第4話「鯖の味噌煮」
ロンドンは、霧の街だ。テムズ川から立ち上る霧が石畳を濡らし、ビッグベンの輪郭をぼかす夜、この街は別の顔を見せる。二千年の歴史が積み重なった街で、ローマ人が築いた道の上を今もロンドンバスが走っている。帝国の遺産と移民の文化が混ざり合い、パブでは見知らぬ者同士が当たり前のように隣に座る。この街の人間は感情をあまり表に出さないが、夜が深まるほど、誰かと話したがっているのが分かる。石畳の路地に暖簾が一枚出ていても、誰も不思議には思わないだろう。
気づいた時には、そこにある。昨日はなかった路地に、今夜は暖簾が出ている。提灯の灯りが、石畳をぼんやりと照らしていた。今夜の路地は、ロンドンだった。
端の席に、ミアがいた。
今夜は牛タタキをつまみにしていた。薄切りの牛肉がぽんず醤油に浸かり、葱が散っている。ビールを一口飲むたびに、小さく息をつく。
「今日もいい出来ですね」
「鯖が今日は特にいい顔してました」
「鯖が顔をするんですか」
「素材のいい日は分かります」
ミアはビールを一口飲んだ。
引き戸が開いたのは、七時頃だった。最初に入ってきたのは男だった。四十代。ダークスーツ、きっちりしたネクタイ。歩き方に緊張感があった。
男はカウンターに目が止まった。ミアの牛タタキを見た。
「それ、ください」
「売り切れです」
「なぜですか」
「牛が今夜はたたかれたくないそうで」
男は三秒、渉を見た。
「……そうですか」
ミアが口元を押さえた。
男が席に着いて注文を終えたころ、また引き戸が開いた。今度は女だった。四十代。落ち着いたパンツスーツ、短い髪。歩き方に、男と同じ緊張感があった。
女もカウンターに目が止まった。ミアの牛タタキを見た。
「それ、ください」
「売り切れです」
「理由を聞いてもいいですか」
「牛が今夜はたたかれたくないそうで」
女は三秒、渉を見た。それから隣の男を見た。男も女を見た。二人の間に、ぴりっとした空気が走った。
「……こちらに座ってもよろしいですか」
「どうぞ」
女は男の隣に座った。互いに目を逸らした。ミアは何も言わなかった。ビールを一口飲んだだけだった。
「スコッチのソーダ割りです」と渉は男の前に置いた。「ウォッカのトニック割りです」と女の前に置いた。
二人は同時に一口飲んだ。互いに、ちらりと相手を見た。
―――
「牛の時雨煮です」
小皿に、牛肉が甘辛いタレで艶やかに煮られていた。生姜の香りが漂っている。
男が一口食べた。
——なんだ、これは。
牛肉の旨みと生姜の清涼感が絡み合う。タレの甘辛さが後から来て、口の中で余韻が長く続く。スコッチを一口飲んだ。牛の旨みとスコッチの深みが絡んで、また食べたくなった。
女も一口食べた。目が細くなった。
「……旨いですね」
思わず声に出た。男がちらりと女を見た。
「そうですね」
また同じ言葉を言った。また目を逸らした。
男が顔を上げた。
「……あれ、牛ありますよね」
「そうですね」
「たたかれたくないって言いましたよね」
「時雨煮は煮ただけですから」
ミアが声に出して笑った。女も、思わず笑った。
渉は特に気にした様子もなく、次の仕込みに戻った。
渉が小皿を二つ置いた。
「山椒です。途中でかけてみてください。生姜の香りが際立ちます」
二人は同時にかけた。また変わった。山椒の清涼感が加わって、牛の旨みがさらに深くなった。
「なんで最初から——」
二人が同時に言いかけて、止まった。互いを見た。ミアが静かに笑っていた。
―――
渉は鯖を取り出した。
昨夜のうちに霜降りにしてある。熱湯をかけて、すぐに冷水に取る。臭みが抜ける。この一手間を省く料理人がいるが、渉には理解できない。素材に敬意を払わない料理は、旨くなれない。
味噌は合わせ味噌に酒と味醂と砂糖。隠し味に生姜を厚めに切って入れる。千切りではなく、厚切り。存在感を出す。生姜は脇役ではなく、鯖と対等に渡り合う素材だ。
落し蓋をして、弱火で二十分。途中でタレをかけながら煮る。鯖に艶が出て、タレが絡んだら完成だ。二人分、同じ器に盛る。
「鯖の味噌煮です」
二人の前に同じ器が置かれた。照りのある鯖が、濃い味噌色のタレに包まれていた。生姜の香りが漂った。
男が箸を取り、鯖を一口食べた。
——深い。
味噌の旨みが広がって、鯖の脂の甘さと絡む。生姜の清涼感が後から来て、全体を締める。口の中で、噛むたびに別の味が顔を出す。複雑なのに、どこかほっとする味だった。
女も食べた。目を閉じた。
「……懐かしいですね」
思わず声に出た。男がちらりと女を見た。
「そうですね」
また同じ言葉を言った。今度は、目を逸らさなかった。
しばらく、二人は黙って食べ続けた。男が箸を置いた。
「……明日、会談があります」
「そうですか」
「うまくいくか分からない。十年続いた対立です」
渉は振り返らずに言った。
「同じ飯を食える人間と、話せないことはないと思いますよ」
女が少し、目を見開いた。男も黙った。
渉が小皿を二つ置いた。
「からしです。タレに少し溶いてみてください。鯖の脂が際立ちます」
二人は同時にした。食べた。
——からし一つでここまで変わるのか。
からしの鋭さが味噌の重みを切って、鯖の脂の甘さが前に出た。また別の顔を見せた。
「……また教えてくれなかった」
二人がまた同時に言った。今度は二人とも、笑った。初めて、同じ方向を向いて笑った。
皿が空になった。二人とも、箸を持ったまましばらく離せなかった。
「おいくらですか」と男が言った。
「三千円ずつです」
二人は財布を出した。立ち上がり、引き戸に向かった。男が先に出た。女が続いた。引き戸が閉まる直前、外から男の声が聞こえた。
「……明日、よろしくお願いします」
「こちらこそ」
閉まった。ミアがビールを一口飲んだ。
「同じ飯を食える人間と、話せないことはない、か」
「そうですよ」
「渉さん、たまにいいこと言いますね」
「たまに、は余計です」
ミアは笑った。
「もう一杯いいですか」
「どうぞ」
―――
翌日の朝。渉は仕込みをしながらテレビをつけた。
「本日、長年対立してきた両国の外交官による歴史的な停戦合意が成立しました。会見で記者から終結に至った経緯を聞かれた英国側のスミス外交官はこう答えました——『昨夜、同じ飯を食いました。それだけです』」
画面の中に、昨夜の男と女が並んで立っていた。疲れた顔をしていたが、どこか清々しく見えた。
渉はテレビを一瞥して、出汁を火にかけた。
「まあ」
包丁を握った。
「仕込むか」




