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今夜もどこかで明かりが灯る  作者: ほろ酔いカバ
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第2話「チキン南蛮」

 ボストンは革命の街だ。アメリカ独立の火蓋が切られたのはこの街で、ハーバードやMITを擁する知の集積地となった今も、世界中から人間が集まり、何かを変えようとしている。チャールズ川沿いの石畳には二百年前の面影が残り、その隣にガラス張りの研究棟が建っている。古いものと新しいものが、この街では不思議と喧嘩しない。夜になっても街は静かに動き続ける。バーの灯り、研究室の窓の明かり、川沿いを黙々と走る人間の息。この街の夜は、何かを諦めるには少し明るすぎる。


 気づいた時には、そこにある。昨日はなかった路地に、今夜は暖簾が出ている。白地に墨で「渉」と書いた、小さな暖簾が。提灯の灯りが、石畳をぼんやりと照らしていた。今夜の路地は、ボストンだった。


 端の席に、ミアがいた。

 今夜は焼きはまぐりをつまみにしていた。殻が開くたびに湯気が立ち、磯の香りが広がる。ビールを一口飲むたびに、小さく息をつく。


「今日もいい仕入れでしたね」

「まあまあです」

「謙遜しますか」

「しますよ」


 ミアはビールを一口飲んだ。


 引き戸が開いたのは、八時を少し回った頃だった。

 男が入ってきた。四十代半ば。白髪交じりの短髪、細いフレームの眼鏡。くたびれたジャケットのポケットに両手を突っ込んでいた。研究室からそのまま出てきたような格好だった。

 男はカウンターに目が止まった。ミアが殻からはまぐりの身を外して、口に運ぶところだった。ビールのグラスが隣に置いてある。男の目が、少し細くなった。


「……それ、ください」

 渉が振り返った。

「売り切れです」

「あ」

「喧嘩して口を開いてくれなくなって」

 男は三秒、渉を見た。

「……はまぐりが?」

「はまぐりが」


 ミアが口元を押さえた。肩が小さく揺れていた。


「どうぞ」と渉はカウンターの席を示した。「他にご注文は」

「チキン南蛮定食と、おすすめを」

「苦手なものはありますか」

「特に」

「じゃあお任せで。ビールも行きますか」

「はい」


 渉はグラスを取り出し、栓を抜いた。

「ビールです。ボストンの夜は冷えますから、まず一口どうぞ」

 男はすぐに飲んだ。喉が鳴った。少し、肩の力が抜けた。


―――


「はまぐりの酒蒸しです。まず汁から飲んでみてください」

 小鍋に、はまぐりが口を開けて並んでいた。透明な汁に、細切りの生姜と青ねぎが浮いている。


 男はレンゲで汁をすくった。口に入れた瞬間、目を閉じた。


 ——なんだ、この出汁は。


 はまぐりの旨みが凝縮されている。生姜の清涼感が後から来て、酒の香りが鼻を抜ける。こんなに複雑な味が、貝と酒だけで出るのか。はまぐりの身を一つ食べた。小さいのに、旨みが濃い。噛むたびに汁が出てくる。磯の香りと生姜が混ざって、また汁が飲みたくなる。


