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今夜もどこかで明かりが灯る  作者: ほろ酔いカバ
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第1話「生姜焼き」

 昨日、この路地には何もなかった。

 近所に住む老人は、三十年この道を歩いてきたが、こんな路地があることを知らなかった。深夜に迷子の猫を探していた子どもは、この路地の前を三回通ったが、一度も気づかなかった。

 でも今夜、暖簾が出ている。

 気づいた時には、そこにある。昨日はなかった路地に、今夜は暖簾が出ている。白地に墨で「渉」と書いた、小さな暖簾が。提灯の灯りが、石畳をぼんやりと照らしていた。今夜の路地は、東京だった。


 カウンター六席。テーブルなし。壁に手書きのメニュー表。

 端の席に、一人の女がいた。

 どこの国の人間かよく分からない女で、名前はミアというらしい。見た目は三十代だが、目だけが妙に古い。いつも同じ席に座り、ビールを飲んでいる。

 今夜は出汁巻き卵をつまみにしていた。

 箸を入れるたびに湯気が立つ。だし汁が滲み出て、皿の端に小さな水たまりを作っている。ミアはそれを一切れずつ、丁寧に口に運んでいた。ビールを一口飲むたびに、小さく息をつく。旨い、と言わない。言わなくても分かった。


「今日もいい出来ですね」

「十七年作り続けてますから。さすがに」

「自分で言いますか」

「言いますよ。旨いんで」


 ミアはビールを一口飲んだ。


 引き戸が開いたのは、九時を少し回った頃だった。

 男が入ってきた。三十代半ば。ネクタイは緩み、髪は少し乱れている。スーツの肩に夜露が滲んでいた。どのくらい歩いていたのか、靴の先が湿っている。

 男は店内を見回し、カウンターに目が止まった。

 ミアが箸で出汁巻き卵を口に運ぶところだった。湯気が細く立っている。ビールのグラスが隣に置いてある。

 男の喉が、かすかに動いた。


「……出汁巻き卵、ください」

 渉が振り返った。

「売り切れです」

「あ」

「卵からひよこが孵ってしまって」

 男は三秒、渉を見た。

「……そうですか」


 ミアが口元を押さえた。肩が小さく揺れていた。


「どうぞ」と渉はカウンターの席を示した。「他にご注文は」

 男は椅子を引いて座りながら、メニュー表を見た。

「生姜焼き定食と湯葉の刺身。あとおすすめを」

「苦手なものはありますか」

「特に」

「じゃあお任せで。ビールも行きますか」

「あ、はい」


 渉はグラスを取り出し、栓を抜いた。泡が静かに立ち上る。

「ビールです。今日のは特にいい感じに冷えてます」

 カウンターに置くと、男はすぐに一口飲んだ。喉が鳴った。


―――


「湯葉の刺身です。わさびと醤油で、まず一枚どうぞ」

 白い器に、薄く引いた湯葉が重なっている。わさびが小さく添えられ、醤油が別の小皿に入っていた。

 男は箸を取り、一枚つまんだ。わさびをほんの少しのせて、醤油にくぐらせる。

 口に入れた瞬間、動きが止まった。


 ——なんだ、これは。


 柔らかい。しかし芯がある。豆の甘みが広がって、わさびの辛さが鼻を抜けて、醤油の塩気が全部をまとめる。こんなに複雑なものが、豆腐から生まれるのか。もう一枚。今度はわさびなしで。甘みだけが残った。静かで、深い甘みだった。


 ——旨い。なんでこんなに旨いんだ。


 三十五年生きてきて、湯葉でこんな気持ちになったことが一度もなかった。湯葉なんて料亭で出てくる地味な一品だと思っていた。なのに今、箸が止まらない。

 ビールを一口飲んだ。

 湯葉の余韻が炭酸で洗われて、喉の奥に消えた。また飲みたくなった。また食いたくなった。この繰り返しがいつまでも続く気がした。

 男が三枚目に手を伸ばしたところで、渉が言った。


「次は塩だけで食べてみてください。全然変わりますよ」

「塩で?」

「豆そのものの味がします。醤油で食べた後だと特に分かりやすい」


 渉が小皿に塩をひとつまみ置いた。

 男は言われた通りに、湯葉を塩だけでつまんだ。

 止まった。


 ——嘘だろ。


 さっきまで醤油とわさびに包まれていた甘みが、今度は何も遮るものなく広がった。豆そのものの味だった。素材がそのまま舌の上にある感じがした。こんなに豆が甘いとは知らなかった。今まで食べてきた湯葉は何だったんだろうと思った。


