(20) ~ スピリットは不機嫌絶頂
「な、なんかゴメンね? お姉ちゃんもイーエンくんも……私、ついてくばっかりで」
「いやいや、それと俺のことは呼び捨てでいいって。にしても、マコトの妹ってんだからどんなのかと思ってたけど、すげー可愛いよな!」
「ほおー、どんな想像をしていたのか今ここで素直に吐いてみたらどうだ?」
「すいませんっした!」
軽口を叩き合いながら、彼らは森を突き進んでいく。と、マコトの足が止まった。長草が途切れたのだ。
「着いたか」
「お、やったじゃん! 俺が前に来たときはこの倍くらい時間かかったのに、……あ、自分で言って凹んできた」
「けど、あたしも結構腕ヤバイぞ」
この森に入ってすぐにご対面した長草群の光景を思い浮かべ、マコトは肩から先が痺れに痺れている両腕を見下ろした。マコトの言葉を聞きつけたミコトは、慌てて駆け寄ってきて治癒魔法を口にする。
「風よ、彼の者の疲れを癒せ」
ミコトの精神力を変換して創られた魔力の風が、くるりとマコトの両腕を取り巻く。ちょっとしたマッサージ器にもみほぐされているような感触に、マコトは目を細めた。
「あ~、これ気持ちいい……」
「お姉ちゃん専用の治癒魔法だよね、これって」
「いや、専用ってほどでもないんじゃねーの? さっき俺の足にやってもらったときも、気持ちよかったしさ」
マッサージ魔法を終えたミコトは、小さく息を吐いて、到着した目的地をざっと見回した。
周囲を長草に囲まれながら、ぽつんと存在している濁った泉。泥臭さが辺りを漂っており、そばに根を下ろしている木々も元気がなさそうだった。ミコトの肩の上で、トリルが嫌そうに小さく鳴く。
「うえー、ホントに前より変な風になってるし……つか、普通に汚ぇ」
「前は、これほどじゃなかったのか」
「ああ、ちょっと泥水が混ざったんじゃないかなーってぐらいでさ、薬も全部使わないでよかったんだけど……こりゃ、足りないか?」
泉の状態に顔をしかめるイーエンは、ため息と共に吐き捨てた。
「ったく、こんな地味ーなことすんのは下級の悪霊だよな、多分」
この、イーエンが言った意味での『悪霊』というのは、マコト達の世界での『悪意を持った幽霊』とは異なり、『悪意を持った精霊』のことだ。曖昧な存在である幽霊とは違い、他の生物に実害をもたらしてくる存在である。
この世界では、どの種族が悪だと決めつけられているわけではないらしい。人間の心に善悪があるのと同じようなもので、魔族だから悪だとか、精霊だから善だとか、そういった認識はごく一部だけでなされている。
「悪霊、ねえ。見たことないからいまいち分からんが」
「あったらヤバイって。下級だっつっても、俺たち駆け出しなんてあっという間にやられちまうんじゃねーの? ……ま、俺一人だったら人間相手でもちょっときついんだけど」
マコトの呟きに、イーエンは身を震わせた。ベルトにくくりつけていたポーチから、グスタフから受け取っていた浄化剤の瓶を一つ取り出す。
「ということで、早速一つめはこれぶちまいて、と」
なぜかガラス瓶の口からコルク栓を抜くのではなく、水面ギリギリの所を持っていたナイフで斬り飛ばし、イーエンはそのまま一気に瓶の中の浄化剤をぶちまけた。すうっとする薬草のような匂いが、辺りに漂う。
「……よし、じゃー次の泉な」
「前にもこの依頼したことあるんなら、近道くらい覚えておけよな……」
「う、ここの草が悪いんだよ。やたらめったらでかいうえに、すげぇいきおいで育つんだからな!」
「とりあえず、方位の確認をしようよ」
小さな地図を広げて、糸でぶら下げた磁石の方向を見るミコト。マコトは離れたところで、その結果を待つ。イーエンは、斬り飛ばしたことで口が大きくなったガラス瓶を見下ろし、どうするか、とつぶやいている。
「……うん、今度はそっち。同じ方向に二つともあるよ。すごく近いから、あっちについたら終わりだね」
「へえ、三つ全部バラッバラってわけじゃないのか」
「うーん、でも、ちょっと遠回りかも。目の前にあるのにショートカットできないってやつ」
「しょーとかっと?」
「近道って意味だ。ま、とにかく行くぞ」
再度マコトの先導で、長草を切り開いていく。最初の泉にたどり着くまでよりもはるかに短い時間で、次の泉へと到達した。
「じゃ、あたしの薬まくぞ」
やはり、最初の泉同様濁りきって酷い有様の泉に顔をしかめつつ、マコトはポケットから取り出した瓶のコルク栓を抜き、ぱっぱと何度かに分けて周囲に振りまいた。瓶が空になったことを確認して、泉の対岸を見る。そこには長草がなく、ちょっとした茂みの向こうに最後の泉が見えた。
