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今夜もどこかで明かりが灯る  作者: ほろ酔いカバ
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第6話「鴨の照り焼き」

 パリは、美しさに飽きた街だ。エッフェル塔も、セーヌ川も、カフェのテラスも、全部が絵葉書の通りに存在している。だからこそ、本当に迷った人間はこの街の裏側に紛れ込む。マレ地区の細い路地、モンマルトルの丘の裏手、観光客が来ない十一区の夜。この街では昔から、芸術家も哲学者も料理人も、何かを極めようとした人間が集まっては消えていった。夜のパリには、そういう人間の残り香がある。看板のない暖簾が出ていても、この街なら誰かが入っていくだろう。


 気づいた時には、そこにある。昨日はなかった路地に、今夜は暖簾が出ている。提灯の灯りが、石畳をぼんやりと照らしていた。今夜の路地は、パリだった。


 端の席に、ミアがいた。

 今夜はイカの塩辛をつまみにしていた。小皿に盛られたイカの塩辛が、ビールの隣に置いてある。ビールを一口飲むたびに、小さく息をつく。


「今日もいい出来ですね」

「イカが今夜は機嫌よかったので」

「イカに機嫌があるんですか」

「ありますよ。今夜は特に」


 ミアはビールを一口飲んだ。


 引き戸が開いたのは、八時頃だった。

 最初に入ってきたのは男だった。六十代。白髪、背筋が伸びている。仕立てのいいジャケット。パリの有名シェフ、といった風格だった。

 男はカウンターに目が止まった。ミアのイカの塩辛を見た。


「それ、ください」

「売り切れです」

「なぜ」

「イカが今夜は墨を吐いて逃げまして」


 男は三秒、渉を見た。


「……そうか」


 ミアが口元を押さえた。


 男が席に着いて冷酒を注文したころ、また引き戸が開いた。三十代の女だった。黒髪を後ろで束ねて、白いシェフコートを脱いだばかりのような格好をしていた。

 女はカウンターに目が止まった。ミアのイカの塩辛を見た。


「それ、ください」

「売り切れです」

「イカが墨を吐いて逃げたんですか」

「そうです」


 女は三秒渉を見て、それから隣の男を見た。

 男も女を見た。

 二人の間に、長い沈黙が走った。


「……師匠」

「……お前か」


 ミアが二人を交互に見た。何も言わなかった。


「隣、座っていいですか」

 男は答えなかった。答えないのが答えだった。女は隣に座った。


「冷酒です」と渉は男の前に置いた。「お連れの方は」

「同じものを」と女が言った。

「連れじゃない」と男が言った。

「同じものを出します」と渉は言った。


 二人は同時に一口飲んだ。


―――


「イカのゴロ焼きです」

 小皿に、イカが肝ごと香ばしく焼かれていた。磯の香りと肝の旨みが混ざって漂っている。


 男が一口食べた。


 ——旨い。


 イカの甘みと肝の濃厚な旨みが口の中で広がる。香ばしさが後から来て、冷酒の清涼感が全部をまとめる。こんなシンプルな料理が、なぜこんなに深いのか。


 女も一口食べた。目が細くなった。


「……旨いですね」

 男は答えなかった。でも箸が止まらなかった。


 男が顔を上げた。


「……イカ、ありますよね」

「そうですね」

「逃げたんじゃなかったんですか」

「捕まえました」


 ミアが声に出して笑った。女も笑った。男だけが笑わなかった。でも口元が、少しだけ緩んだ。


 渉が小皿を置いた。

「柚子胡椒です。途中でつけてみてください。肝の旨みが締まります」

 二人はつけて食べた。柚子の清涼感と胡椒の辛さが肝の濃厚さを切って、イカの甘みだけが残った。さっきと全然違う。


「なんで最初から——」

 女が言いかけた。

「順番がある」

 男が先に言った。女は少し、目を見開いた。


―――


 渉は鴨を取り出した。

 仕込みは昨夜のうちに終わらせてある。醤油、味醂、酒、砂糖。隠し味にオレンジの絞り汁を少量。酸が鴨の脂を柔らかくする。フランスの食材に和の技法で応える。それが渉のやり方だった。

 皮目を下にしてフライパンに置く。重石をのせて、弱火でじっくり焼く。脂を丁寧に落とす。この時間を惜しんではいけない。鴨の脂は財産だ。落としすぎず、残しすぎず。

 ひっくり返してタレを絡める。山椒塩を添える。二人分、同じ皿に盛る。


「鴨の照り焼きです。山椒塩でどうぞ」

 二人の前に同じ皿が置かれた。タレで光る鴨が、山椒塩の白を添えて並んでいた。

 男が箸を取り、一口食べた。


 ——来た。


 鴨の脂の甘みが広がって、タレの醤油と味醂が絡む。オレンジの酸がほのかに香って、全体を軽くする。口の中で、噛むたびに別の味が顔を出す。冷酒を一口飲んだ。鴨の旨みと酒の清涼感が絡んで、また食べたくなった。


 男は黙って食べ続けた。

 女も黙って食べ続けた。

 しばらく、二人の間に会話がなかった。でもそれが自然だった。


 女が箸を置いた。


「……独立して、三年経ちました」

 男は答えなかった。

「うまくいってます。師匠に教わったことを全部、使っています」

 男は箸を動かし続けた。

「一度、食べに来てください」


 長い沈黙があった。


「お前の料理など、興味ない」


 女は黙った。

 渉は振り返らなかった。


 渉が小皿を二つ置いた。

「からしです。タレに少し溶いてみてください。鴨の脂が際立ちます」

 二人は同時にした。食べた。


 ——からし一つでここまで変わるのか。


 からしの鋭さが鴨の脂を切って、タレの甘みが前に出た。また別の顔を見せた。


「……また教えてくれなかった」

 女が言った。男は何も言わなかった。でも、また口元が緩んだ。


 皿が空になった。二人とも、箸を持ったまましばらく離せなかった。


「おいくらですか」と男が言った。

「三千円ずつです」

「二人分、私が払う」

「師匠」

「黙れ」


 男は六千円をカウンターに置いた。立ち上がり、引き戸を開けた。


「旨かった」


 閉まった。

 女はしばらく動かなかった。それから立ち上がり、引き戸を開けた。


「ありがとうございました」


 閉まった。ミアがビールを一口飲んだ。


「冷たい人ですね」

「そうですか」

「そうですか、じゃないですよ」

「払ったじゃないですか」


 ミアは少し考えた。


「もう一杯いいですか」

「どうぞ」


―――


 翌日の朝。渉は仕込みをしながらテレビをつけた。


 「パリの新進気鋭のシェフ、田中マリ氏の新店が世界的な注目を集めています。師匠であるジャック・ベルナール氏は取材にこう答えました——『あの子の料理は、私を超えた。パリで最も予約の取れない店になるだろう』」


 画面の中に、昨夜の女が映っていた。厨房に立ち、カメラに向かって照れくさそうに笑っていた。昨夜より少し、清々しく見えた。


 渉はテレビを一瞥して、出汁を火にかけた。


「まあ」


 包丁を握った。


「仕込むか」





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