第八十五話 ぬくとみ
~~~葦原の中つ国~~~
翔とシナツヒコはファミレスを出た。
午後になると更に気温があがっている。
昨日の雨の影響か、湿気を含んだムアッとした空気に包まれた。
ジトッとした汗が肌にまとわりつく感じだ。
会計の前に、サヨリヒメは涼しげに帰って行った。
「またね、カケルくん!また来るねー♡
シナツヒコには一応、ごちそうさまと言っておくわ」
去り際の残り香が、海のにおいがして…。
「暑いから…、海行きたいなぁ…」
思わず、翔は心の声を口にしてしまった。
実際、海に行っても泳げるわけでもなく。
車椅子は砂浜では身動きがとれない。
海のにおいにつられて、ついつい妄想をしてしまった。
ちなみに翔が初めて海を見たのは、まだとても小さな頃だ。
母の生まれは横浜。
みなとみらいに近いため、象のはなパークによく遊びに行った。
公園から海を眺める事が出来る。
潮風を感じられるのだ。
とても解放的な場所で、車椅子でも歩きやすい。
翔の好きな場所の一つだ。
「何かさ……、モヤっとするよね……」
サヨリヒメの捨て台詞(?)を思い出したのか、シナツヒコは空を仰いで呟いた。
「あはは。ねぇ、シナくん。
今度さ、みなとみらいに行かない?お母さんの実家の近くなんだ。
昔はよく行ってたんだけど、最近あんまり行ってなくて…。すごくいい眺めなんだよ」
「へぇ~~!そうなんだ!行きたい行きたい!」
「象さんのアイスもあるんだよ。また食べたいなぁ~」
「何それ、かわいい!
そっかぁ。カケルくんの思い出の場所なんだね?」
「うん…。そうだね。お母さんとの思い出の場所、かな」
「そうなんだ…。
うん、絶対行こうね!」
□□
あの頃。
車椅子を押している母の顔を見たくて、体をよじって上を向いた。
「翔、危ないから前を向いててね」
目が合うと、優しく微笑んで頭を撫でてくれた。
それが嬉しくて、何度も何度も繰り返していた。
四歳、五歳くらいだった。
(懐かしいな…………)
□□
「さて、と……。今からどうする?家に帰る?」
シナツヒコはスマホで時間を確認する。
父や桜の帰宅時間まで、まだまだ余裕があった。
「そうだねー……。
…あっ!ね、せっかくだから、和真さんの様子を見に行ってもいいかな?
昨日の騒ぎもあったし、ちょっと気になってたんだ」
図書館で出会った青年。
彼は浪人生で、弟の誠は自閉症だと診断されている。
自閉症の特徴は様々だが、災害時などの不穏な雰囲気に敏感だったりする。
昨日も一時的ではあったが、いつもと違う騒々しさがあったはずだ。
誠がパニックになっていなければ良いのだが。
「そっか、そうだね。うん、行ってみようか」
「シナくん、ありがと!じゃあさ、どこかで飲み物でも買って行きたいんだけど…、いいかな?」
「了解~」
「これはぼくが払うからね」
「え?いいよいいよ。僕にまかせて~」
「え…。そんなダメだよ。さっきのお昼ごはんもごちそうしてもらったし…」
「いいのいいの。いいからいいから」
「でも……」
「僕が嫌なのはね、奢られて当然~って態度のヤツなんだよね。アレ、本っ当に嫌なんだよね~」
「あ…。あはは…。それでもさ……」
「カケルくんは気にしなくていいの!
じゃーあー~、行くよ~!」
シナツヒコが車椅子を押した。
振り向いてチラッと見上げる。
小さい頃とは違い、体をねじらなくても車椅子を押す人物を確認する事が出来る。
「…ありがとう、シナくん」
「ん?カケルくん?どうしたの?」
「シナくん、ありがとう!」
「ふふ。どういたしまして」
今日は和真の家まで歩いて行く。
最初に行った時は大雨が降っていたため、空間の移動をした。
空間移動は非常に便利だった。
一瞬で移動が終わって、目の前には目的地があるのだ。
「シナくん、和真さんの家、覚えてるの?」
「うん、一回行ったからね」
「でも、あの時は空間移動だったよね?」
「うん。だけど意外と覚えているものだよ」
(そ、そうかなぁ……。シナくん、凄い…)
方向音痴からすると、今のシナツヒコは天才に見える。
翔は地図を見る際、地図そのものを回してしまう傾向にあった。
「あ。着いたよ~~」
見覚えのあるアパート。
「ありがとう」
和真の部屋は二階だ。
エレベーターがない。
途中で買ったジュースの袋を翔が持ち、シナツヒコはおんぶをして外階段をのぼる。
「ごめんね、シナくん。重いよね?」
「全然大丈夫。僕は力持ちだからね!」
インターホンを押すと、中から和真が出てきた。
「あ…。翔…、シナツヒコさん……」
突然の訪問に、ビックリしているようだ。
それはそうだろう。
「あの、こんにちは…。
いきなりごめんなさい。昨日、大変な事があったし、大丈夫だったかなぁって…」
シナツヒコの背中から翔は挨拶をする。
連絡先をまだ聞いていなかったので、一報をいれる事が出来なかった。
「あ、ああ…、……いや、ありがとな。
心配…してくれたのか」
「は、はい。誠くんも…、変わりなかったかなって思って…」
