三センチ
昭和の面影を引きずる老朽化した中廊下型アパートに住む者なら、共用廊下に脱ぎ捨てられた薄汚れた靴など、見慣れた日常の光景だと知っている。
だが、向かいの部屋の前に置かれた、黒泥まみれの安全靴——キャメル色の起毛革、26.5センチの無骨な一足——その佇まいは、あまりにも異常だった。
毎朝ドアを開けるたび、その靴先は402号室の敷居の隙間を真正面に見据え、きっかり三センチずつ前進しているのだ。
二つの部屋を隔てる廊下の幅は、わずか一メートル四十センチしかない。
志水葵は、都市土木の製図技術員である。
彼女は冷たいコンクリートの上に膝をつき、スチール製コンベックスの金属テープを引き伸ばして、二十七日間にわたり測り続けていた。
八十一センチ。一ミリの狂いもない。
今朝、目盛りは限界に達した。
靴先がドアの隙間を完全に塞ぎ、圧殺するまで、残すところあと三センチ。
葵はメジャーを当て、自らの命日を測っていたのだ。
今夜、奴がドアを破る。
### 第一章 目盛り
金属の爪を敷居の外縁に引っ掛ける。
冷間圧延鋼の薄いテープが、研ぎ出しの人造大理石の床を這うように引き出される。
読み取り値は、三センチ。
昨日の同じ時刻は、六センチだった。
二十四時間で、三センチの変位。
葵はコンクリートの床に跪いていた。
パジャマの背中は、冷たい汗でべったりと張り付いている。
カビの臭気が淀むこの雑居アパートで、この巻き尺だけが、彼女の正気を繋ぎ止める唯一の拠り所だった。
測るのをやめれば、胸の内に押し込めた恐慌が一瞬で破裂してしまう。
三センチ。
テープは引き切られた。
向かいに住む、機械油の悪臭を染み付かせたあの男は、あと一歩で彼女の敷居に足を乗せる。
今夜で、二十七夜目を迎える。
靴先が鉄扉の底の隙間に接触した瞬間、奴は実力行使に出るはずだ。
部屋の薄鉄板のドアは、まるで紙のように頼りない。
枠はとっくに錆び果て、固定ボルトは半分抜けかかっている。
体重百キロを超えるあの巨漢が二度体当たりを食らわせれば、枠ごと吹き飛ぶだろう。
カチリ、とストッパーを押し込む。
金属テープがパチンと鋭い音を立ててケースの中へ巻き取られた。
背手でドアを引き戻す。
鍵を右へ三回いっぱいに回すと、シリンダーが重苦しい金属音を立てて噛み合った。
右目をドアスコープに寄せる。
向かいの401号室のドアが、指二本分の隙間を残して開いていた。
闇の奥で、赤黒い火種が微かに燻っている。黒岩周作がドアの裏でしゃがみ込み、煙草を吸っているのだ。
その隙間から、黄色く濁った両の眼が、レンズ越しにこちらを射抜いていた。
葵の両膝が、激しく震え出す。
玄関の内側には、黄ばんだ一枚の用紙が貼り付けられていた。
格子状に引かれた、きっかり二十八個の四角い枠。
1番から27番までの枠は、赤のボールペンで幾重にも塗り潰されていた。紙を突き破り、裏の鉄板に硬い突起がびっしり浮き出るほどの力任せな筆圧で。
ただ一つ、28番の枠だけが、黄ばんだ地のまま空白を残している。
刻み込まれた二十七個の円。
それは、どこへも逃げ場のない二十七日間の記録だった。
ガチャリ、とドアノブが不意に一センチほど押し下げられた。
二秒の静止。
シリンダーの深部から、針金が真鍮のピンを擦る微かな金属音が忍び寄る。
葵は両手で口を塞いだ。
外の気配が止まる。
細い針金が、鍵穴の奥からゆっくりと引き抜かれていった。
### 第二章 遺恨
災いの発端は、二ヶ月前の豪雨だった。
アパートの老朽化した下水本管が完全に閉塞し、悪臭を放つ黒濁水が排水口から逆流して玄関を呑み込んだ。
床に積んであった葵の製図三束が、完全に泥水に浸かった。
県道バイパス高架橋・K4工区(K4+120杭)の排水勾配設計図。
照査・署名欄には「志水葵」の署名があり、「2023年3月20日」の朱印が捺されていた。
インクは滲み、幾夜もの徹夜で弾き出した計算データは、ただのふやけた紙屑へと成り果てた。
そこへ、黒岩がドアを叩いたのだ。
手には錆びついたワイヤー式の通水工具を提げていた。
黒岩はいきなり八万円もの作業料を要求してきた。
濁った黄色い眼球が、葵の薄手の部屋着を舐め回すように上下し、服を剥ぎ取るような視線を走らせると、わずかに開いた寝室の隙間へと卑屈に突き刺さった。
葵は金を払わなかった。
共用配管の維持管理は行政の管轄であり、個人が不当に金を要求するのは恐喝に他ならない。
この荒廃したアパートにおいて、公的な規約こそが、彼女に残された最後の防壁だった。
黒岩はドアの下枠に向かって、カーッと黄色い痰を吐き捨てた。
「金出さねえなら、お前んちの元栓を溶接して埋め殺してやるよ。一生、俺の足洗った残り湯でも飲んでろ」
葵は通路で怒鳴り返すような真似はしなかった。
脂ぎった筋肉に覆われた無頼漢に、理屈など通じない。
彼女はその日の午後、実名での告発書を作成し、三通の水質検査結果を添付して都市整備局へ提出した。
黒岩が深夜、配管の元栓を不正に開放し、ヤミメッキ工場の強酸性工業廃液を不法投棄している事実を通報したのだ。
書類は受理され、警察の保安係が内偵捜査に入った。
だが、組織を跨ぐ捜査は秘密裏に進められ、裏付けの採取には時間を要する。
葵は部屋で結果を待った。
問い合わせても、返ってくるのは決まって「規定の手続きに従い調査中」という事務的な回答だけだった。
役所の鈍重な歯車が緩慢に回転するあいだ、その空白の時間が、彼女を無防備なまま死地へと晒し続けていた。
黒岩の耳に、風の噂が入った。
「一人暮らしならよ、夜中目ぇ覚めたとき気をつけな。その安ドア、紙みてえにペラペラだからよ。夜中に男が乗っかってたとしても、いくら喚こうが、近所連中は盛りのついた女が喘いでるくらいにしか思わねえぞ」
夜、現場から戻った黒岩の手には、縁の欠けたポリバケツがあった。
下水溝から掬い上げたヘドロを、ドア一面にぶちまける。
鼻をすすり、覗き穴へ直接黄色い痰を吐きつける。
半歩下がり、鉄芯入りの安全靴で思い切り蹴り上げる。
薄い鉄板に三つの深い窪みが穿たれ、剥がれた塗装が床に飛び散った。