「……全然違う」

「でしょう。同じ素材なのに、食べ方で別の料理になる。それが面白いんですよ」


 男はビールを飲んだ。炭酸が甘みを流して、また湯葉が食べたくなった。


―――


「茶碗蒸しです。出汁が今日はいい感じに出てます」

 小さな蓋付きの器。蓋を取ると、湯気がふわりと広がった。表面は滑らかで、薄い黄色をしている。三つ葉が一枚、中央に載っていた。

 男はスプーンを入れた。ぷるりと揺れた。抵抗がほとんどない。

 口に運んだ瞬間、出汁が広がった。


 ——温かい。


 鶏の旨み。昆布の深み。それが茶碗蒸しの柔らかさに包まれて、喉を伝っていく。温かいというのは温度の話だけじゃなかった。体の内側から、固まっていたものが溶けていく感じがした。

 もう一口。また旨い。さっきより旨い気がする。なぜ食べるたびに旨くなるんだろう。


 ——今まで食べた茶碗蒸しの中で、一番旨い。いや、今まで食べた全部の中で。


 大げさだと思った。でも大げさじゃなかった。

 男はスプーンを止めた。


「……あの」

「はい」

「これ、卵ですよね」

「そうですね。いい黄身の色でしょう」

「さっき卵、売り切れって言いましたよね」

 渉は振り返らずに言った。

「そんなこと言ってないです」

「言いましたよ。ひよこが孵ったって」

「ひよこが孵ったとは言いました」

「同じじゃないですか」

「全然違います。出汁巻き卵に使う卵と茶碗蒸しに使う卵は別ですから」

「そんな説明ありますか」

「ないですね」


 ミアが吹き出した。今度は声に出して笑っていた。

 渉は特に気にした様子もなく、次の仕込みに戻った。

 男はミアを見た。ミアはビールを飲みながらまだ笑っていた。


「……いつもこんな感じなんですか」

「まあ」と渉が答えた。「常連なんで、気にしないでください」


 男は諦めて、茶碗蒸しに戻った。もう一口。また温かかった。体の芯が少しずつほぐれていく気がした。

 渉が小皿をカウンターに置いた。


「柚子塩です。途中でかけてみてください。さっきと全然変わりますよ」


 男はスプーンで柚子塩をひとつまみ、茶碗蒸しにのせた。

 さっきまでの出汁の旨みに、柚子の香りが加わった。温かいものに柑橘の清涼感が重なって、全体が締まった。同じ器なのに、また新しい料理になった。


 ——なんでこんなに当たり前の顔でいられるんだろう、この人は。


 渉は振り返りもせず、次の仕込みをしていた。当たり前のようにそこにいる。でも出てくるものが全部、信じられないくらい旨い。


「なんで最初から教えてくれないんですか」

「順番があります」

「何の順番ですか」

「旨いものの。最初から全部出したら驚けないでしょう」


 男は少し考えてから、また食べた。文句を言う気が失せた。


―――


 渉は冷蔵庫から豚ロースを取り出した。

 仕込みは昨夜のうちに終わらせてある。生姜と醤油と味醂に、りんごのすりおろしとはちみつを少量。りんごの酸が肉の繊維を柔らかくする。はちみつは砂糖より柔らかいコクが出る。どちらも主張しない。気づかれない方がいい隠し味というのは、そういうものだ。

 皿に出して、常温に戻す。この十分を省く料理人は多い。冷たいまま焼けば、火の通りが表面と中心でずれる。外が焼けても中が硬い。客には分からない。でも渉には分かる。

 フライパンを中火にかける。油を薄く引いて、温度が上がるのを待つ。急いで焼けば肉が縮む。水分が逃げる。待つのが仕事だ、と師匠に言われたことを今でも思い出す。

 肉を並べた。じりじりと音がした。生姜の香りが立ち上る。この香りが出た時、渉はいつも少し落ち着いた。どこにいても、この香りだけは変わらない。

 片面が焼けたところでひっくり返す。タレを追加して、軽く絡める。火を強めない。強めると焦げる前に肉が硬くなる。弱火でじっくり、タレを肉に吸わせる。最後に火を止めて、余熱で仕上げる。それだけで、脂の甘さが全然変わる。

