第3話「牛すじ煮込み」
ニューヨークは、眠らない街だと言われる。だが正確には、眠れない街だ。この街には、立ち止まる理由がない。タイムズスクエアの光は昼夜を問わず街路を照らし、地下鉄は二十四時間走り続け、路地の向こうからはいつも誰かの声がする。移民が持ち込んだ料理と言葉と夢が、百年かけてこの街の土台になった。世界中の人間がここに来て、何かになろうとする。なれなかった人間も、この街には残る。夜のマンハッタンを歩くと、失敗と野望が同じ顔をしているのが分かる。
気づいた時には、そこにある。昨日はなかった路地に、今夜は暖簾が出ている。提灯の灯りが、石畳をぼんやりと照らしていた。今夜の路地は、ニューヨークだった。
端の席に、ミアがいた。
今夜はモツ煮をつまみにしていた。小鍋から湯気が立ち、甘辛い味噌の香りが漂っている。ビールを一口飲むたびに、小さく息をつく。
「今日もいい出来ですね」
「まあまあです」
「また謙遜する」
「性分なんで」
ミアはビールを一口飲んだ。
引き戸が開いたのは、九時頃だった。
男が入ってきた。五十代。がっしりした体格、白いシャツ、ノーネクタイ。疲れというより、何かを決めかねている顔をしていた。
男はカウンターに目が止まった。ミアの前のモツ煮から湯気が立っていた。甘辛い香りが漂っている。男の喉が動いた。
「……それ、ください」
「売り切れです」
「え」
「もつれて解けなくなって」
男は三秒、渉を見た。
「……モツが?」
「モツが」
ミアが口元を押さえた。肩が揺れていた。
「どうぞ」と渉はカウンターの席を示した。
「牛すじ煮込みと、おすすめを」
「苦手なものは」
「ない。ウイスキーのソーダ割りをください」
渉はグラスに氷を入れ、バーボンを注いだ。
「ウイスキーのソーダ割りです。今夜は少し多めに注ぎました」
男は一口飲んだ。目を細めた。
―――
「モツの甘辛煮です」
小鍋に、モツが艶やかに盛られていた。甘辛いタレが絡み、七味が散っている。
男は箸を取り、一口食べた。
——柔らかい。
タレの甘みと旨みが広がって、モツの脂のコクが後から来る。噛むたびに味が染み出してくる。ウイスキーを一口飲んだ。モツの甘みとウイスキーの香りが絡んで、信じられないほど合った。
男が顔を上げた。
「……あれ、もつれてないですよね、これ」
「解けました」
「解けたなら出せるじゃないですか」
「解けた時にはもう煮込んでいたので」
ミアが声に出して笑った。
渉は特に気にした様子もなく、次の仕込みに戻った。
渉が小皿を置いた。
「山椒です。途中でかけてみてください。全体が締まります」
男はかけて食べた。山椒の清涼感が甘みを切って、モツの旨みだけが残った。さっきと全然違う顔になった。
「なんで最初から教えてくれないんですか」
「順番があります」
「旨いものの順番ですね」
「そうです」
男は少し笑った。
―――
渉は牛すじを鍋から取り出した。
三時間煮込んである。昨夜から仕込んでいた。牛すじは時間が全てだ。急げば硬い。焦れば臭みが残る。ただひたすら、弱火で待つ。
八丁味噌と赤味噌を合わせる。八丁だけでは重い。赤味噌で丸みを出す。そこに酒と味醂と砂糖。隠し味に豆板醤を少量。辛みではなく、深みのために入れる。
牛すじを戻して、さらに煮込む。タレが絡んで、艶が出てきた。この艶が出たら完成だ。
手間のかかる料理ほど、シンプルに見える。それでいい。
「牛すじ煮込みです。七味はお好みで」
小鍋から湯気が立っていた。タレで光る牛すじの上に、白いねぎが散っている。
男は箸を取り、牛すじを一口食べた。
——深い。
箸でほろりと崩れた。三時間分の時間が、口の中で溶けていく。八丁味噌の深みと旨みが広がって、後から豆板醤のほのかな深みが来る。口の中で、噛むたびに別の味が顔を出す。ウイスキーを一口飲んだ。味噌の旨みとウイスキーのコクが絡んで、また煮込みが食べたくなった。
男は半分ほど食べたところで、箸を置いた。
「……うちの会社を、畳もうと思っています」
「そうですか」
「二十年やってきました。サイバーセキュリティの会社です。でも資金が底をついてきた」
渉はしばらく黙っていた。
「牛すじも、三時間煮込まないと食えたもんじゃないです」
男は黙った。
「飯、冷めますよ」
男は少し笑った。箸を取り直した。
渉が小皿を置いた。
「山椒です。途中でかけてみてください。脂の甘さがぐっと際立ちます」
男は言われた通りにした。
——からし一つでここまで変わるのか。
山椒の清涼感が味噌の重みを切って、牛すじの旨みだけが前に出た。さっきと全然違う。また別の顔を見せた。
「……また教えてくれなかった」
「順番がありますから」
男は笑った。
皿が空になった。それでも箸を持ったまま、しばらく離せなかった。
——牛すじ煮込みで、もう少しだけ続けようと思うとは思わなかった。
「おいくらですか」
「三千円です」
男は財布から出してカウンターに置いた。
「旨かったです」
「ありがとうございます」
「……もう一度来られたら、また来ます」
引き戸が閉まった。ミアがビールを一口飲んだ。
「何を送ったんでしょうね」
「数日後が楽しみです」
「もう一杯いいですか」
「どうぞ」
―――
数日後の朝。
渉は仕込みをしながらテレビをつけた。
「本日未明、国際的なハッカー集団による旅客機の航空管制システムへのサイバー攻撃が検知されました。しかし攻撃は未遂に終わり、各国の旅客機は全て無事です。阻止したのはニューヨークに拠点を置く民間セキュリティ企業、クロスガード社——」
画面の中に、昨夜の男がいた。カメラの前で淡々と状況を説明していた。疲れ切った顔をしていたが、目だけが昨夜より遥かに強かった。
渉はテレビを一瞥して、出汁を火にかけた。
「まあ」
包丁を握った。
「仕込むか」