そんな嫌がらせが半月以上続いた。
毎日、汚物を撒かれ、ドアを蹴られる。
ドアの泥は乾いてはまた濡らされ、足跡の上に足跡が重なっていく。
だが、この棟の住人は誰一人として、ドアを開けて覗こうともしなかった。
そして一ヶ月前、通路から物音が消えた。それはドアを壊されるよりも不気味な沈黙だった。
向かいの玄関先に、あの26.5センチの黄色いスエード安全靴が置かれるようになったのだ。
靴先は、毎日彼女の敷居に向かって三センチずつ這い寄ってくる。
黒岩はもうドアを蹴らず、汚物も撒かない。
奴は、葵の喉元に足をかけ、ミリ単位で踏み潰そうとしていた。
### 第三章 秘薬
金曜の午後、葵は半休を取った。
空は鉛色に淀んでいる。
彼女は市立精神保健センターの二階診察室の椅子に沈み込んでいた。
主治医の神谷明がカルテを繰る。
「志水さん、ドアの外の靴の幻覚に、まだ悩まされているのですか?」
葵は木製の椅子の上で身を縮こまらせた。
「今朝の時点で、あと三センチでした。明日にはドアに届きます。今夜、奴は間違いなく破って入ってきます」
神谷は静かに溜息をつき、万年筆の尻で机をコツコツと叩いた。
「志水さん、物理的な物体が勝手に移動することはありません。長期間の不眠による重度の急性ストレス状態で、光と影の移ろいを脅威だと誤認しているのですよ」
葵の声は掠れていた。
「コンベックスで二十七日間、毎日測り続けたんです。三センチずつ。メジャーは嘘をつきません」
神谷はそれ以上反論せず、引き出しからホチキス留めされた書類を取り出した。
「これは、林暁子さんが弁護士に依頼して作成した任意後見契約の公正証書原案です。設計研究所の方からはすでに休職通知が出ています。今のあなたの状態では製図の職務は不可能です」
書類が葵の前に差し出される。
「林さんはあなたの第一順位の後見人にあたる。サインをすれば、彼女が後見人としてあなたの生活管理口座を預かり、閉鎖病棟での療養費を毎月そこから支払うことになります」
表紙には林暁子の端正な署名があった。
その名を見つめる葵の指関節が、白く強張る。
彼女の名義には、市の上水・下水配管に関する三件の特許があり、年間のライセンス料は四千万円を超える。
数え切れない徹夜の果てに数式を積み上げて勝ち取った成果だ。
外の男は扉を叩き壊そうとし、身内の知人は彼女から正気と権利を奪い取ろうとしている。
四方から包囲される絶望が、背骨を這い上がってきた。
誰も彼も、自分を狂人だと決めつけている。
葵の焦点が定まらなくなる。
「……薬は?」
神谷はスチール棚から一箱の薬を取り出した。
オランザピン錠。銀色のアルミ包装で密封されている。
「毎晩、就寝前に一錠。必ず時間を守って服用してください」
葵は薬箱をひったくるようにバッグの底へねじ込み、病院の門を飛び出した。
——これは薬などではない。周到に用意された麻酔薬だ。
神谷が病院で薬を渡し、背後で暁子が契約への署名を迫り、外では黒岩がバール片手に命を脅かす。
秒針の狂いもない連動。
こんな錠剤を飲み込めば、思考は麻痺し、手足は泥のように脱力してしまう。
昏睡して倒れている隙に、黒岩が押し入り、ベッドの上で自分を圧殺すれば——特許使用料は、後見人の懐へと綺麗に転がり込む筋書きだ。
彼らは、共犯者である黒岩のために、獲物を眠らせる麻酔まで用意してくれたというわけだ。
彼女は足早に街角の公衆便所へ滑り込んだ。
個室の木製のかんぬきを差し、震える手でプラスチックフィルムを引き裂く。
淡黄色の錠剤が掌へバラバラとこぼれ落ちた。
便器の底へすべてぶち撒け、洗浄レバーを力任せに押し下げる。
個室を出て、手洗い場の鏡に目をやると、土気色に変色した葵の顔が映っていた。
鏡の右隅に、誰が書いたのか、赤い油性ペンで三つの数字が走り書きされていた。
——「0.03」。
葵は弾かれたように振り返った。
薄暗い通路には誰もいない。蛇口からポタリ、ポタリと水が滴り落ちる音だけが響いていた。
### 第四章 齟齬
午後五時、日は完全に落ちた。
階段のコンクリートを、ハイヒールが踏みしめる音が響いてくる。
コツ、コツ、コツ。
葵はドアの背後に張り付き、息を止めた。
二十一秒。
階下の鉄扉が閉まってから、ハイヒールが四階のドア前で止まるまで、正確に二十一秒。
ドアがドンドンと二度、強く叩かれた。
「葵、私よ。早く開けて」
暁子だった。
葵がドアを引くと、暁子が身を滑り込ませて入ってきた。
閉まった瞬間、鍵を右へ三回、限界まで回す。
ドアチェーンを鉄の溝へ滑り込ませ、硬く掛け合わせた。
暁子はトレンチコートを脱いで古びたソファへ放り出した。
バッグから未開封のオランザピンを一箱取り出し、ガラステーブルへ叩きつける。
「神谷先生から電話があったわよ。午後の診察、全然検査を受けずに飛び出したんですってね」
暁子はコップに白湯を注ぎ、テーブルの上に広げられた図面と不動産権利証に視線を走らせた。
「葵、私の言うことを聞いて、管理委託の合意書にサインして。研究所の改編で長期休職者は整理される方針なの。数ヶ月療養施設に入って休みなさい。費用は私が何とかする。毎月の管理口座に私が振り込むから」
葵は部屋着の裾を両手で力任せに握りしめていた。
「……向かいの男、昨日の夜も鍵穴を弄ってた。日が暮れるとドアに耳を当てて中の様子を伺ってるの。手にはバールを持って、私を殺す気よ」
暁子は苛立たしげにカーテンを引き開けた。街灯の青白い光がリビングを冷たく照らし出す。
「いい加減、被害妄想はやめなさい!」
「向かいの住人はただの下水道清掃の現場作業員よ。昼間の重労働で疲れ果てて、夜は地響きのようなイビキをかいて寝てるわ! 誰が夜中にあんたのドアにへばりつくっていうのよ!」
暁子の声が甲高くひび割れる。
「毎日毎日、暗闇に閉じこもって、幽霊みたいな顔をして……あんたいつまで自分を痛めつければ気が済むのよ?!」
葵は全身を小刻みに震わせた。
頭の中で、錆びついたワイヤーがギリギリと締め上げられていくようだ。
なぜ、誰も信じない?
