第8話「豚バラの角煮」
香港は、垂直の街だ。百万ドルの夜景と呼ばれる摩天楼の光が海に映え、その足元では九龍の路地に屋台が並ぶ。英国植民地だった百五十年の歴史が、広東文化と西洋文化を奇妙に混ぜ合わせた。廟街の夜市では、占い師が客を待ち、広東オペラの声が路地に流れる。ビジネスと伝統と欲望が、この街ではすべて同じ速さで動いている。夜になっても誰も急がない。ただ、止まらない。ネオンの看板に照らされた路地に、暖簾が一枚出ていた。
気づいた時には、そこにある。昨日はなかった路地に、今夜は暖簾が出ている。提灯の灯りが、石畳をぼんやりと照らしていた。今夜の路地は、香港だった。
端の席に、ミアがいた。
今夜はなまこの酢の物をつまみにしていた。コリコリとした食感のなまこが、酢で和えられている。ビールを一口飲むたびに、小さく息をつく。
「今日もいい出来ですね」
「なまこが今夜は特に素直でした」
「なまこも素直になるんですか」
「酢に飛び込む勇気が出たんでしょう」
ミアはビールを一口飲んだ。
引き戸が開いたのは、九時頃だった。最初に入ってきたのは女だった。三十代。黒いジャケット、切れ長の目。静かな歩き方をしていた。
女はカウンターに目が止まった。ミアのなまこの酢の物を見た。
「それ、ください」
「売り切れです」
「なぜ」
「なまこが今夜は酢に飛び込む勇気がなくて」
女は三秒、渉を見た。
「……そうですか」
ミアが口元を押さえた。
女が席に着いてビールを注文したころ、また引き戸が開いた。四十代の男だった。大柄、短髪。目が鋭い。
男もカウンターに目が止まった。なまこの酢の物を見た。
「それ、ください」
「売り切れです。なまこが今夜は酢に飛び込む勇気がなくて」
男は三秒渉を見て、隣の女を見た。女も男を見た。一瞬、二人の目が止まった。それからほぼ同時に、前を向いた。
「ビールをください」
男は女の隣に座った。二人は互いに何も言わなかった。
ミアは何も言わなかった。ビールを一口飲んだだけだった。
―――
「なまこの柔らか煮です」
小皿に、なまこが淡いタレで煮られていた。ごま油が香っている。
女が一口食べた。
——旨い。
コリコリとした食感の後に、なまこの旨みが出てくる。タレの甘みとごま油の香りが絡んで、ビールが飲みたくなった。
男も食べた。目が細くなった。
女が顔を上げた。
「……なまこ、ありますよね」
「そうですね」
「勇気が出たんですか」
「煮たら出ました」
ミアが声に出して笑った。男も、思わず笑った。
渉が小皿を置いた。
「山椒です。途中でかけてみてください。旨みが締まります」
二人は同時にかけた。食べた。山椒の清涼感がごま油の重みを切って、なまこの旨みだけが残った。さっきと全然違う顔になった。
「なんで最初から——」
二人が同時に言いかけた。互いを見た。少し、警戒が溶けた。
―――
渉は豚バラを取り出した。
三時間煮込んである。醤油、酒、味醂、砂糖。隠し味に紹興酒を少量。深みが出る。豚バラは時間が全てだ。急いで煮れば硬い。ゆっくり煮れば、箸でほろりと崩れる。
脂の甘みを残す。脂を全部落とすと、豚バラじゃなくなる。どこまで落として、どこまで残すか。そのバランスが全てだ。
二人分、同じ器に盛る。辛子を添える。
「豚バラの角煮です。辛子はお好みで」
艶やかな豚バラが、タレに包まれて並んでいた。
女が箸を取り、一口食べた。
——来た。
箸でほろりと崩れた。脂の甘みと醤油の旨みが広がって、紹興酒の深みが後から来る。口の中で、噛むたびに別の味が顔を出す。ビールを一口飲んだ。豚の旨みと炭酸が絡んで、また食べたくなった。
二人は黙って食べ続けた。しばらくして、男が言った。
「……あなたの会社、A社ですよね」
女は箸を止めなかった。
「そうですね」
「うちの会社と、訴訟中です」
「知っています」
長い沈黙があった。
「なぜここに」
「迷い込みました」
「私もです」
また沈黙があった。二人は黙って食べ続けた。
渉が小皿を置いた。
「からしです。タレに少し溶いてみてください。脂の甘さが際立ちます」
二人は同時にした。食べた。
——からし一つでここまで変わるのか。
からしの鋭さが脂を切って、豚の旨みだけが前に出た。また別の顔を見せた。
「……また教えてくれなかった」
二人が同時に言った。また笑った。
皿が空になった。二人とも、箸を持ったまましばらく離せなかった。
女がスマホを取り出した。何かを打ち始めた。男もスマホを取り出した。二人は互いの画面を見せ合った。渉は片付けをしながら、それを見なかった。
「おいくらですか」
「三千円ずつです」
二人は財布を出した。
「旨かったです」
「ありがとうございます」
二人は並んで引き戸を出た。閉まった。
ミアがビールを一口飲んだ。
「訴訟中なのに仲良くなりましたね」
「同じ飯を食いましたから」
「それだけですか」
「それだけです」
ミアは少し考えてから、グラスを置いた。
「もう一杯いいですか」
「どうぞ」
―――
翌日の朝。渉は仕込みをしながらテレビをつけた。
「香港の大手IT企業グループ内で大規模な不正会計が発覚しました。内部告発者は二社の幹部とみられており——」
渉はテレビを一瞥して、出汁を火にかけた。
「まあ」
包丁を握った。
「仕込むか」




