第7話「白子の茶碗蒸し」
ジュネーブは、静かな街だ。レマン湖の水面が空を映し、旧市街の石畳が夜露に濡れる。人口二十万に満たないこの街に、国連をはじめ数百の国際機関が集まっている。世界の紛争が交渉のテーブルに乗せられ、条約が結ばれ、歴史が動く。街の人間は穏やかで、声を荒げない。だが静けさの奥には、巨大な緊張が潜んでいる。この街では、晩餐のあとの言葉一つで戦争が始まることも、終わることもある。夜のジュネーブは、世界でいちばん重い沈黙を抱えている。
気づいた時には、そこにある。昨日はなかった路地に、今夜は暖簾が出ている。提灯の灯りが、石畳をぼんやりと照らしていた。今夜の路地は、ジュネーブだった。
端の席に、ミアがいた。
今夜は豚耳の酢の物をつまみにしていた。コリコリとした食感の豚耳が酢で和えられ、ごま油が香っている。ビールを一口飲むたびに、小さく息をつく。
「今日もいい出来ですね」
「まあまあです」
「また謙遜する」
「豚耳が今夜は特に素直だったので」
ミアはビールを一口飲んだ。
引き戸が開いたのは、七時頃だった。最初に入ってきたのは男だった。五十代。がっしりした体格、地味なスーツ。護衛を連れていないのに、護衛がいそうな雰囲気だった。
男はカウンターに目が止まった。ミアの豚耳の酢の物を見た。
「それ、ください」
「売り切れです」
「理由は」
「豚が今夜は聞く耳持たなくて」
男は三秒、渉を見た。
「……そうか」
ミアが口元を押さえた。
男が席に着いて冷酒を注文したころ、また引き戸が開いた。もう一人の男だった。五十代。細身、眼鏡、穏やかな顔。しかし目だけが鋭かった。
男もカウンターに目が止まった。豚耳の酢の物を見た。
「それ、ください」
「売り切れです。豚が今夜は聞く耳持たなくて」
二人目の男は三秒渉を見て、それから隣の男を見た。一人目も二人目を見た。
長い沈黙があった。
「隣、よろしいですか」
「どうぞ」
二人は並んで座った。互いに何も言わなかった。ミアは黙ってビールを飲んだ。
「冷酒です」と渉は二人の前に同じ器を置いた。
二人は同時に一口飲んだ。
―――
「豚バラの角煮です」
小皿に、艶やかな豚バラが盛られていた。タレが光り、辛子が添えてある。
一人目の男が一口食べた。
——柔らかい。
箸でほろりと崩れた。脂の甘みが広がって、タレの醤油と味醂が絡む。冷酒を一口飲んだ。豚の旨みと酒の清涼感が絡んで、また食べたくなった。
二人目の男も食べた。目を閉じた。
「……旨いですね」
「そうですね」
初めて、二人が言葉を交わした。
一人目の男が渉を見た。
「……豚耳、ありますよね」
「そうですね」
「聞く耳持たないって言いましたよね」
「角煮にしたら聞いてくれました」
ミアが声に出して笑った。二人目の男も、思わず笑った。一人目は笑わなかったが、口元が緩んだ。
渉が小皿を置いた。
「辛子です。タレに少し溶いてみてください。脂の甘さが際立ちます」
二人は同時にした。食べた。辛子の鋭さが脂を切って、豚の旨みだけが前に出た。さっきと全然違う顔になった。
「なんで最初から——」
二人が同時に言いかけた。互いを見た。また笑った。
―――
渉は白子を取り出した。
今夜の白子は特にいい。ぷりぷりとした張りがある。鮮度が命の食材だ。仕入れたその日に使う。それ以外の選択肢はない。
出汁はトリュフで引いた。昆布と鰹の出汁にトリュフオイルを数滴。和の出汁に洋の香りを忍ばせる。主張しすぎない。あくまで白子を引き立てる脇役だ。
卵を溶いて、出汁と合わせる。白子を底に沈めて、蒸す。蒸しすぎない。表面が固まったら完成だ。余熱が中心を仕上げる。
二人分、同じ器に盛る。三つ葉を一枚、中央に載せる。
「白子の茶碗蒸しです。トリュフ出汁を使っています」
小さな蓋付きの器。蓋を取ると、湯気がふわりと広がった。トリュフの香りが漂った。
一人目の男がスプーンを入れた。ぷるりと揺れた。口に運んだ瞬間、止まった。
——なんだ、これは。
白子のクリーミーな旨みが広がって、トリュフの深い香りが後から来る。出汁の繊細な甘みが全部をまとめる。口の中で、噛むたびに別の味が顔を出す。こんなに複雑なものが、一つの器の中にあるのか。
冷酒を一口飲んだ。白子の余韻と酒の清涼感が絡んで、また食べたくなった。
二人目の男も食べた。しばらく黙っていた。
「……明日、会談があります」
一人目の男が言った。二人目も頷いた。
「核の問題です。十五年、平行線のままです」
渉はしばらく黙っていた。それから言った。
「同じ飯を食える人間と、話せないことはないと思いますよ」
二人は黙った。それから互いを見た。
渉が小皿を置いた。
「柚子塩です。途中でかけてみてください。白子の旨みが締まります」
二人は同時にかけた。食べた。柚子の清涼感がトリュフの重みを切って、白子の純粋な旨みだけが残った。
——からし一つでここまで変わるのか。
「……また教えてくれなかった」
二人が同時に言った。また笑った。今度は声に出して。
皿が空になった。二人とも、スプーンを持ったまましばらく離せなかった。
「おいくらですか」と一人目が言った。
「三千円ずつです」
二人は同時に財布を出した。
「旨かったです」
「ありがとうございます」
二人は並んで引き戸を出た。閉まる直前、二人目の男の声が聞こえた。
「明日、よろしくお願いします」
「こちらこそ」
閉まった。ミアがビールを一口飲んだ。
「また同じこと言いましたね」
「何がですか」
「同じ飯を食える人間と、話せないことはない」
「本当のことですから」
ミアは少し考えてから、グラスを置いた。
「もう一杯いいですか」
「どうぞ」
―――
翌日の朝。渉は仕込みをしながらテレビをつけた。
「本日、核軍縮に関する歴史的な条約が両国間で締結されました。会見で記者から経緯を問われた際、一方の首脳が『昨夜、同じ飯を——』と言いかけたところ、もう一方の首脳に肘で制され、会場に笑いが起きました」
画面の中に、昨夜の二人が並んで立っていた。疲れ切った顔をしていたが、どこか清々しく見えた。
渉はテレビを一瞥して、出汁を火にかけた。
「まあ」
包丁を握った。
「仕込むか」