自分が狂っていないことを証明する、誰にも否定できない動かぬ事実を突きつけなければならない。
「先週の金曜、夜の九時十四分に、秀美からボイスメッセージが届いたわ」
葵は暁子を穴の開くほど見つめ返した。
「彼女、言ってたのよ。『第四ノードの逆勾配に〇・〇三メートルの誤差が出てる、修正した図面を送る』って」
「K4工区の開通式が終わったら、第二総合病院の向かいの店で温かい鍋をご馳走するって約束もした!」
部屋から、一切の物音が消え失せた。
暁子の手の中でコップが傾く。
溢れた温水がテーブルの書類を濡らし、合意書の朱肉を赤くにじませた。
暁子の瞳に、鳥肌が立つような恐怖の色が浮かび上がる。
「葵……あんた、何を言ってるの……?」
葵の声は狂気じみて急激に高まった。
「私たちは半月間徹夜で計算して、彼女は縦断勾配の変曲点まで調整してくれたのよ! 図面は私のパソコンに入ってる! 彼女が、いないはずがないじゃないの!!」
暁子はおずおずと、葵を刺激しないよう微かな声で、怯えながら呟いた。
「K4工区は……三年前にもう開通してるわよ」
「第二病院の向かいの古い商店街だって、一昨年に道路拡張で店ごと全部取り壊されたの」
「秀美は……三年前にもう、亡くなったのよ」
### 第五章 遺音
部屋が凍りついたように静まり返った。吹き抜ける隙間風が、窓ガラスをカタカタと震わせる。
葵の耳の奥で、激しい耳鳴りが渦を巻いていた。
荒唐無稽。徹頭徹尾、あり得ない虚言だ。
秀美が死んでいるなら、毎晩スマホで図面の照査をしている相手は一体誰だというのだ?
そんなはずはない。
暁子はあの合意書にサインをさせるため、自分を狂人に仕立て上げようと嘘を並べているに違いない。
葵はテーブルへ飛びつき、古いスマートフォンを引ったくった。
画面のロックを解除し、トーク一覧の最上部にピン留めされた「向日葵」のアイコンをタップする。
タイムラインには、細長い緑色の音声バーが横たわっていた。
送信時刻:『2023年3月17日 21:14』。
葵はスピーカーボタンを押し込んだ。
ノイズ交じりの音のあと、秀美の少しハスキーな声がスピーカーから流れ出した。
『葵、第四ノードの逆勾配、0.03メートルの誤差が出てるわ。これじゃ豪雨のときに排水が追いつかない』
『動水勾配を再計算して、CADデータを送り返しておいたから……』
『K4工区の開通式が無事に終わったらさ、二院の向かいの店で、ご飯奢るからね』
葵は画面を暁子の鼻先へ突きつけた。
「聞きなさいよ! これが秀美の声じゃないって言うの?!」
「図面も、音声もここにある! 暁子、あんた私の特許使用料を奪い取るために、死んだ人間の嘘まで吐く気なの?!」
暁子の震える指先が画面に触れ、上へと必死にスクロールした。
緑色のフキダシが、延々と、果てしなく続いている。
暁子の指先が空中で凍りついた。
「葵……これ……」
葵は画面を乱暴に奪い返し、コートの内ポケットへねじ込んだ。
後ずさりを三歩。唇を激しく震わせる。
「死人の名前を使って私を嵌めようたって、そうはいかないわよ」
暁子はその場に崩れ落ち、両手で顔を覆って泣き崩れた。
「葵……あの事故は、あんたのせいじゃない。誰もあんたを責めちゃいないのよ……」
「お願いだから一緒に病院へ行きましょう。今夜あんたを一人にしておくわけにはいかないのよ……」
葵は身を翻すと、製図板の上に置かれていた大型コンパスを掴み、暁子の顔面へ切っ先を突きつけた。
「出て行きなさい」
「あんたたちの企みなんて、全部お見通しよ」
葵の眼球は血走り、握りしめたコンパスの針は木の葉のように震えていた。
「年間の特許権使用料、基幹管網の三件のコアデータ」
歯を食いしばり、言葉を一粒ずつ吐き捨てる。
「神谷と結託して虚偽の診断書を書き、私に後見のサインを迫る。私を施設にぶち込めば、その金も特許も、全部あんたの自由になるものね」
葵の手首は硬直した鉄のように固まり、鋼の針先が微かに揺れる。
「私の特許を奪い、金を奪う気ね。……夢でも見てなさい」
暁子はその剥き出しの狂気と鋭利な刃先に顔面を蒼白にした。
這うようにして玄関へ後退りし、鉄扉を開けて外へと逃げ出した。
踊り場の床一面には、暗赤色の同心円が無数にチョークで殴り書きされていた。
暁子はその赤い輪を踏み荒らしながらパニック状態で階段を駆け下り、ハイヒールの足音が反響となって消えていった。
葵は歩み寄り、鉄の扉を閉ざした。
鍵を右へ三回、きつく回す。
ドアの外の黒岩。奴こそが、今夜立ち向かわねばならない唯一の現実だった。
階下の路上には、暁子の乗るフォルクスワーゲンが停まっていた。車内灯は消えている。
暁子は神谷医師に電話をかけたが、救急対応中なのか話中音が虚しく響くだけだった。
葵の錯乱が怖かった。あの目はもう人を識別できていない。凶器を手にし、近づく者を無差別に刺しかねない状態だ。
今夜、女手一つで力づくで連れ出すことなど不可能だった。
スマートフォンの冷たい光の中、検索履歴が浮かんでいる。
『古いアパートの隣人が粗暴な男の場合の防犯対策』