 皿に盛って、キャベツの千切りを添える。味噌汁の火を確認して、白米をよそう。

 特別なことは何もない。ただ、省かないだけだ。


「生姜焼き定食です。タレは少し甘めにしてあります」

 皿に載った豚肉は、タレで光っていた。生姜の香りが鼻を抜ける。付け合わせのキャベツの千切りが白く盛られ、味噌汁と白米が並んだ。

 男は箸を取り、肉を一切れ口に入れた。


 ——来た。


 生姜の辛さが最初に来た。次に、豚肉の脂の甘さ。タレの醤油と味醂が絡んで、噛むたびに味が変わっていく。単純な生姜焼きのはずなのに、全然終わらない。口の中で、噛むたびに別の味が顔を出す。

 白米を一口食べた。甘い。生姜焼きのタレと混ざって、また旨くなった。味噌汁を飲んだ。出汁の香りが口の中をリセットした。また生姜焼きが食べたくなった。


 ——これ、反則じゃないか。


 ビールを一口飲んだ。生姜の余韻が炭酸に乗って広がり、じわりと消えた。グラスを置いた時、なぜか息が楽になった。肩の力が抜けていた。三年分の重さが、少しだけ軽くなった。

 男は半分ほど食べたところで、箸を置いた。


「……聞いていいですか」

「どうぞ」

「仕事、辞めようと思ってるんです。三年、ずっと迷ってて」

「それで今夜、決めようと思ってここに来た」

「いや、ここに来るつもりはなかったんですけど」

「まあそうですね」と渉は言った。「で、辞めるんですか」

「……分からないです。辞めたいのか、辞めたくないのか、自分でも」


 渉はしばらく包丁を動かしながら言った。


「辞めたくないなら迷わないですよ、三年も」


 男は黙った。

「飯、冷めますよ」

 男は少し笑った。箸を取り直した。また食べ始めた。

 キャベツを口に入れた。生姜焼きのタレが少し染みていて、それだけで旨かった。白米をもう一口。味噌汁を飲んだ。

 渉が小皿をそっと置いた。


「からしです。タレに少し溶いてみてください。脂の甘さがぐっと際立ちます」


 男は言われた通りにした。からしを箸先で少量、タレに溶く。肉をつけて食べた。


 ——嘘だろ、からし一つでここまで変わるのか。


 生姜の辛さにからしの鋭さが加わって、脂の甘さが前に出てきた。さっきまでと全然違う。同じ皿なのに、また別の顔を見せた。今まで生姜焼きをこんなに真剣に食べたことがなかった。


「……また教えてくれなかった」

「さっき言いましたよ、順番があるって」

「旨いものの順番ですね」

「そうです」


 男は笑った。さっきより少し、大きく笑った。

 皿が空になった。それでも箸を持ったまま、しばらく離せなかった。


 ——生姜焼きで、心が躍るとは思わなかった。


 男はしばらくカウンターに肘をついていた。スマホを取り出し、画面を見た。退職メールの下書きを、削除した。代わりに、別のメールを打ち始めた。

 渉は片付けをしながら、それを見なかった。見る必要がなかった。


「おいくらですか」

「三千円です」


 男は財布から出して、カウンターに置いた。


「旨かったです」

「ありがとうございます。また迷い込んでください」

「迷い込めますかね」

「それは分からないですね」


 少し間があった。


「……背中、押してもらえると思ってたんですけどね」

「飯屋です。背中じゃなくて腹専門なんで」


 男は笑って、引き戸を開けた。閉まった。

 ミアがビールを一口飲んだ。


「いいこと言いましたね」

「そうですか」

「背中じゃなくて腹、気に入りました」

「ありがとうございます」

「褒めてるんですけど」

「知ってます」


 ミアはまたビールを飲んだ。


「何を送ったんでしょうね」

「明日になれば分かります」

「気にならないんですか」

「なりますよ。だから明日が楽しみなんです」


 ミアは少し考えてから、グラスを置いた。


「もう一杯いいですか」

「どうぞ。今日のビール、いい感じに冷えてますよ」

「さっきも言いましたよね、それ」

「旨いんで」


―――


 翌朝。

 渉は仕込みをしながらテレビをつけた。朝のニュースが流れていた。


 「昨夜、大手商社の田中部長が突然の昇進人事を受け、新設プロジェクトの責任者に就任することが発表されました。田中氏は——」


 画面の中に、昨夜の男がいた。プロジェクトの説明をするその顔は、今までの悩みから解放され、どこか清々しい顔をしていた。

 渉はテレビを一瞥して、出汁を火にかけた。


「まあ」


 包丁を握った。


「仕込むか」




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