手
「水桶にな、見ん覚えのねぇ手が映っちょったら、決してそんから目を離しちゃーいけんよ」
成人してからも、童には祖母の言葉をふと思い出す時がある。
いつも縁側に腰を下ろしていた祖母。何かを見逃すまいとするように景色に目を向ける祖母。幼少を田舎で送った童が見てきた祖母の姿は、年齢を重ねた以上にどこか浮き世離れしていた。 そんな祖母から聞いた言葉なのだが、どういう流れで耳にしたのかまでは覚えていない。
そして、一度思い出した言葉は気にしないではいられない。とくに都会に住まいを移し、鏡と関わらない日がないとなると、なおのことである。
童は無意識に虚像を追い、その足元を注視する。それだけだ。
しかし、誰と行動していても、それは何も変わらずに祖母の言葉に従っていた。
田舎では昔からの習俗を今も伝えており、たびたび神隠しに遭う人がいては村総出で鳴り物を叩きながら捜してきた。見つかることも見つからないこともあったという。
そんな田舎は数戸の家屋が点々とする、山に挟まれた入り合いの小さな村。秋は紅く黄色く山を化粧し、黄金色に輝く稲穂は太陽の沈む折に至上の世界を覗かせる。
その時間、異世界との境界を曖昧にすることを教わったのも祖母の話からだ。
しかし、祖母の話自体が嘘とも真ともつかない曖昧さを伴い、夢も現も等しく影を伸ばしていたことに気が付いたのは、日がな一日中、縁側に座り、じぃっと外を眺める祖母の姿を目の当たりにしてからだ。
祖母の法事も十三回忌を迎え、親に連れられて帰省していた童も一人で訪れるようになっていた。
当時からそのままの姿を残す畦道を歩いて、祖母の暮らした家に向かう。車も通ることの出来ない細い道を、一人で歩く。
神の居る地に続くとされる道は、昔から決まった時間しか歩かなかった。格別に心の躍る頃合いには、決まって祖母の言葉を思い出して足を向けなかった。いや、向けられなかった。
「雨ん上がりの、稲穂の頭から雫が垂れんって時はぁな、いけんよー」
とくに、神隠しに遭うと言われる黄昏時。童はツンツンと収穫の時を待つばかりの穂に触れながら、昔に遭遇したことを思い出した。
……
まだ、あれは七才の頃――黄金色に輝く稲穂を手にして、同じように雨上がりの畦道を歩いていた。道のあちこちにできた水溜まりを踏んで回る。稲穂だけを水面に映し、ギヤマンを踏む要領でぱちぱち撥ねさせる。
瞬きをする僅かな間だけ、飛び散る水玉に黄金色が残り、それが綺麗だった。夕陽に照らされるだけでも言葉をなくしてしまうが、それ以上のものがあった。
それがある時、水溜まりに穂先を差し出そうとすると、風が吹いて淵をはみ出してしまった。何度も何度も繰り返すが、やはり風が吹く。いよいよ熱くなって実をたんと詰めた穂殻を掴んで水溜まりに映したのだが。視界の端で白く映える物がよぎった。
今度は好奇心から、それを追っていた。水面ぎりぎりに腰を屈み、隅々まで目をやった。そして、見たのだ。その端を渡る白いもの――白い手を。雪のように白い手が水面に映っていた。驚いて後ろを振り返るも、誰もいない。あまりに不思議で、じっと見ていると、水面の穂を掴んで引っ張ってきた。
ぐいぐい、ぐいぐいと引っ張った。
「いやだ、いやだ。これは僕の稲穂だい」
ぐいぐい、ぐいぐいと引っ張られ、稲穂はそよぐ。
この時、白い手は風の手なのだ、と幼いながらに考えた。
その綱引きは唐突に終わりを迎えた。
穂から一粒の実が水溜まりに落ちるや、水面を波紋が走り、揺らぎと共に白い手はかき消え、再び元の静寂を取り戻したのだ。
辺りを見渡せば黄昏も過ぎていた。ぬかるむ畦道を急ぎ帰り、祖母にその出来事を話すと……。
「良かった。良かった。お前さは強い子じゃねえ」
祖母は話しも聞こうとしない親とは違い、誉めてくれた。
「そんは山の神だぁ。お前さがきんきらに輝く稲穂をもっとったからな、羨ましくなったんだぁな。山の神はどんと山に座っちょってよ、村の祭りさ時に、今年とれた物をば捧げちょんだが、時たまちょいちょい山さを下りるんだぁよ。もしも、お前さがひ弱な子でったら、お前さごと神のとこさに行っとろうてなぁ」
「神のところ、ってどこ?」
「神のいらす場所だぁ。山の、こことは違う場所に住んどるんよ、神はなぁ」
「水溜まりの向こう?」
「もっともっと、ひんろい所だぁな。あと、水ん溜まりに屈み込んだってぇ、危ねかったなぁ。かがみに覗き込んじょったらぁな、連れてかれたでぇね」
祖母はそう話してくれた後、民謡にも似た歌をくちずさんだ。
――もはや 日暮れじゃ 迫々(さこさこ)かげるヨ/童よ いぬるぞ 隠せぬうちヨ
耳にしたことのある歌に、童もついて真似た。
――こがね 重たし 実り揺れるヨ/秋もすんだよ 田の畦道をヨ
……
「――高い山から 握り飯こかしゃヨ/天狗喜ぶ わしゃひもじヨ」
気が付けば、陽は西の地に沈みかけていた。道は見えなくなりかけており、やけに白く映える物が視界の端をかすめた。
驚くと同時に、怯える童に諭す祖母の姿を思い出し、水桶の話も思い出した。ちょうと先の若干曲がった人差し指を童に立てる祖母は皺を深めて、怯える童を宥めようと目尻を下げていた。
「水桶はもののたとえでなぁ、有り得ねぇ物を見ぃたら、きぃつけろぉ、言うことだぁな」
その白いものはいつだかに見た手を彷彿させ、見覚えのない腕へと続いていた。
「何だぁ、誰かいるのに手にしか気が付かなかっただけか。あんまりに白いからぁ」と口に出す。内心は形容できない程に慌てていた。そして、手から目を反らしてしまった――その瞬間だった。
畦道が神の居る地へ続く道であるということも、祖母が縁側で待つことも失念するほどに慌て、しんと静まりかえる周りを気にする余裕も無かった。
目の前に顔を覆うように手が開かれ、童は目をしばたたくのみ。
その晩、童の隠れた事を知った村人は総出で捜した。組を作って、お互いを確認しながら、隠された童を捜した。そうでも見つからないことも……。
水桶に覚えのない手が映ったら、決して目を離してはならない。――離した途端、連れ込まれ、神に隠されてしまうからだ。
……ヨ
…………をヨ
…………ひもじヨ
ここの山の めかしぞ すんだヨ/明日はたんぼで 稲刈ろかヨ
さきの山の めかしぞ すまぬヨ/稲の刈り入れ まだまだ先ヨ
もはや 日暮れじゃ 迫々(さこさこ)かげるヨ/童よ いぬるぞ 隠せぬうちヨ
こがね 重たし 実り揺れるヨ/秋もすんだよ 田の畦道をヨ
屋根は萱ぶき 萱壁なれどヨ/昔ながらの 千木を置くヨ
歌でやらかせ 草刈り稲刈りをヨ/仕事苦にすりゃ 日が長いヨ
高い山から 握り飯こかしゃヨ/天狗喜ぶ わしゃひもじヨ
――祖母のうたいは続く。