『女性の一人暮らし 屈強な男がいると見せかける方法』
ネットのスレッドには、「玄関先に特大サイズの重作業用安全靴を置いておくのが最も効果的だ」とあった。
暁子は即日配達アプリを開き、近所で唯一夜間営業している金物・作業用品の専門店を指定した。
画面のトップに並ぶ、工事現場用の最も売れている踏み抜き防止安全靴。
26.5センチ、黄色いハイカットのスエード起毛革、つま先には二ミリ厚の防護鋼板が仕込まれている。
暁子は最大サイズを選び、明朝七時ジャストの配達指定で注文を確定した。
フロントガラスを、雨粒がパラパラと叩き始めた。
### 第六章 暗影
小雨が降り注ぎ、アスファルトの路面がぬらぬらと油染みた光を跳ね返している。
葵はキャンバス地のトートバッグを肩にかけ、家路を急いでいた。中身はずっしりと重く、肩に食い込む。
背後から、一定の速度を保った足音がついてくる。
——ザッ、ザッ。
黒岩は作業ズボンのポケットに両手を突っ込んでいる。
分厚い生地を押し上げ、平たく硬いバールの輪郭が不気味に浮き出ていた。
葵は振り返らなかった。走ることもできない。
剥き出しの荒野において、「逃走」は捕食者の最も鋭敏なトリガーとなる。
獲物が全速力で逃げ出せば、追跡者の殺戮本能はあらゆる迷いを凌駕して一瞬で爆発するのだ。
歩幅を殺し、無理やりにでも等間隔で足を前へ運ばせる。
コートのポケット深く、右手は高圧催涙スプレーのグリップを固く握り締め、親指をセーフティレバーに添えていた。
路地を曲がるまで、あと百歩。
階段に取り付くまで、あと六十歩。
葵の耳朶を打つのは、早鐘のように乱れる自らの心音だけだった。
前方に口を開けるアパートの薄暗い入り口は、底知れぬ黒い井戸のようだったが、そこが彼女の唯一の退路だった。
エントランスへ滑り込む。
鉄の扉が冷たい夜風に揺れ、軋んだ悲鳴を上げる。
背後の足音は、躊躇することなく敷居を跨いできた。
黒岩は一段ずつ、コンクリートの階段を踏みしめ昇ってくる。
踊り場を曲がったところで、葵は四階の配電盤の下の濃い闇へと身を潜めた。
黒岩の巨体が四階のフロアに現れ、壁の音声反応スイッチを手探りしようと腕を伸ばす。
その暗がりから、葵が猛然と一歩を踏み出した。
階段の段差により、彼女の頭の位置が黒岩より半頭分高い。
不意に闇から現れた人影に、黒岩は息を呑み、巨躯をぐらつかせた。
「……最後の三センチよ」
葵は押し殺した声で告げた。
「今夜、私をやる気ね?」
黒岩は足を踏ん張ると、口からむっとする酸鼻な悪臭を吐き散らした。
「小賢しい学をつけやがって、腹の中は腐ったヘドロだらけじゃねえか!」
「ゴミみてえな書類をあちこちにタレ込みやがってよ! 役所が毎日嗅ぎ回って、俺の飯のタネを潰しやがったな!」
黒岩は鼻をすすると、手首で手すりのコンクリートを擦った。
懐からバールを引き抜き、二人の間のステップの縁を力任せに叩きつけた。
コンクリートが砕けて白い傷が走り、破片が葵の靴へ弾け飛ぶ。
葵の右手が、電光石火でポケットから跳ね上がった。
超高濃度カプサイシン液が、一直線に噴射される。
黒岩の眼窩と鼻梁を、真正面から叩き潰すように直撃した。
男が獣のような絶叫を上げた。
ガラン、と甲高い音を立ててバールが階段を転がり落ちる。
葵は身を翻して鍵を差し込み、自室へ倒れ込むと、内側から力任せに鍵を掛けた。
外からすぐに体当たりの音は聞こえてこなかった。
強烈な刺激臭がドアの隙間から這い込み、男の喉の奥から絞り出される窒息寸前の喘ぎと、激しい嘔吐の音が響いている。
黒岩はコンクリートの床の上をもがきながら足を滑らせ、向かいの401号室の鉄扉を乱暴に開け放ち、そのまま叩きつけるように閉めた。
通路の気配が途絶える。
隣の排水管が激しく振動を始めた。
水道の蛇口が全開に捻られ、男の激しい咽びと激痛の呻き声が壁を伝わってくる。
眼瞼の激しい痙攣は、どれほど早くとも一時間は収まらない。
油性カプサイシンを洗い流し、流し台にしがみついて灼熱の激痛をやり過ごす時間が必要なのだ。
その残された時間は、隣の部屋で奴が胃袋へ強い酒を流し込み、殺意を極限まで研ぎ澄ますのに十分な猶予でもあった。
葵はドアの背後にうずくまり、静まり返った室内で、自らの歯がガチガチと鳴る音をただ聞いていた。
窓の外では、土砂降りの雨が天を裂いて落ちてきた。
### 第七章 断崖
夜が澱む。
深夜一時、豪雨は激しさを極めていた。
狂乱の雨足が窓ガラスを鞭打つ。
老朽化したアパートの住人たちはみな雨戸を固く閉ざし、灯りの消えた部屋は死角と化している。
葵は玄関の端の暗がりに身を縮め、乾いたコンクリートの上に素足を置いていた。
向かいの401号室のドアが、バァンと弾け飛ぶように開いた。
黒岩の濁った荒い呼吸が、廊下を渡ってくる。
人造大理石の床の上を、引きずられるバールが耳障りな金属の悲鳴を響かせる。
402号室のドアの前で、足音が半秒だけ途絶えた。
黒岩は三歩後退した。
そして、発狂した野牛のように、全身の質量を預けてドアへと突進した!
——ズドォォン!!