「なるほどな。確かに遠回りだ……どのくらいだ?」
「うーん、この回り道の感じからすると、さっきのところからここに来るまでよりちょっとかかるくらいかな」
「あー、目の前なのにそんなにかかるのかよ……」
ぶつぶつ不平をこぼしながらも、最後の泉へと足を向けるマコト達。と、唐突に木々がざわめいた。ふーっ、と珍しくトリルが全身の毛を逆立てて、警戒心露わに顔面を歪める。
「え?」
グスタフによる魔力、霊力行使の訓練のおかげで、だいぶ周囲の気配を探ることができるようになっていたミコトは、トリルと同じように木々から感じた違和感に眉をひそめる。
「お姉ちゃん、待って」
「どうした」
深刻そうな妹の顔を見て、マコトも同じような表情を浮かべて、背負っていた棍に手を伸ばす。ぶるり、とその隣でイーエンも身を震わせた。
「うえ、なんか、気味悪……」
「この辺りの気味悪さは森に入ってからさんざん目にしただろ」
「いや、なんか違うって。光景じゃなくて、こう、うーん」
「いるよ」
なんとも言い難い気配を、なんとかマコトに伝えようと言葉を探していたイーエンの前で、ミコトが蒼白な顔色でつぶやいた。
「「へ?」」
「風よ、目標をいましめよ!」
とたん、ミコトと向かい合う形になっていたマコトとイーエンの背後で突風が渦巻いた。ずいぶん威力が上がってるもんだ、と感心したのもつかの間。
けけけけけっ
耳障りな甲高い笑い声。それを耳にした瞬間、イーエンの表情もミコトに負けず劣らず蒼白になった。
「……ヤベェ、来やがった! 逃げるぞ!」
「来たって、まさか」
「下級悪霊だ!」
マコトとミコトの手を掴み、自分たちが切り開いてきた長草の間の道へ駆け戻ろうとするイーエンだったが……どこにも、自分たちが通ってきた跡が見当たらない。マコトが膝丈まで切り裂き、自分がしっかり踏み倒してきた道が、きれいさっぱり無くなっていた。
「草属性の、悪霊ってか……!」
ぎり、と奥歯を噛みしめるイーエン。なんとなく自分たちが危険な状況なんだなと理解し始めたマコトは、隣から響いたミコトの悲鳴に血相を変える。
ミコトは、ブーツからはい上がってきた細い草の蔓を必死に蹴り飛ばしていた。だが、次第に蔓の量が多くなって、足首から下が固定され始める。トリルがじたばたとミコトの両手に押さえつけられて暴れていた。おそらく、ミコトを助けようと肩から降りかけたのだろうが、今のトリルの体ではあっという間に捕まってしまう。
「うっざい!」
持っていた短剣で、ミコトに絡まっていた蔓を素早く切り落としたマコトは、片手で手早く棍を取り出した。短剣を口にくわえて、がちゃんと連結させる。だが、それが姿の見えない悪霊にとって、最大の好機となってしまった。
「ぶっ!?」
突然木の上から振り下ろされた太めの蔓に横っ面を叩かれて、眼鏡を泉の方へ吹っ飛ばしたマコトが倒れ込む。ミコトとイーエンが悲鳴混じりに彼女の名を呼んだが、すぐにそれも悲鳴だけとなった。
「ミコト、しょうがないからアレ使え。グスタフんとこで練習もしてんだろっ」
アレ、というのは霊力を使った火の精霊術のことだ。代名詞でミコトに指示をしたのは、この光景を見て居るであろう悪霊に手の内を明かさないためである。マコトの言葉で察したミコトは、泣きそうな表情を浮かべて首を振った。
「そ、そうだけど、私たちまで巻き込まれちゃったら!」
「最悪そこの泉に飛び込めばいい、ほら口塞がれる前に!」
側頭部を押さえながら、表情を歪めて叫ぶマコトに、ミコトはほとんど全身を蔓に拘束されながら叫んだ。
「火よ目標を焦がせ!」
ミコトが詠唱を放った瞬間、腰に下げられていた本の水晶が赤く煌めいた。
詠唱が必要なのは、魔力を使うのも霊力を使うのも変わらない。ただ、少しばかり回路が違うだけだ。
風を発生させるために魔力変換を意識していたミコトの中の回路が、『火』という言霊に反応して霊力変換へと移行する。ぐるりと体内でうごめいた力の規模の大きさに、ミコトはハッと息を呑んだ。すぐさま、弟子となった直後に叩き込まれたグスタフの言葉を思い出す。
『魔術を使うときも、精霊術を使うときも、人ならざる力を扱うときには常に平静であれ』
勝手に動く蔓が怖くて、マコトが吹っ飛ばされたことが怖くて、怖くて、仕方がなくて。ミコトは普段操っている力の、数倍もの霊力を変換してしまっていた。
本の水晶は、焼けた鉄のように赤い輝きを放っている。これはまずい。本能がそう告げていた。
「駄目、全部は駄目ぇっ!」
あっという間に体外へ放出され、精霊の力で具現化されていく炎の波。それはミコトを中心として、近くにいたイーエンやマコトの姿をも呑み込んだ。