表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
今夜もどこかで明かりが灯る  作者: ほろ酔いカバ
10/11

第10話「白身魚のスパイス西京焼き」

 ムンバイは、夢を食う街だ。インド中から人間が集まり、何かになろうとする。ボリウッドの撮影所、証券取引所、波止場、チャウパティの屋台。かつて七つの島だったこの地が、埋め立てと時間によって一つの街になったように、ムンバイはあらゆるものを飲み込んで一つになる。マリン・ドライブの街灯が夜の海に「女王のネックレス」を描く頃、この街はまだ眠っていない。夢が叶わなくても、人は次の夢を持ってここに残る。そういう街の夜は、やけに明るい。


 気づいた時には、そこにある。昨日はなかった路地に、今夜は暖簾が出ている。提灯の灯りが、石畳をぼんやりと照らしていた。今夜の路地は、ムンバイだった。


 端の席に、ミアがいた。

 今夜はうなぎの白焼きをつまみにしていた。タレをつけずに焼いたうなぎが皿に並び、わさびが添えてある。ビールを一口飲むたびに、小さく息をつく。


「今日もいい出来ですね」

「うなぎが今夜は特に素直でした」

「白黒つけたくないんじゃなかったんですか」

「今夜は白に決めたそうで」


 ミアはビールを一口飲んだ。


 引き戸が開いたのは、八時頃だった。最初に入ってきたのは男だった。五十代。インド系の顔立ち、高級感のあるスーツ。

 男はカウンターに目が止まった。ミアのうなぎの白焼きを見た。


「それ、ください」

「売り切れです」

「なぜですか」

「うなぎが今夜は白黒つけたくないそうで」


 男は三秒、渉を見た。


「……そうですか」


 ミアが口元を押さえた。


 男が席に着いて芋焼酎のお湯割りを注文したころ、また引き戸が開いた。五十代のアメリカ人女性だった。パンツスーツ、短い金髪。

 女もカウンターに目が止まった。うなぎの白焼きを見た。


「それ、ください」

「売り切れです。うなぎが今夜は白黒つけたくないそうで」


 女は三秒渉を見て、隣の男を見た。男も女を見た。

 二人の目が、一瞬止まった。


「……隣、よろしいですか」

「どうぞ」


 女は男の隣に座った。


「芋焼酎のお湯割りです」と渉は男の前に置いた。「お連れの方は」

「同じものを」


 二人は同時に一口飲んだ。温かい。ムンバイの夜に、芋焼酎のお湯割りが染みた。


―――


「うまきです」

 だし巻き卵でうなぎを巻いたうまきが、二切れ皿に並んでいた。

 男が箸を取り、一口食べた。


 ——旨い。


 だし巻きの柔らかさの中に、うなぎの脂の甘みが包まれている。出汁の旨みがじわりと広がって、芋焼酎の香りと絡む。こんなに穏やかな料理が、なぜこんなに深いのか。


 女も食べた。目が細くなった。


「……旨いですね」

「そうですね」


 男が顔を上げた。


「……うなぎ、ありますよね」

「そうですね」

「白黒つけたくないって言いましたよね」

「巻いたら解決しました」


 ミアが声に出して笑った。女も笑った。


 渉が小皿を置いた。

「山椒です。途中でかけてみてください。うなぎの旨みが際立ちます」

 二人はかけて食べた。山椒の清涼感がだし巻きの甘みを切って、うなぎの脂だけが前に出た。さっきと全然違う顔になった。


「なんで最初から——」

 二人が同時に言いかけた。互いを見た。笑った。


―――


 渉は白身魚を取り出した。

 今夜の白身魚はスズキだ。西京味噌にクミンとコリアンダーを少量混ぜて漬け込んである。和の技法にインドのスパイスを忍ばせる。主張しすぎない。あくまで西京焼きだ。ただ、少しだけ遠い場所の香りがする。

 グリルで焼く。西京味噌が焦げやすい。弱火で、じっくり。表面に焼き色がついたら、中は余熱に任せる。焦がしたら終わりだ。

 皿に盛る。豆の白和えを添える。クミンを少量振る。二人分、同じ器に盛る。


「白身魚のスパイス西京焼きです」

 焼き色のついた白身魚が皿に並んでいた。西京味噌の甘い香りと、スパイスの異国の香りが混ざって漂っていた。

 男が箸を取り、一口食べた。


 ——来た。


 西京味噌の甘みと旨みが広がって、スパイスの香りが後から来る。白身魚の繊細な旨みが全部をまとめる。口の中で、噛むたびに別の味が顔を出す。芋焼酎を一口飲んだ。スパイスの余韻と焼酎の甘みが絡んで、また食べたくなった。


 女も食べた。目を閉じた。


「……懐かしいですね。でも知らない味」

「そうですね」


 二人は黙って食べ続けた。しばらくして、男が言った。


「……訴訟の件、話せますか」

 女は箸を止めなかった。

「話せます」

「今夜は弁護士なしで」

「今夜は弁護士なしで」


 渉は振り返らなかった。片付けを続けた。


 渉が小皿を置いた。

「柚子塩です。途中でかけてみてください。スパイスが締まります」

 二人は同時にかけた。食べた。


 ——からし一つでここまで変わるのか。


 柚子の清涼感がスパイスの重みを切って、西京味噌の甘みだけが残った。また別の顔を見せた。


「……また教えてくれなかった」

 二人が同時に言った。また笑った。


 皿が空になった。二人とも、箸を持ったまましばらく離せなかった。


「おいくらですか」

「三千円ずつです」


 二人は財布を出した。


「旨かったです」

「ありがとうございます」


 二人は並んで引き戸を出た。閉まった。ミアがビールを一口飲んだ。


「弁護士なしで、か」

「同じ飯を食いましたから」

「それだけで解決するんですか」

「解決しなくても、話せるようにはなります」


 ミアは少し考えてから、グラスを置いた。


「もう一杯いいですか」

「どうぞ」


―――


 翌日の朝。渉は仕込みをしながらテレビをつけた。


 「ムンバイの大手IT企業二社が長年の訴訟を取り下げ、業務提携を発表しました。両社CEOは共同会見で——」


 画面の中に、昨夜の二人が並んで立っていた。疲れた顔をしていたが、どこか清々しく見えた。


 渉はテレビを一瞥して、出汁を火にかけた。


「まあ」


 包丁を握った。



「仕込むか」





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