ただ一つの脆弱な簡易ラッチは、瞬時に弾け飛んだ。
突風と豪雨が、室内に唸りを上げて雪崩れ込んでくる。
「殺してやるッ!!」
黒岩はバールを握りしめ、敷居を跨いで部屋の中へと躍り出た。
猛烈なアルコール臭と汗の酸臭が吹き抜ける。
手にした鉄の凶器が、突進の勢いのまま脳天を目掛けて振り下ろされた。
壁際に追い詰められた葵には、もう逃げ場など残されていなかった。
### 第八章 現場
豪雨がガラスを打ち据え、通路の汚泥の臭いをリビングへと撒き散らしていた。
黒岩は、崩れ落ちた粗悪な煉瓦壁のように、研ぎ出しの床の上に仰向けに転がっていた。
葵はキャビネットの陰に蹲り、両膝を打ち合わせながら痙攣のように震え続けている。
彼女は四つん這いになり、床を這ってローテーブルへ縋り付いた。
固定電話の受話器を鷲掴みにする。
三度指を滑らせ、ようやく最初の「1」を押し込んだ。
受話器の向こうから、通信指令室のオペレーターの声が響く。
『はい、こちら警察本部・事件事故係です——』
葵は受話器を握り潰さんばかりに絶叫した。
「助けて……ドアが破られた……!」
「人が……血が、一面に……!」
赤と青のストロボライトが雨幕を切り裂く。
刑事課強行犯係の警部・陣内健三が拳銃を抜き、玄関へ踏み込んだ。強力なフラッシュライトの光束がリビングの闇を切り裂く。
「警察だ! 動くな!」
光の柱が玄関の床を走る。
人造大理石の上は、凄惨な有様だった。
極薄の油膜に沿って赤黒い血だまりが五十センチ四方に広がり、傍らにはバールが転がっている。
黒岩は血の海に倒れ伏し、その胸の上下は今にも途絶えそうだった。
ライトの光が、事務机の真下を捉えた。
葵は膝の間に頭を深く埋め、喉の奥から小さな嗚咽を漏らしていた。
救急隊員が折りたたみ担架を抱えて四階へ駆け上がってくる。
止血綿が黒岩の後頭部へ押し当てられ、二分も経たぬうちに男は階下へと搬送されていった。
陣内は敷居の前にしゃがみ込んだ。
白手袋をはめた人差し指で床の透明な液体を拭い、指先を擦り合わせる。
無色無臭。極めて滑らかで、粘度の高い工業用潤滑剤の感触だった。
陣内は振り返り、机の下の葵へ光を向けた。
「これは、どこから持ってきた?」
葵は顔を膝に押し当てたまま、激しく肩を上下させた。
声は涙に引き裂かれていた。
「……研究所から持ち帰った、配管用の防水実験サンプルです……」
「外でドアを叩き壊す音が聞こえて……怖くて、気が狂いそうで……」
「何かでドアを塞ごうとしたら……手が震えて、ポリタンクを敷居のところで引っくり返しちゃって……」
ドア枠の内側には、口が割れた白いプラスチック容器が転がっていた。
陣内はそれに一瞥をくれただけで、追及をやめた。
彼は立ち上がり、部下の刑事に規制線を張るよう指示を出した。
### 第九章 実況見分
翌朝午前十時。
市立総合医療センター、救急観察室。
当直の警官が、賃貸契約書の緊急連絡先に基づいて林暁子を呼び出していた。
廊下には二名の警察官が立ち、隣の手術室では黒岩の緊急開頭手術が続けられている。
葵は薄い白いシーツを肩から羽織り、点滴針を左手の甲に刺したままベッドの縁に腰掛けていた。
陣内は丸椅子を引き寄せて腰を下ろし、タブレット端末を起動した。
ディスプレイの青白い光が、彼の険しい顔を照らし出す。
「あのアパートには管理会社がないが、生活安全課が以前から配管の不法投棄を内偵していてね、四階の電気メーターボックスに超小型の隠しカメラを仕掛けていたんだ」
「昨日の夕方六時半、黒岩がお前をバールで脅した一部始終も、鮮明に記録されている」
「そして深夜一時、凶器を持ってドアを破壊し不法侵入した。現在進行形の不法侵害であることは明白だ。正当防衛の要件は揃っている」
陣内は身を乗り出し、葵をじっと見つめた。
「だがな、黒岩の後頭部は粉砕骨折だ。一命を取り留めるかどうかは五分五分だ」
陣内は画面をスワイプし、葵の眼前へ端末を突き出した。
画面の右上には白いタイムスタンプが点滅している。
【カメラ04 - 4階通路 - 2026-09-18 03:12:05】
映し出されたのは、幅一メートル四十センチの漆黒の通路。
402号室の鉄扉が細く開き、パジャマ姿の葵が身を滑らせて出てくる。
彼女は乾いた床の上に膝をついた。
右手に持った金属メジャーを虚空に引き伸ばし、左手のチョークで、何一つ存在しない、何もないコンクリートの床に向かって、ゆっくりと歪な円を描いていた。
録画が次々とスキップされていく。
【2026-09-17 03:11:58】
【2026-09-16 03:12:20】
通路には葵以外、影一つない。
陣内は顔を上げ、彼女の瞳を覗き込んだ。
「我々は昨夜から黒岩のここ数日の足取りを洗った。だが分かったのは、お前が連日連夜、真夜中にドアの前でこの奇行を繰り返していたという事実だけだ」
「志水さん。あんたは一体、メジャーで何を測っていたんだ?」
紙コップが葵の手の中で、メキメキと歪に潰れていく。
温水が縁から溢れ出し、指を濡らした。
葵は画面の、何もない空虚な床を凝視した。
呼吸が浅く、速くなり、歯の根がガチガチと音を立てて噛み合わなくなる。
「……くつ……」
「向かいの……黄色いスエードの安全靴よ……毎日、三センチずつ近づいてきてたの……」
陣内は無言でタブレットの画面を消灯した。
「床には何もなかった。向かいに靴など一足も置かれていなかったんだよ」
「昨日の午後四時、捜査本部が黒岩の口座を凍結し、逮捕状が出た」
「今朝、奴の日雇い先の闇鋳造所を家宅捜索した。経営者の供述によると、黒岩は二十万円の材料費を着服して逃亡中だったそうだ。経営者は界隈の路地に追手を放ち、見つけ次第両足をへし折ってやると息巻いていた。追い詰められ、逃げ場を失った黒岩は、酒を煽って自暴自棄になり、お前の部屋へ押し入ったんだよ」
葵の瞳は光を失い、口元が引き攣るように痙攣した。
「……嘘よ。絶対にあそこにあった。八十一センチ……一ミリの狂いもなく……」
### 第十章 逆痕
処置室のドアが乱暴に開け放たれた。
暁子がベッドへ駆け寄り、葵の冷え切った手の甲を固く握りしめた。
「葵! 無事だったのね……警察からドアが破壊されたって連絡が来て、私、生きた心地がしなかった……!」
葵はパイプベッドのヘッドボードに身を預け、虚空を見つめていた。
「あと三センチだったの」
「二十七日間、測り続けたのよ。昨日の夜、ちょうどドアの隙間に届いたの」
暁子の涙が白いシーツの上に染みを作っていく。
「全部私のせいよ」
「私が、あんたを信じてあげなかったから」