 ビールを一口飲んだ。貝の余韻が炭酸で広がって、喉の奥に消えた。


 男が顔を上げた。


「……あれ、はまぐりありますよね」

「そうですね」

「さっき口を開かないって言いましたよね」

「言いました」

「開いてますよね、これ」

「酒蒸しにしたら開きました」


 ミアが声に出して笑った。

 渉は特に気にした様子もなく、次の仕込みに戻った。


「……まあ、旨いからいいですけど」

「ありがとうございます」


 渉が小皿を置いた。

「ポン酢です。途中でかけてみてください。全然変わりますよ」

 男はかけて食べた。はまぐりの旨みに柑橘の酸が加わって、全体が締まった。さっきとは全然違う顔になった。


「なんで最初から教えてくれないんですか」

「順番があります」

「旨いものの順番ですね」

「そうです」


 男は少し笑った。


―――


 渉は冷蔵庫から鶏もも肉を取り出した。

 下味は昨夜のうちにつけてある。塩、胡椒、醤油、酒。そこに隠し味でナンプラーを数滴。旨みが底上げされる。気づかれない程度がちょうどいい。

 常温に戻してから、油で揚げる。表面がきつね色になったところで取り出す。揚げすぎない。中に火が通ればいい。余熱が仕事をする。

 南蛮酢を作る。酢、砂糖、醤油、鷹の爪。酸味が強すぎると鶏に勝つ。砂糖の量で折り合いをつける。揚げたての鶏を漬けて、タルタルをのせる。

 タルタルは卵とピクルスと玉ねぎのみじん切り。マヨネーズは控えめにする。主役は鶏だ。タルタルはあくまで脇役でいい。

 これだけだ。ただ、それぞれの役割を間違えないだけだ。


「チキン南蛮定食です」

 皿に載った鶏は、南蛮酢で光っていた。タルタルが白く盛られ、白米と味噌汁が並んだ。酸の香りと揚げ物の香りが混ざって漂ってくる。

 男は箸を取り、鶏を一口食べた。


 ——来た。


 外側がサクッと割れて、中から肉汁が溢れた。南蛮酢の酸味と甘みが絡んで、タルタルのまろやかさが全部をまとめる。口の中で、噛むたびに別の味が顔を出す。白米を一口食べた。南蛮酢の酸味が白米の甘みを引き立てている。味噌汁を飲んだ。出汁の香りが口をリセットした。また鶏が食べたくなった。


 ——反則だ。


 ビールを一口飲んだ。南蛮酢の余韻が炭酸に乗って広がり、じわりと消えた。グラスを置いた時、十二年分の疲れが少しだけ溶けた。


 男は半分ほど食べたところで、箸を置いた。


「……聞いていいですか」

「どうぞ」

「研究を、やめようと思っています」

「そうですか」

「十二年やってきました。癌の治療薬の研究です。でも結果が出ない。資金も底をついてきた。もう限界かもしれない」


 渉はしばらく黙っていた。それから言った。


「十二年、ですか」

「はい」

「それだけやって、まだ諦めてないから今夜ここにいるんじゃないですか」


 男は黙った。

「飯、冷めますよ」

 男は少し笑った。箸を取り直した。


 渉が小皿を置いた。

「からしマヨネーズです。タルタルに少し混ぜてみてください。酸味が締まります」

 男は言われた通りにした。鶏につけて食べた。


 ——からし一つでここまで変わるのか。


 タルタルのまろやかさにからしの鋭さが加わって、南蛮酢の甘みが際立った。さっきまでと全然違う。また別の顔を見せた。


「……また教えてくれなかった」

「順番がありますから」


 男は笑った。さっきより少し、大きく笑った。

 皿が空になった。それでも箸を持ったまま、しばらく離せなかった。


 ——チキン南蛮で、まだやれると思うとは思わなかった。


 男はしばらくカウンターに肘をついていた。スマホを取り出し、指が少し震えていた。それでもメールを打ち始めた。渉は片付けをしながら、それを見なかった。


「おいくらですか」

「三千円です」


 男は財布から出して、カウンターに置いた。


「旨かったです」

「ありがとうございます。また迷い込んでください」

「……迷い込めたら、また来ます」


 引き戸が閉まった。ミアがビールを一口飲んだ。


「何を送ったんでしょうね」

「数日後が楽しみです」

「もう一杯いいですか」

「どうぞ。今夜のビール、よく冷えてます」

「毎回言いますよね、それ」

「毎回旨いんで」


―――


 数日後の朝。

 渉は仕込みをしながらテレビをつけた。ニュースが流れていた。


 「本日、国際癌学会においてMIT研究チームのジェームズ・コリン博士が新たな治療薬の臨床試験結果を発表し、会場は騒然となりました——」


 画面の中に、昨夜の男がいた。眼鏡をかけ直しながら、マイクの前に立っていた。くたびれたジャケットのまま、堂々と立っていた。昨夜より少し、目が輝いているように見えた。


 渉はテレビを一瞥して、出汁を火にかけた。


「まあ」


 包丁を握った。


「仕込むか」




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