第10話「白身魚のスパイス西京焼き」
ムンバイは、夢を食う街だ。インド中から人間が集まり、何かになろうとする。ボリウッドの撮影所、証券取引所、波止場、チャウパティの屋台。かつて七つの島だったこの地が、埋め立てと時間によって一つの街になったように、ムンバイはあらゆるものを飲み込んで一つになる。マリン・ドライブの街灯が夜の海に「女王のネックレス」を描く頃、この街はまだ眠っていない。夢が叶わなくても、人は次の夢を持ってここに残る。そういう街の夜は、やけに明るい。
気づいた時には、そこにある。昨日はなかった路地に、今夜は暖簾が出ている。提灯の灯りが、石畳をぼんやりと照らしていた。今夜の路地は、ムンバイだった。
端の席に、ミアがいた。
今夜はうなぎの白焼きをつまみにしていた。タレをつけずに焼いたうなぎが皿に並び、わさびが添えてある。ビールを一口飲むたびに、小さく息をつく。
「今日もいい出来ですね」
「うなぎが今夜は特に素直でした」
「白黒つけたくないんじゃなかったんですか」
「今夜は白に決めたそうで」
ミアはビールを一口飲んだ。
引き戸が開いたのは、八時頃だった。最初に入ってきたのは男だった。五十代。インド系の顔立ち、高級感のあるスーツ。
男はカウンターに目が止まった。ミアのうなぎの白焼きを見た。
「それ、ください」
「売り切れです」
「なぜですか」
「うなぎが今夜は白黒つけたくないそうで」
男は三秒、渉を見た。
「……そうですか」
ミアが口元を押さえた。
男が席に着いて芋焼酎のお湯割りを注文したころ、また引き戸が開いた。五十代のアメリカ人女性だった。パンツスーツ、短い金髪。
女もカウンターに目が止まった。うなぎの白焼きを見た。
「それ、ください」
「売り切れです。うなぎが今夜は白黒つけたくないそうで」
女は三秒渉を見て、隣の男を見た。男も女を見た。
二人の目が、一瞬止まった。
「……隣、よろしいですか」
「どうぞ」
女は男の隣に座った。
「芋焼酎のお湯割りです」と渉は男の前に置いた。「お連れの方は」
「同じものを」
二人は同時に一口飲んだ。温かい。ムンバイの夜に、芋焼酎のお湯割りが染みた。
―――
「うまきです」
だし巻き卵でうなぎを巻いたうまきが、二切れ皿に並んでいた。
男が箸を取り、一口食べた。
——旨い。
だし巻きの柔らかさの中に、うなぎの脂の甘みが包まれている。出汁の旨みがじわりと広がって、芋焼酎の香りと絡む。こんなに穏やかな料理が、なぜこんなに深いのか。
女も食べた。目が細くなった。
「……旨いですね」
「そうですね」
男が顔を上げた。
「……うなぎ、ありますよね」
「そうですね」
「白黒つけたくないって言いましたよね」
「巻いたら解決しました」
ミアが声に出して笑った。女も笑った。
渉が小皿を置いた。
「山椒です。途中でかけてみてください。うなぎの旨みが際立ちます」
二人はかけて食べた。山椒の清涼感がだし巻きの甘みを切って、うなぎの脂だけが前に出た。さっきと全然違う顔になった。
「なんで最初から——」
二人が同時に言いかけた。互いを見た。笑った。
―――
渉は白身魚を取り出した。
今夜の白身魚はスズキだ。西京味噌にクミンとコリアンダーを少量混ぜて漬け込んである。和の技法にインドのスパイスを忍ばせる。主張しすぎない。あくまで西京焼きだ。ただ、少しだけ遠い場所の香りがする。
グリルで焼く。西京味噌が焦げやすい。弱火で、じっくり。表面に焼き色がついたら、中は余熱に任せる。焦がしたら終わりだ。
皿に盛る。豆の白和えを添える。クミンを少量振る。二人分、同じ器に盛る。
「白身魚のスパイス西京焼きです」
焼き色のついた白身魚が皿に並んでいた。西京味噌の甘い香りと、スパイスの異国の香りが混ざって漂っていた。
男が箸を取り、一口食べた。
——来た。
西京味噌の甘みと旨みが広がって、スパイスの香りが後から来る。白身魚の繊細な旨みが全部をまとめる。口の中で、噛むたびに別の味が顔を出す。芋焼酎を一口飲んだ。スパイスの余韻と焼酎の甘みが絡んで、また食べたくなった。
女も食べた。目を閉じた。
「……懐かしいですね。でも知らない味」
「そうですね」
二人は黙って食べ続けた。しばらくして、男が言った。
「……訴訟の件、話せますか」
女は箸を止めなかった。
「話せます」
「今夜は弁護士なしで」
「今夜は弁護士なしで」
渉は振り返らなかった。片付けを続けた。
渉が小皿を置いた。
「柚子塩です。途中でかけてみてください。スパイスが締まります」
二人は同時にかけた。食べた。
——からし一つでここまで変わるのか。
柚子の清涼感がスパイスの重みを切って、西京味噌の甘みだけが残った。また別の顔を見せた。
「……また教えてくれなかった」
二人が同時に言った。また笑った。
皿が空になった。二人とも、箸を持ったまましばらく離せなかった。
「おいくらですか」
「三千円ずつです」
二人は財布を出した。
「旨かったです」
「ありがとうございます」
二人は並んで引き戸を出た。閉まった。ミアがビールを一口飲んだ。
「弁護士なしで、か」
「同じ飯を食いましたから」
「それだけで解決するんですか」
「解決しなくても、話せるようにはなります」
ミアは少し考えてから、グラスを置いた。
「もう一杯いいですか」
「どうぞ」
―――
翌日の朝。渉は仕込みをしながらテレビをつけた。
「ムンバイの大手IT企業二社が長年の訴訟を取り下げ、業務提携を発表しました。両社CEOは共同会見で——」
画面の中に、昨夜の二人が並んで立っていた。疲れた顔をしていたが、どこか清々しく見えた。
渉はテレビを一瞥して、出汁を火にかけた。
「まあ」
包丁を握った。
「仕込むか」