「毎日ドアを叩かれてるって、奴がいつか押し入ってくるって言ってたのに……発作を起こしてるだけだって決めつけて」
「もし昨日私が帰らなければ、あんたの言葉を信じていれば……あんな男に殺されかけることなんてなかったのに」
葵は白壁を無機質に見つめたまま呟いた。
「奴は一歩一歩、近づいてきた。狂い一つない時間刻みで」
暁子は喉を詰まらせ、途切れ途切れに叫んだ。
「時間を刻んでなんかいなかった! あんたが自分で自分を狂気に追い詰めたのよ!」
「三年前の豪雨は誰にも防げなかった! 秀美の事故は、単なる不幸なアクシデントだったの! 誰もあんたを責めてなんかいないのよ!!」
シーツの下で、葵の指先がピクリと微動した。
暁子は彼女の手首を死に物狂いで押さえつけた。
「お願いだから、私の頼みを聞いて。合意書にサインして、一緒に施設へ行きましょう……もう死んだ人間に囚われて、自分を痛めつけるのはやめて……!」
葵は瞼を下ろし、二度と口を開かなかった。
陣内は短く溜息をつき、暁子の肩に手を置いて、保護留置手続きの書類にサインするよう促した。
ドアの鍵がカチャリと閉まる。
二人の足音は、廊下の角を曲がり、遠ざかっていった。
部屋の空気が、完全に静止した。
葵はベッドの背もたれに体重を預けた。
頬の涙の跡はそのままに、両手の震えは、すでにピタリと止まっていた。
右手で、左手の甲の医療用テープを剥ぎ取る。
留置針を引き抜いた。穿刺孔から、プツリと一滴の血珠が滲み出る。
親指の腹で、その傷口を強烈に押し潰した。
手の甲を鋭い痛みが突き抜ける。
痛覚の奔流の中で、葵の脳髄は絶対零度まで冷却されていった。
被害者特有の混濁と怯えが、仮面が剥がれ落ちるようにその顔から消え去っていく。
生きた人間とは思えぬほど、平坦で冷徹な貌がそこにあった。
### 第十一章 盤面検証
時計の針を、暁子が部屋を去った直後へと巻き戻す。
葵は雨の中、外出した。
向かったのは設計研究所の旧棟の地下、かつての土質材料試験室。
守衛は受付のテレビを眺め、彼女の姿を認めると、窓さえ開けずに言った。
「デスクを片付けたら、セキュリティカードは門番所に置いといてくれ」
葵は答えず、薄暗いスロープを降りて地下へと潜った。
電灯の消えた地下室。
葵は埃を被った白いポリタンクを選び出し、重さを手にとった。
二リットル入り。ラベルには『350cSt』と印字されている。
タンクをトートバッグに収め、作業台の上に置かれたラチェットレンチに冷たい視線を投げた。
---
隣室の黒岩がカプサイシンで目を焼かれ、狂乱状態で水道水を浴びているその隙に、彼女はバッグを開いた。
部屋へ入るや否や、敷居の内側にジメチルシリコーンオイルを注ぎ、厚さ二ミリの油膜を敷き詰めたのだ。
動粘度350cSt。動摩擦係数は——理論上、限りなくゼロに近い。
彼女は玄関の突き当たり、無垢材のサイドボードの角に身を潜めた。天然の直角遮蔽物。
一メートルのバールなど、この狭小な空間では横に振り回すことすら叶わない。
彼女の足元は、油の届かない完全に乾燥したコンクリートだった。
彼女は鍵をあらかじめ逆方向に三回転回し、上下の防犯カンヌキを完全に解除していた。ドアチェーンは掛けず、風で開いてしまわない程度の、頼りない簡易ラッチ一つだけでドアを支えておいたのだ。
深夜一時ジャスト。黒岩がドアを蹴破り、室内へ雪崩れ込む。
右足が着地した瞬間、油膜を捉えた。摩擦力は一瞬で消失する。
前進する巨大な運動エネルギーは、黒岩の両足を前方の空中へと一気に跳ね上げた。
遠心力でバールが手からすっ飛び、後頭部が垂直の角度を保ったまま、研ぎ出しのコンクリート床へと叩きつけられた。
——ゴスッ!!
即座の昏倒、肉塊の沈黙。
主回路は設計通りに完結し、バックアップのレンチを振るう必要すら生じなかった。
葵は床の油を古着の部屋着に塗りたくり、髪を掻き乱して机の下へと潜り込んだ。
そして110番が繋がった瞬間、パニックを起こした狂女の絶叫へと完璧にスイッチしたのだ。
水道局の公共配管改修図面にサインをしたのは彼女自身だ。
電気メーターボックスの監視カメラの死角もアングルも、すべて熟知していた。
黒岩のような破滅型のゴロツキは、警察に通報したところで釈放後に報復に来るだけだ。
だが、室内で待ち伏せの罠を仕掛けたことが露見すれば、「正当防衛」の主張は粉砕され、計画的傷害致死に問われる。
——だからこそ、彼女は「狂人」を演じなければならなかった。
カメラの画角を計算し尽くし、レンズの前で「虚空をメジャーで測る」という狂気の儀式を演じ続けてみせたのだ。
映像記録は、疑う余地の破綻もない重度被害妄想症のカルテを築き上げた。
法理上、心神喪失状態にある重度精神障害者に、「精緻な予謀」を企てる責任能力など存在しない。
これは、ミクロン単位で計算された殺人だ。
だが裁判官の目には、敷居の滑り油は、極度の恐慌状態に陥った狂女が取り乱してこぼした事故としか映らない。
過剰防衛にすら問われない。
法の条文が弱者にのみ残した、完全なる免責の論理閉環。
彼女は計算し尽くされた力学的エネルギーで悪漢を葬り去り、精緻な法解釈をもって一切の容疑を洗い落とした。
葵は窓の外を見つめ、低く呟いた。
「障害は、排除した」
精神病院の鉄格子など、彼女を閉じ込めることはできない。
自分の図面に吸い付いて甘い汁を吸おうとするハイエナどもに、一銭たりとも渡すものか。
### 第十二章 終局
午後四時、雨は完全に上がっていた。
四階の通路には、黄色と黒の規制線が二本渡されていた。
暁子は救急科で転院の手続きを行っている。
当直の刑事が規則に従い、着替えと身分証を回収する葵に付き添って現場へと戻ってきた。
刑事は三階半の踊り場で足を止め、煙草に火をつけた。それ以上は上がってこない。
葵は古い花柄のトートバッグを手に提げ、飛び散った石灰の粉を踏み締めながら、一段ずつ階段を上った。
ドア枠の赤レンガには、大きな破損痕が二箇所、口を開けている。
彼女は真っ直ぐに玄関ドアの裏へ歩み寄り、ポケットからあの赤いボールペンを取り出した。
二十八個目の丸を描く時が来たのだ。
黒岩の脳損傷は深刻で、再起不能の重度の障害が残る。知能犯捜査の事件と合わせれば、奴の余生は檻の中で終わる。
外から自分を定義し、人生を管理しようとした者たちは、すべてこの血だまりの前に撃退された。
彼女の人生を、他人に代行させる筋合いなどない。
ロジックは完璧だ。いかなる地盤沈下による亀裂もない。
吹き抜ける風が、ドアの隙間から滑り込んできた。
