第9話「牛タンの塩焼き」
リオ・デ・ジャネイロは、踊る街だ。コルコバードのキリスト像が丘の上から街を見下ろし、コパカバーナの砂浜では昼も夜も人が動いている。ファヴェーラの丘と高層マンションが同じ景色の中に存在し、貧しさと豊かさが背中合わせで生きている。この街の人間は悲しいときも踊る。祝うときも踊る。諦めるときも、諦めないときも、踊りながら決める。サンバのリズムは、この街が二百年かけて作った言語だ。夜のラパ地区には、その言葉がまだ生きている。
気づいた時には、そこにある。昨日はなかった路地に、今夜は暖簾が出ている。提灯の灯りが、石畳をぼんやりと照らしていた。今夜の路地は、リオだった。
端の席に、ミアがいた。
今夜は牡蠣の土手鍋をつまみにしていた。鍋の縁に味噌が塗られ、牡蠣が煮えている。ビールを一口飲むたびに、小さく息をつく。
「今日もいい出来ですね」
「牡蠣が今夜は特に元気でした」
「牡蠣も元気になるんですか」
「海から来たばかりですから」
ミアはビールを一口飲んだ。
引き戸が開いたのは、八時頃だった。最初に入ってきたのは男だった。二十代。浅黒い肌、がっしりした体。マラソン選手特有の引き締まった脚をしていた。
男はカウンターに目が止まった。ミアの牡蠣の土手鍋を見た。
「それ、ください」
「売り切れです」
「なぜ」
「土手が今夜は決壊しそうで」
男は三秒、渉を見た。
「……土手が?」
「土手が」
ミアが口元を押さえた。
男が席に着いてビールを注文したころ、また引き戸が開いた。もう一人の男だった。二十代、日本人。同じくマラソン選手の体型をしていた。
男もカウンターに目が止まった。牡蠣の土手鍋を見た。
「それ、ください」
「売り切れです。土手が今夜は決壊しそうで」
男は三秒渉を見て、隣の男を見た。一人目も二人目を見た。
二人の目が止まった。
「……明日、走りますよね」と一人目が言った。
「走ります」と二人目が答えた。
二人は並んで座った。
「ビールです。明日レースがあるなら一杯だけにしておいた方がいいですよ」
渉は二人の前にグラスを置いた。二人は同時に一口飲んだ。
―――
「牡蠣の土手焼きです」
小皿に、味噌を纏った牡蠣が香ばしく焼かれていた。磯の香りと味噌の甘みが混ざって漂っている。
一人目の男が一口食べた。
——旨い。
牡蠣の濃厚な旨みが広がって、味噌の甘みと絡む。磯の香りが後から来て、ビールが飲みたくなった。
二人目の男も食べた。目が細くなった。
一人目の男が顔を上げた。
「……牡蠣、ありますよね」
「そうですね」
「土手が決壊したんですか」
「焼いたら持ちこたえました」
ミアが声に出して笑った。二人目の男も笑った。
渉が小皿を置いた。
「柚子胡椒です。途中でつけてみてください。牡蠣の旨みが締まります」
二人はつけて食べた。柚子の清涼感が味噌の甘みを切って、牡蠣の旨みだけが残った。さっきと全然違う顔になった。
「なんで最初から——」
二人が同時に言いかけた。互いを見た。笑った。
―――
渉は牛タンを取り出した。
昨夜のうちに仕込んである。塩と胡椒だけ。余計なものは何も加えない。牛タンは素材で全てが決まる。下味を複雑にすると、素材の旨みが消える。
厚さが重要だ。薄すぎると食感がなくなる。厚すぎると火が通らない。この厚さが正解だと分かるまで、十年かかった。
炭火で焼く。強火で、素早く。表面を焼き固めて、中の肉汁を閉じ込める。青唐辛子の醤油を添える。辛さではなく、清涼感のために。
二人分、同じ皿に盛る。
「牛タンの塩焼きです。青唐辛子の醤油でどうぞ」
厚切りの牛タンが皿に並んでいた。炭火の香りが漂っていた。
一人目の男が箸を取り、一口食べた。
——来た。
しっかりした食感の後、牛タンの旨みが溢れた。塩が旨みを引き出して、炭火の香りが広がる。青唐辛子の醤油が清涼感を添えて、また食べたくなった。口の中で、噛むたびに別の味が顔を出す。
ビールを一口飲んだ。牛タンの旨みと炭酸が絡んで、また食べたくなった。
二人は黙って食べ続けた。しばらくして、二人目の男が言った。
「……走るのをやめようと思っていました」
「そうですか」
「三年、結果が出なくて。明日が最後のつもりで来ました」
一人目の男が箸を止めた。
「私もです」
二人目の男が一人目を見た。
「あなたも?」
「五年です。明日、最後にしようと思っていた」
渉はしばらく黙っていた。
「牛タンも、厚さが分かるまで十年かかりました」
二人は黙った。それから互いを見た。
「飯、冷めますよ」
二人は同時に箸を取り直した。
渉が小皿を置いた。
「レモンです。途中でかけてみてください。タンの旨みが際立ちます」
二人は同時にかけた。食べた。
——からし一つでここまで変わるのか。
レモンの酸が塩の角を丸めて、牛タンの純粋な旨みだけが前に出た。また別の顔を見せた。
「……また教えてくれなかった」
二人が同時に言った。また笑った。
皿が空になった。二人とも、箸を持ったまましばらく離せなかった。
「おいくらですか」
「三千円ずつです」
二人は財布を出した。
「旨かったです」
「ありがとうございます。いいレースを」
二人は並んで引き戸を出た。閉まる直前、外から声が聞こえた。
「明日、負けませんよ」
「私もです」
閉まった。ミアがビールを一口飲んだ。
「いいですね」
「そうですね」
「気にならないんですか」
「明日が楽しみです」
ミアは少し考えてから、グラスを置いた。
「もう一杯いいですか」
「どうぞ」
―――
翌日の朝。渉は仕込みをしながらテレビをつけた。
「リオ国際マラソン、男子の部は日本のケンジ・ナカムラ選手が優勝、ブラジルのカルロス・シルバ選手が二位でゴールしました。レース後のインタビューでナカムラ選手はこう語りました——『昨夜、ある店で勇気をもらいました。店の名前は……地図にない店、です』」
画面の中に、昨夜の二人が並んでいた。汗だくで、肩で息をしていた。それでも二人とも、清々しく笑っていた。
渉はテレビを一瞥して、出汁を火にかけた。
「まあ」
包丁を握った。
「仕込むか」




