第5話「焼き鳥」
東京は、夜が得意な街だ。昼間の喧騒が引いたあと、街は別の顔になる。居酒屋の提灯が灯り、サラリーマンがネクタイを緩めながら暖簾をくぐる。路地裏には昼間には気づかない店があり、知っている人間だけが入る。この街では、夜になって初めて話せることがある。仕事の失敗、家族への不満、誰にも言えない本音。カウンターに座って、隣の人間とたまたま目が合う。それだけで、少し楽になることがある。今夜の東京は、雨上がりの石畳が光っていた。
気づいた時には、そこにある。昨日はなかった路地に、今夜は暖簾が出ている。提灯の灯りが、石畳をぼんやりと照らしていた。今夜の路地は、また東京だった。
端の席に、ミアがいた。
今夜は鴨のたたきをつまみにしていた。薄切りの鴨が皿に並び、わさび醤油が添えられている。ビールを一口飲むたびに、小さく息をつく。
「鴨がネギを背負って逃げたんじゃなかったんですか」
「今夜は帰ってきました」
「気まぐれですね」
「鴨ですから」
ミアはビールを一口飲んだ。
引き戸が開いたのは、十時頃だった。
女が入ってきた。二十代半ば。黒いTシャツ、ジーンズ、スニーカー。肩にトートバッグを下げていた。化粧っ気はないが、目だけが印象的だった。少し、疲れた目をしていた。
女はカウンターに目が止まった。ミアの鴨のたたきから湯気が立っていた。女の喉が動いた。
「……それ、ください」
「売り切れです」
「え」
「鴨がネギを背負って逃げまして」
女は三秒、渉を見た。
「……今、帰ってきてますよね」とミアを指差した。
「そうですね」と渉は言った。「でも売り切れです」
女はミアを見た。ミアは声に出して笑った。
「どうぞ」と渉はカウンターの席を示した。
「焼き鳥の盛り合わせと、おすすめを」
「苦手なものはありますか」
「ない。自家製梅酒のソーダ割りってありますか」
「あります」
渉は梅酒を取り出し、グラスに氷を入れた。自家製の梅酒は、毎年六月に仕込む。今年で十八年目だ。
「梅酒のソーダ割りです。今年の梅酒は特に出来がいいですよ」
女は一口飲んだ。目が細くなった。
「……甘い。でも甘すぎない」
「梅の酸がありますから」
―――
「鴨の照り焼きです」
皿に、照りのある鴨が並んでいた。山椒塩が小さく添えられていた。
女は一口食べた。
——なんだ、これは。
鴨の脂の甘みが広がって、タレの醤油と味醂が絡む。噛むたびに旨みが出てくる。梅酒を一口飲んだ。鴨の余韻と梅の酸が絡んで、また食べたくなった。
女が顔を上げた。
「……あれ、鴨ありますよね」
「そうですね」
「ネギを背負って逃げたって言いましたよね」
「照り焼きにしたら帰ってきました」
ミアがまた声に出して笑った。
渉は特に気にした様子もなく、次の仕込みに戻った。
渉が小皿を置いた。
「山椒塩です。途中でつけてみてください。鴨の旨みが締まります」
女はつけて食べた。山椒の清涼感が鴨の脂を切って、旨みだけが残った。さっきと全然違う顔になった。
「なんで最初から教えてくれないんですか」
「順番があります」
「旨いものの順番ですね」
「そうです」
女は笑った。
―――
渉は焼き鳥の仕込みをしながら、女を見た。何かを抱えている顔だった。疲れではなく、迷いだ。渉には分かった。十七年、カウンター越しにいろんな顔を見てきた。迷っている顔は、すぐ分かる。
串を刺す。塩を振る。炭火にかける。脂が落ちて、煙が上がる。この煙の匂いが好きだった。どこにいても、炭火の匂いだけは渉を落ち着かせた。
皮がパリッと焼けてきた。ひっくり返す。タレをかける。じゅっと音がした。甘い香りが立ち上る。盛り合わせは五本。もも、ねぎま、つくね、皮、砂肝。それぞれ焼き方が違う。それぞれの旨みの出し方が違う。同じ鶏でも、部位によって全然違う料理になる。それが面白いんだ、と渉はいつも思う。