ドアの裏に貼られた黄ばんだ紙が、パタパタと音を立てて波打つ。
上部を固定していた濃褐色のクラフトテープが湿気を吸い、硬化した端がめくれ上がった。
風に煽られ、ビリッ、と音を立ててテープが剥がれ落ちる。
隠されていた活字が、白日の下に晒された。
用紙の最上部には、明朝体の活字でこう印刷されていた。
**『重大工程品質安全事故に伴う停職調査通知書 兼 日次面談報告票(技術者控)』**
右下には、都市土木設計第二研究所技術委員会の朱肉の公印。
日付が、鮮明に刻まれていた。
——**2023年5月17日**。
### エピローグ:三センチ
2023年5月10日、豪雨。
県道バイパスK4工区の開通テープカットの当日、秀美の運転する車がバイパスへの進入路へとカーブを切った。
時速九十キロのタイヤが、路面中央に広がっていた深さ〇・〇三メートルの水たまりを捉えた。
それは、葵自身が照査し、署名捺印した工区だった。
縦断勾配に、千分の三の逆勾配が存在していたのだ。
路面湛水の許容誤差限界:〇・〇三メートル。ちょうど、三センチ。
厳しい工期、開通式を急がせる幹部連中。
三センチは許容される誤差の極限値であり、晴天時には肉眼で判別することなどできない。
2023年3月20日、葵は図面の末尾に署名した。
彼女は自らに言い聞かせたのだ。「たった三センチだ、何が起きるわけがない」と。
それは、彼女の全生涯において、たった一度きりの妥協だった。
豪雨の中、タイヤとアスファルトの間の摩擦力は一瞬で消失した(ハイドロプレーニング現象)。
車体はスピンしてガードレールを突き破り、波形防護柵の鋼鉄がコンパクトカーの胴体を串刺しにした。
運転席は無残な鉄屑へと圧壊した。
秀美は歪んだシートとステアリングの間に挟まれ、砕けたサイドウィンドウから、片腕を力なく垂らしていた。
葵が現場へ駆けつけた時、パトランプの赤い光が水たまりを血の色に染め上げていた。
膝まで泥水に浸かった一人の清掃作業員が、錆びたバールを握りしめ、潰れた運転席のドアを必死でこじ開けようとしていた。
作業員の足元には、無骨で分厚い、黄色いスエードのハイカット安全靴。サイズは26.5センチ。
鉄板入りのつま先が、車のボディに擦れて白い傷跡を刻んでいた。
清掃員は駆けつけた交通警察に向かって怒鳴り散らしていた。
「この道路は窪地になってやがんだ! 両脇の排水溝はカラカラなのに、真ん中に巨大な水たまりができてやがる!」
「こんなとこ突っ込んだらタイヤが浮いちまう! ラードでも塗ったみてえに滑って、神様だってブレーキ踏めねえよ!!」
葵はその場に、泥水の中へと崩れ落ちた。
一週間後の5月17日、合同事故調査委員会が設計第二研究所に乗り込んできた。
技術委員会は彼女の出図登録印を没収し、二十八日間に及ぶ日次面談点検票を下した。
一日一回の面談、用紙の枠を一つずつ埋めていく。
二十八日目の午後、最終責任認定書が正式に通達された。
重大な技術照査過失を認定、技術者資格の剥奪、基幹管網設計業務からの永久追放。停職降格処分、第一線の技術職を解かれ、資料室の雑用係へと左遷。
葵のすべての正気は、その判子が押された瞬間に、焼き切れたのだ。
この三年間、彼女は自らを後方支援の物置部屋のような自宅に閉じ込めていた。
毎晩、秀美が生前に送ってきた最後のボイスメッセージを再生し、修正したCADデータを、返信の来るはずもない宛先へ一方的に送信し続けていた。
部屋中のカレンダーを破り捨て、ただ一枚、あの調査報備票だけをドアの裏に貼り付けた。
二十八日ごとに、1番の枠から27番の枠まで丸を描き、28日目が訪れる直前に自らの記憶をリセットし、再び一日目へと巻き戻していたのだ。
ドアの外の黒岩など、単なる金に困った破滅寸前の男に過ぎなかった。
葵の首に絞首縄をかけ、一日一寸ずつ死期を数えさせていた真犯人は——三年前、あの図面にサインをした、自分自身だったのだ。
彼女自身こそが、永遠に赦されることのない罪人だった。
赤ペンでズタズタに突き破られたあの紙は、執行猶予の宣告書であり、彼女自身が築き上げた魂の牢獄だった。
テーブルの上、温水にふやけた合意書の文字が、日光を浴びて白く滲んでいた。
そこには三件の特許など存在せず、莫大な配当金など一行も書かれていなかった。
合意書の本文三ページ目には、こう記されていたのだ。
『被後見人・志水葵は、重度の心的外傷後ストレス障害(PTSD)により精神障害を負い、安定した経済的収入を持たない』
『受託人・林暁子は、自発的に全意向監護責任を引き受け、毎月個人の給与から四万五千円を拠出し、志水葵の抗精神病薬の処方および閉鎖病棟での療養費に充当するものとする』
暁子は、彼女の財産を奪おうなどと考えたことすら一度もなかった。
秀美が死んだあと、同僚たちが葵を疫病神のように忌避する中、暁子だけが毎週金曜日に四階まで階段を上り、光熱費を立て替え、カビの生えたシーツを洗濯し続けていたのだ。
暁子は自らのわずかな給料を削り、この腐敗した泥沼の中で、葵の代わりに贖罪を続けていたのだ。
規制線の外、コンクリートの踊り場の隅に、「城北金物・安全具卸」と印刷された分厚いビニール袋が、静かに横たわっていた。
朝七時に配達員が届けた際、当直の警官が中身を確認し、タグのついた新品の靴であるのを見て、階段の隅に置いておいたものだ。
口を開けた袋の中には、タグ紐のついたままの、真新しい26.5センチの黄色いスエード安全靴が収まっていた。
建設現場で最もありふれた、無骨な既製品。
箱の端には感熱紙のレシートが貼られ、注文時刻は昨夜の五時四十二分となっていた。
余白には、配達員が注文備考を代筆したボールペンの文字が残されていた。
『配達員様、明日の朝七時に402のドア前に置いてください。葵、ネットにね、玄関に男物のデカい靴を置いとくと男がいるフリができるって書いてあったの。向かいの乱暴者がまた騒いだら、ドアを開けてこの靴を外へ蹴り出しなさい。怖がらないで、明日の朝一番に様子を見に行くからね』
靴の革は硬く、黄金色に輝き、塵一つ付着していなかった。
敷居に工業用シリコーンを撒いたことを、彼女は天才的な防衛計画だと思い込んでいた。
だがそれは——三年前のあの豪雨の日の事故を、自らの手で忠実に再現しただけの儀式だったのだ。
吹き抜ける風が止んだ。
葵の指から力が抜けた。
赤のボールペンが、白い石灰の浮いた床板の上に落ち、コロン、コロンと音を立ててドアの隙間の下へと転がり込んでいった。
敷居の脇、袋の中で静かに佇む真新しい安全靴。白いプラスチックのタグが、コンクリートの上に垂れ下がっている。
