第九十五話 【エビス】
シナツヒコが翔とヒルコを連れてナオビノカミのもとへ飛び去ったあと---。
ナニカは怒り狂ったように暴れていた。
無数の目からは大量の涙を流し、
無数の鼻から禍々しい瘴気を吹き出す。
無数の口からはヨダレを垂らし、
無数の耳からは穢れを撒き散らしていた。
その場に残ったツクヨミとスサノオは、ナニカとある程度距離をとって様子を見ていた。
「兄様!お怪我はないですか?」
「ないよ。…スサは?」
「俺も大丈夫です。
しかしながら…。思った以上に暴れますね…」
「しかも厄介なのは、あの垂れ流している涙とヨダレ。
アレに触れると皮膚がただれると思う」
「ええ!?そうなんですか!?」
「だってシューシューって聞こえるし」
「なかなか手強いですね!」
(それにしても…)
ツクヨミはナニカを見据える。
『ウギャあアアアアアあアアアアア!!!!!』
(この化け物は一体何なんだろう?)
邪神がちらほら現れているものの、ツクヨミとスサノオの高く強い波動と、ナニカの膨大で禍々しい瘴気におびえて姿をみせないようだ。
(皮肉…)
本当に、善と悪は表裏一体だ。
どちらにしても恐れられるのだから。
「スサ…。
ナニカはヒルコを奪われた途端、全力で暴れたしたと見ていいかな?」
抑え込むために呼び出した魑魅魍魎を、ヒルコが奪われたと同時にナニカは一瞬にして滅絶させたのだ。
「俺もそう思います。
狙いはヒルコだったかと」
「うん…。
何故だろう?」
『ウギャあアアアアアあアアアアア!!!!!』
「何はともあれ…、早く片付けないといけない。
ここは高天原にも近い」
「そうですね。
このまま暴れていたら、高天原にも葦原の中つ国にも影響はありそうです…」
ツクヨミとスサノオは、ナニカと致命的に相性が悪い。
対処法は、ただただ力でねじ伏せるしかない。
「でも…。なんだろうな。気が重い」
暴れ回るヒルコ。
その姿が。
「駄々をこねる子供みたいだ…」
ツクヨミの指摘は言い得て妙だった。
その出で立ち含め、目に映るすべてが誰が見ても震え上がってしまうほどにおぞましい。
だけど。
何故だろう。
子供が泣いているように聞こえるのだ。
子供が親をすがって泣き叫ぶような。
悲痛な声が聞こえるのだ。
こちらが罪悪感に苛まれてしまいそうな。
思わず同情してしまいそうだ。
「う、うむぅ……。
確かに…」
スサノオも複雑そうに顔をしかめる。
ぶっちゃけ、やりにくい。
そんな感じだ。
「それでも。
やるしかない。
油断したらこっちが危ないし」
「はい!」
「…本当は何回もやりたくないんだけど。
仕方ないから、もう一度魑魅魍魎を呼び出すから。スサはその間に適当に切っちゃって」
「わかりましたぁ!!」
ツクヨミは気が乗らないまま、暴れ回るナニカの背後に近付いた。
「………闇より出でよ」
ナニカは咄嗟に気配を感じ、ばっと振り返る。
瞬間、ツクヨミは身構える。
無数の目がツクヨミをとらえた。
(……………。あ)
『ウゴォォォォォォォ………………』
品定めするかのように、ナニカの無数の目はジィィとツクヨミを睨み付けていた。
「………………。
………一つ、聞きたい」
話が通じるのか?
いや、通じるわけないだろう。
わかりきっている。
しかし、無意識の行動か。
ツクヨミは口を開いていた。
「目的は何だ?」
『こォォォォォォ…………』
「目的があって現れたのだろう?」
『こォォォォォォ…………?』
「事と次第によっては交渉も考える。
申してみろ」
『こォォォォォォォ………??』
離れた場所で剣を構えていたスサノオが、ツクヨミとナニカを見て首をかしげる。
「兄様?何か話しているのか?」
ナニカは体をくねらせている。
『こォォォォォォォ………???』
「悪いようにはしない」
『こォォォォォォォォォォ????』
ナニカは混乱気味になっていた。
無数の目玉があっちこっちに動いている。
動揺していた。
(やはり…。子ども………)
ツクヨミの瞳の中のナニカは、悲痛な叫び声をあげている子供だった。
(見える…。闇に隠した姿…)
闇を造り出す。
意図せずに、相手の裏の顔、普段は見えていないものを浮かび上がらせてしまう時がある。
この世に生を受けているものすべてにおいて、隠し、見えていない部分は必ずあるものだ。
ツクヨミ自身、望まなくても見たくなくても、それらが可視化されていく。
ナニカは何かにおびえる子供だ。
「覚悟ぉぉぉーーーーー!!!!!!」
ナニカは困惑し、油断していた。
それを見逃さないスサノオが、勢いよく飛びかかった。
「待て!スサ!!」
「うおおおおおおおおおおおおおおお!!!」
振り下ろした剣が、ナニカの脳天に落ちる---------------------------
寸前。
「お待ち下さい!!!!!」
恵比寿がナニカの前に現れた。
「っっ!!!?」
ピタリと。
剣は恵比寿の顔の、一寸先で止まった。
「なっ……?何だ、お前は!?
危ないではないか!?」
スサノオが慌てて剣をおさめた。
「申し訳ございません。スサノオ様。
ですが、この【エビス】をお許し下さい」
恵比寿は足を横にして、座ったまま浮かんでいる。
そのまま頭を深々と下げていた。
「……君は足が悪いの?」
「はい。ツクヨミ様。
わたしは立てませぬ。歩けませぬ。
ご無礼をお許し下さい」
「構わない。
それより…、このナニカは【エビス】と言うの?」
「はい。
その通りでございます。
そして、このわたしの名前も恵比寿でございます」
「!?」
ツクヨミとスサノオは絶句した。
どういう事だ?
ふと気付くと。
ナニカの体が透き通っている。
シュウウウウウ……………。
「あ!?き、消えてしまうぞ!?」
スサノオが叫ぶより先に、ナニカは煙の如く消えてしまった。
消滅したのではない。
その場からいなくなった。
それだけだ。
「消えてしまったぞ!!
どこにいった!?」
スサノオが顔を真っ赤にして、キョロキョロとあたりを見回す。
「恵比寿とやら!
お前が止めるからだぞ!?どうしてくれるのだ!?」
「スサノオ様。どうかお怒りを静めてくださいませ。
失礼を承知で申し上げます。
【エビス】を切りますれば、その中から、
人類が生まれてからこれまでの、溜まりに溜まった人間の憎悪と怨念が飛び散ってしまいます。
高天原と葦原の中つ国にそれらが蔓延してしまいます」
「な?な?な?なんと?ど、どういう事だ?
わからんぞ!?
………兄様!?」
「………恵比寿よ。詳しく話して」
「かしこまりました」
恵比寿は再び頭を下げた。
ナニカは【エビス】という名前だった。