第11話「卵雑炊」
その夜、店はどこにも現れなかった。
渉は厨房に一人でいた。鍋に出汁を張り、弱火にかける。昆布と鰹。母親がいつもそうしていたように。
三十七年前、渉が初めて料理を覚えたのはこの雑炊だった。
風邪を引いた夜、母親が作ってくれた。台所から出汁の香りがして、渉はそれだけで少し楽になった気がした。旨い、と言ったら母親が笑った。その顔を、今でも覚えている。
死ぬ前の夜のことを、渉はよく思い出す。
午前三時。誰もいない厨房。次の日の仕込みが終わらなかった。チェーン店の本部から新メニューの指示が来て、原価を下げろという指示が来て、スタッフが二人辞めて、渉一人で全部回していた。
疲れていた。体ではなく、もっと深いところが疲れていた。
娘のことを思い出した。離婚してから三年、会えていなかった。誕生日に電話しても出なかった。出なくて当然だと思った。料理人の仕事を選んで、家族を選ばなかった。自分でそう決めた。
後悔はしていない、と思い続けていた。
でも午前三時の厨房で、一人で鍋を磨きながら、渉は初めて認めた。後悔していた。ずっと、していた。
そこで記憶が途切れる。
気づいたら、この店があった。
―――
鍋が沸いた。白米を入れる。弱火でゆっくり、米が出汁を吸うのを待つ。急いではいけない。これだけは急いではいけない。
卵を溶く。母親は二個使っていた。渉も二個使う。鍋に回し入れる。すぐに蓋をする。余熱で火を通す。卵に火を入れすぎると、固くなる。ふわりとしていなければならない。
塩で味を整える。三つ葉を散らす。
それだけだ。
カウンターに一人分を置いた。
端の席に、ミアがいた。
今夜はいつものビールがなかった。ただ、そこに座っていた。
渉は雑炊を食べた。温かかった。母親の味とは少し違う。でも、どこか同じだった。
ミアが言った。
「後悔していますか」
渉はしばらく黙っていた。
「していますよ」
「それでも料理を続けますか」
渉はまた黙った。雑炊を一口食べた。
「続けますよ。他に何もできないので」
ミアは何も言わなかった。
渉は雑炊を全部食べた。器が空になった。それでも箸を持ったまま、しばらく離せなかった。
——母親の雑炊で、こんなに泣きそうになるとは思わなかった。
渉は立ち上がり、片付けを始めた。
「まあ」
包丁を握った。
「仕込むか」