葵は、ゆっくりと視線を落とした。
その黄色く硬い靴革の上へ——
三年前の、黒く乾いたあの泥が、じわり、じわりと滲み出し始めていた。
靴はついに、最後の三センチを踏み越え、
彼女の敷居の内側へと、深く足を踏み入れていた。
### エピローグ:三センチ
2023年5月10日、豪雨。
県道バイパスK4工区の開通テープカットの当日、秀美の運転する車がバイパスへの進入路へとカーブを切った。
時速九十キロのタイヤが、路面中央に広がっていた深さ〇・〇三メートルの水たまりを捉えた。
それは、葵自身が照査し、署名捺印した工区だった。
縦断勾配に、千分の三の逆勾配が存在していたのだ。
路面湛水の許容誤差限界:〇・〇三メートル。ちょうど、三センチ。
厳しい工期、開通式を急がせる幹部連中。
三センチは許容される誤差の極限値であり、晴天時には肉眼で判別することなどできない。
2023年3月20日、葵は図面の末尾に署名した。
彼女は自らに言い聞かせたのだ。「たった三センチだ、何が起きるわけがない」と。
それは、彼女の全生涯において、たった一度きりの妥協だった。
豪雨の中、タイヤとアスファルトの間の摩擦力は一瞬で消失した(ハイドロプレーニング現象)。
車体はスピンしてガードレールを突き破り、波形防護柵の鋼鉄がコンパクトカーの胴体を串刺しにした。
運転席は無残な鉄屑へと圧壊した。
秀美は歪んだシートとステアリングの間に挟まれ、砕けたサイドウィンドウから、片腕を力なく垂らしていた。
葵が現場へ駆けつけた時、パトランプの赤い光が水たまりを血の色に染め上げていた。
膝まで泥水に浸かった一人の清掃作業員が、錆びたバールを握りしめ、潰れた運転席のドアを必死でこじ開けようとしていた。
作業員の足元には、無骨で分厚い、黄色いスエードのハイカット安全靴。サイズは26.5センチ。
鉄板入りのつま先が、車のボディに擦れて白い傷跡を刻んでいた。
清掃員は駆けつけた交通警察に向かって怒鳴り散らしていた。
「この道路は窪地になってやがんだ! 両脇の排水溝はカラカラなのに、真ん中に巨大な水たまりができてやがる!」
「こんなとこ突っ込んだらタイヤが浮いちまう! ラードでも塗ったみてえに滑って、神様だってブレーキ踏めねえよ!!」
葵はその場に、泥水の中へと崩れ落ちた。
一週間後の5月17日、合同事故調査委員会が設計第二研究所に乗り込んできた。
技術委員会は彼女の出図登録印を没収し、二十八日間に及ぶ日次面談点検票を下した。
一日一回の面談、用紙の枠を一つずつ埋めていく。
二十八日目の午後、最終責任認定書が正式に通達された。
重大な技術照査過失を認定、技術者資格の剥奪、基幹管網設計業務からの永久追放。停職降格処分、第一線の技術職を解かれ、資料室の雑用係へと左遷。
葵のすべての正気は、その判子が押された瞬間に、焼き切れたのだ。
この三年間、彼女は自らを後方支援の物置部屋のような自宅に閉じ込めていた。
毎晩、秀美が生前に送ってきた最後のボイスメッセージを再生し、修正したCADデータを、返信の来るはずもない宛先へ一方的に送信し続けていた。
部屋中のカレンダーを破り捨て、ただ一枚、あの調査報備票だけをドアの裏に貼り付けた。
二十八日ごとに、1番の枠から27番の枠まで丸を描き、28日目が訪れる直前に自らの記憶をリセットし、再び一日目へと巻き戻していたのだ。
ドアの外の黒岩など、単なる金に困った破滅寸前の男に過ぎなかった。
葵の首に絞首縄をかけ、一日一寸ずつ死期を数えさせていた真犯人は——三年前、あの図面にサインをした、自分自身だったのだ。
彼女自身こそが、永遠に赦されることのない罪人だった。
赤ペンでズタズタに突き破られたあの紙は、執行猶予の宣告書であり、彼女自身が築き上げた魂の牢獄だった。
テーブルの上、温水にふやけた合意書の文字が、日光を浴びて白く滲んでいた。
そこには三件の特許など存在せず、莫大な配当金など一行も書かれていなかった。
合意書の本文三ページ目には、こう記されていたのだ。
『被後見人・志水葵は、重度の心的外傷後ストレス障害(PTSD)により精神障害を負い、安定した経済的収入を持たない』
『受託人・林暁子は、自発的に全意向監護責任を引き受け、毎月個人の給与から四万五千円を拠出し、志水葵の抗精神病薬の処方および閉鎖病棟での療養費に充当するものとする』
暁子は、彼女の財産を奪おうなどと考えたことすら一度もなかった。
秀美が死んだあと、同僚たちが葵を疫病神のように忌避する中、暁子だけが毎週金曜日に四階まで階段を上り、光熱費を立て替え、カビの生えたシーツを洗濯し続けていたのだ。
暁子は自らのわずかな給料を削り、この腐敗した泥沼の中で、葵の代わりに贖罪を続けていたのだ。
規制線の外、コンクリートの踊り場の隅に、「城北金物・安全具卸」と印刷された分厚いビニール袋が、静かに横たわっていた。
朝七時に配達員が届けた際、当直の警官が中身を確認し、タグのついた新品の靴であるのを見て、階段の隅に置いておいたものだ。
口を開けた袋の中には、タグ紐のついたままの、真新しい26.5センチの黄色いスエード安全靴が収まっていた。
建設現場で最もありふれた、無骨な既製品。
箱の端には感熱紙のレシートが貼られ、注文時刻は昨夜の五時四十二分となっていた。
余白には、配達員が注文備考を代筆したボールペンの文字が残されていた。
『配達員様、明日の朝七時に402のドア前に置いてください。葵、ネットにね、玄関に男物のデカい靴を置いとくと男がいるフリができるって書いてあったの。向かいの乱暴者がまた騒いだら、ドアを開けてこの靴を外へ蹴り出しなさい。怖がらないで、明日の朝一番に様子を見に行くからね』
靴の革は硬く、黄金色に輝き、塵一つ付着していなかった。
敷居に工業用シリコーンを撒いたことを、彼女は天才的な防衛計画だと思い込んでいた。
だがそれは——三年前のあの豪雨の日の事故を、自らの手で忠実に再現しただけの儀式だったのだ。
吹き抜ける風が止んだ。
葵の指から力が抜けた。
赤のボールペンが、白い石灰の浮いた床板の上に落ち、コロン、コロンと音を立ててドアの隙間の下へと転がり込んでいった。
敷居の脇、袋の中で静かに佇む真新しい安全靴。白いプラスチックのタグが、コンクリートの上に垂れ下がっている。
葵は、ゆっくりと視線を落とした。
その黄色く硬い靴革の上へ——
三年前の、黒く乾いたあの泥が、じわり、じわりと滲み出し始めていた。
靴はついに、最後の三センチを踏み越え、
彼女の敷居の内側へと、深く足を踏み入れていた。




