も様々なモノが散らばって置かれている。まるで航大が今から宿題をするために座るのだ、と言わんばかりに教科書がいくつか積み上げられていた。
「うっ……」
不意に胸に込み上げてくる。
右手で覆った口からは、止めることができない嗚咽が漏れる。立っていられなくなり、その場に蹲る。そして、もう出しつくしたと思った涙が、まだ溢れ出てくる。
うっすらとぼやける視界に入ってくるものは、何もかもが航大のモノだ。航大が大事にしていた物ばかりだ。そう意識すると、さらに涙が溢れてきた。
「あなた――」
その背中に声が掛けられる。
振り返ると恵が心配そうに立っていた。喪服を着替えたのだろう、動きやすい服装の上にエプロンが掛けられている。
晩ご飯を作ろうとしていると洋平の姿が見えなかったので、探しに来たのだろうか。
「恵……」
情けない所を見せてしまった。
強気に振舞おうとしている恵に対して、夫で男である洋平は泣いてばかりだ。葬式でも我慢することが出来なった洋平は号泣していた。
その恥ずかしさや弱さから目を背けるように、視線を恵から前に戻す。
「いいのよ。そんなすぐにいつも通りにしなくても――。ゆっくり気持ちを落ち着かせていけば大丈夫よ」
そんな洋平を見て、恵はなるべく優しい声で言う。
その恵の優しさが洋平の身に沁みる。
この声に、言葉に、優しさに、今までどれだけ救われてきたことだろうか。洋平にとっては今回もそうだった。背中に伝わる優しさは間違えようのない最愛の妻のものだ。
そう実感することで、涙で滲んでいた視界も次第にはっきりとしてくる。
再び振り返ると、恵も涙を堪えていた。
「ありがとう……」
洋平は小さく感謝の言葉を述べる。
「ううん。あなたがどんなに航大を愛していたか私は知ってるわ。一人息子だったんだもの。あなたが悲しむのも仕方ないことよ」
「恵……」
洋平に掛けられる言葉は、とても温かい。自身も辛いはずなのに、恵は夫である洋平を慰めている。その事に、さらに洋平の目頭が熱くなる。
ありがとう以上の感謝の言葉が見つからない。
洋平は、これほどの辛いことも一人では乗り切れなくても、恵とならば乗り越えていけるような気がした。
「懐かしいな……」
「えぇ」
二人は航大の部屋を見て、その全てを懐かしむ。
ほんの数日まで活気ある空間だったのが嘘のようで、虚しく光る蛍光灯の明かりが主人のいない部屋を照らしている。
ここに座って徹夜をしてまで勉強をしていたのだろう勉強机や、寝転がりながら漫画や雑誌を読んでいただろうくたびれたシーツのベッド、学校の教科書よりも漫画やCDが多く仕舞われている本棚、ハンガーに無造作に洋服が掛けられているクローゼット。その全てから、一人息子の匂いがしてくる。
今にも勢いよく部屋のドアを開けて、聞き慣れた『ただいま』の声が聞こえてきそうなくらいだ。
「もう航大はいないんだよな……」
「えぇ――」
口に出すことで、まぎれもない事実だと自分に言い聞かせるように確認する。その声が震えていることに恵は気付く。
「あの子は……もういないわ……」
恐ろしいほどに小さく見える洋平の背中を抱きかかえるようにして、恵は辛い事実をはっきりとした言葉で告げる。
「……」
恵の温もりを直に感じて、不安定な気持ちが落ち着いてくる。それと同時に、静かに涙が頬を伝う。
蘇ってくる記憶はどれも大切な、本当に大切な息子の元気な姿ばかりだ。
始めてハイハイをした時も、一歳の誕生日に初めてホールケーキを恵と二人で作ったことも、親子でキャッチボールをしたことも、運動会を見に行ったことも、そのどれもが元気な航大だった。
(俺は……ちゃんと父親をやれたんだろうか……)
胸に湧き上がる疑問は、誰も答えてはくれない。
寄り添う恵の暖かさをいつまでも感じながら思い返す家族の思い出は、どれもきらきら輝いているものばかりで、航大が感じていた不安や悩みを聞いている思い出がなかなか見つからない。
「なぁ……」
「なぁに、あなた?」
返ってくる言葉は、どこまでも暖かい。
「航大は幸せだった……かな……」
「当たり前じゃない。あなたのような素敵な父親がいたのよ? 不幸だったわけないじゃない」
洋平の不安になっている気持ちを察した恵の言葉に、
「……俺だけじゃないだろ。恵も素敵な母親だったよ」
洋平も実直に返す。
その言葉が過去形であることに、洋平も恵も気付いている。気付いていながら訂正することはしない。それは、二人が航大ただ一人の親で在り続けることの意思の表れか。
大切な一人息子の部屋を二人は、自然と綺麗に掃除し始める。航大が生活していた部屋をそのまま埃まみれの部屋にしたくないからだ。
「懐かしいおもちゃね……」
恵がタンスを整理していると、子どものころに航大が気に入っていた戦隊モノの人形が出てきた。それを見て、恵は小さく呟く。
部屋を掃除していると見つける航大のモノは、どれもが懐かしく思えてしまう。ほんの数日前まで使っていた教科書やノートなどまでもだ。
そして航大が大事にしていたモノがたくさんあることに、今さらのように気が付いた。
そのまま航大の部屋を軽く片付けていると、そこで洋平はあるものに気が付く。
それは、
「お、おい! このノート――」
「航大のだわ……」
洋平が手に取ったものは、よく見かける大学ノートだった。航大が学校の授業などで使っていたものだろう。
ノートの表紙には、あまり上手とは言えない字で『ナラタージュ』と書かれている。
「ナラタージュって……?」
「さ、さぁ――? 中には何が書かれてるの?」
意味が分からない洋平はノートを凝視したまま、震える手で表紙を捲る。
そこに書かれていたのは――。