「焼き鳥の盛り合わせです。まずはそのまま、塩で食べてみてください」
五本の串が皿に並んでいた。炭火の香りが漂っていた。
女はももを一口食べた。
——来た。
皮がパリッと割れて、肉汁が溢れた。塩が旨みを引き出して、鶏の甘みが広がる。ねぎまを食べた。ねぎの甘みと鶏の脂が絡んだ。つくねを食べた。山椒の香りが来た。皮を食べた。パリパリの食感と脂の甘みが同時に来た。砂肝を食べた。コリコリとした食感の後に、旨みが来た。
——全部違う。同じ鶏なのに、全部違う。
梅酒を一口飲んだ。炭火の余韻と梅の酸が絡んで、また食べたくなった。
渉が小皿を置いた。
「今度はタレでどうぞ。全然変わります」
女はもう一本、タレで食べた。
——本当に変わった。
タレの甘辛さが加わって、鶏の旨みがさらに深くなった。さっきの塩とは全然違う料理だった。
「……また教えてくれなかった」
「順番がありますから」
女は笑いながら、梅酒を飲んだ。しばらく黙って食べ続けた。梅酒が二杯目になった。
ふと、女が言った。
「……歌うのをやめようと思っています」
「そうですか」
「五年やってきました。でも全然売れなくて。もう限界かもしれない」
渉はしばらく黙っていた。それから言った。
「五年、毎日歌ってきたんですか」
「……はい」
「それは、歌いたいからじゃないですか」
女は黙った。
「飯、冷めますよ」
女は箸を取り直した。また食べ始めた。しばらくして、梅酒が三杯目になった。
ミアが言った。
「歌ってみてください」
「え?」
「今夜、歌ってみてください」
女は苦笑した。
「ここで、ですか」
「ここで」
女はグラスを見た。梅酒のソーダ割り。炭酸の泡が細く立っていた。
ふと、鼻歌が漏れた。自分でも気づかないくらい、小さな声だった。でも止まらなかった。
女はグラスを置いた。気づいたら立ち上がっていた。瓶ビールをマイク代わりに握った。歌い始めた。
カウンターの中で、渉の手が止まった。ミアがビールを置いた。
静かな店内に、声が広がった。旨いとか下手だとか、そういう話じゃなかった。ただ、その声が持っている何かが、空気を変えた。
カウンターの端で、別の客が静かにスマホを取り出した。渉も、ミアも、気づかなかった。
歌が終わった。しばらく、誰も何も言わなかった。
渉が先に言った。
「旨い飯が冷めるところでした」
女は笑った。グラスを置いて、席に戻った。
皿が空になった。それでも箸を持ったまま、しばらく離せなかった。
——焼き鳥で、また歌いたくなるとは思わなかった。
「おいくらですか」
「三千円です」
女は財布から出してカウンターに置いた。
「旨かったです」
「ありがとうございます。また迷い込んでください」
「……迷い込みたいです」
引き戸が閉まった。ミアがビールを一口飲んだ。
「いい声でしたね」
「そうですね」
「気にならないんですか、あの子のこと」
「明日が楽しみです」
ミアは少し考えてから、グラスを置いた。
「もう一杯いいですか」
「どうぞ。今夜の梅酒、特に出来がいいですよ」
「さっきも言いましたよね」
「毎回旨いんで」
―――
翌朝。渉は仕込みをしながらテレビをつけた。
「昨夜、都内の路地裏の居酒屋で撮影されたとみられる動画がSNSに投稿され、一夜にして再生回数が三百万回を突破しました。動画に映っているのは、瓶ビールをマイク代わりに即興で歌う女性で——」
画面に、昨夜の女が映っていた。瓶ビールを握って、目を閉じて歌っていた。昨夜より少し、清々しく見えた。
渉はテレビを一瞥して、出汁を火にかけた。
「まあ」
包丁を握った。
「仕込むか」