「あ、ああ…。あ、とにかくあがってくれよ。
シナツヒコさんも重いだろうし」
翔の体重と、ジュースの重量も加わっている。
かなり重いだろう。
若干、プルプルしていた。
「……カズマくん、お気遣いありがと……。
じゃ、お邪魔…しまーす……」
茶の間では誠がコタツに入って、真剣にジグソーパズルをしていた。
良かった。変わりなさそうだ。
一安心だ。
◇◇◇
買って来たジュースをコップに注ぐ。
ジグソーパズルの作業を邪魔しないよう、コタツの隣に小さなテーブルを置いた。
そこにジュースのコップを並べ、翔達も座る。
「誠。ジュース、ここに置くぞ」
和真は声を掛けるが、誠はジグソーパズルに集中していて聞こえていないようだ。
「わざわざ様子を見にきてくれたのか?」
「余計なお世話かなとも思ったんですけど…。
昨日の雹、ビックリしましたよね…」
「マジでビビったよ。何事かと思ったぜ。
母親も、職場から帰れなくなってさ」
「え。そうだったんですね…。お母さんは怪我とかなかったですか?」
「ああ。雹が降らなくなって、しばらくしたら帰って来たよ。職場まで自転車で通ってるから」
「それは良かったです…!」
公共交通機関は再開にかなり時間がかかってしまっていた。
「だけど、道がガタガタしてて怖かったって母親が言ってたな」
雹が硬くて大きかったため、なかなか溶けなかったのだ。
「雹が屋根とかに当たって、音もうるさかったですよね?誠くん、大丈夫でしたか?」
「それも大丈夫だった…………ていうか、シナツヒコさんのおかげでな」
「え?僕?何かした?」
急に名前を呼ばれたシナツヒコは、目を丸くして自分を指差した。
「昨日の昼間……、シナツヒコさんが誠を落ち着かせてくれただろ?
あいつ、あれからずっと寝てたんだよ」
誠がパニックになって暴れていた時、シナツヒコが優しい風に包んで心を穏やかにした。
静かに眠りへと誘ったのだ。
「え。あれからずっと寝てたの?マコトくん」
「はい。夕飯の時間に起こそうとしたんだけど、二、三日眠れてなかったから…、自然に起きるまで待ってたんです。でもなかなか起きなくて、そうこうしてるうちに、雹が降ってきて…」
「ああ~。なるほど~」
「あんなにぐっすり寝てる誠、俺は初めて見てさ。安眠……って言うのかな。本当に幸せそうな寝顔で…。
シナツヒコさん、ありがとうございました」
改まってお礼を言ってお辞儀をする和真に対し、シナツヒコは慌てて首を横にふった。
「いえいえ、たいした事してないから。
カズマくん、頭をあげてよ」
「いや、シナツヒコさんのおかげなのは間違いない。何か…、何故か、そう感じるんだ」
シナツヒコの、風の神の波動が伝わっているのかもしれない。
すべてを包み込む、暖かい波動が。
「雹が降ってる時に、……誠が起きたら…。
多分、暴れまくってたと思うから…」
「和真さん…。本当に良かったですね」
翔も心から安堵した。
(シナくん、やっぱり凄い!風の神様だ!)
「あっ、そうそう!話は変わるんですけど、和真さん。
雹が落ちた時、何か壊れませんでしたか?大丈夫でした?」
「壊れた?
あー、いや……。特に平気だったかな。
屋根とか突き抜けてくるんじゃないかとヒヤヒヤしたんだけどな。
案外、大丈夫だったな」
「そうですよね……。やっぱりさすがプロですね…」
父の作ったカーポートの屋根は、最初の一撃で突き破ってきたのに。
さすが日本の技術。プロフェッショナル。
頑丈デスネ。
「あ……。俺も話が変わるんだけどさ…。
聞きたい事があるんだが…」
和真は遠慮がちに口を開く。
「はい?何ですか?」
コップにジュースを追加していた翔は顔を上げた。
「前に、さ、言ってたじゃん?
何か、誠に知的の障がいが…、どうとか」
「あ…」
しまった。
翔の顔から血の気がひいた。
何気なく言ってしまったが、やはり軽率だった。
自閉症に知的障がいが併発するケースは確かによくある。
しかし、併発していないケースも勿論多々ある。
センシティブな部分を、例え悪気がなくてもポロッと言ってしまったのは良くない。
「ご…、ごめんなさい!ぼく、そんなつもりなくて…。嫌な気持ちにさせてしまって………」
「あ、違う違う!責めてるんじゃねーんだ!」
真っ青になって謝る翔を見て、和真も急いで訂正する。
「ちょっと……、調べてみたいんだ。
母親にも相談して、ちゃんと調べてみようってなったんだ」
「え……」
「今まで……、正直、目を逸らしてた所もあったんだよ。誠の…事…をさ。
俺は…、関わりたくないって思ったりしてたし、母親も…、先延ばしにしてたりして…」
「和真さん…」
「年下のお前に聞くのも…何かアレだけど…。
また色々相談にのってほしい…」
「はい!もちろんです!
僕もあんまり詳しくないけど…。僕のお父さんに聞いてみますし。
何より、誠くんと同い年ですから。
友達になりたいです」
「あ…ああ。…ありがと、な」
「ふふふ。良かったね、カケルくん。
一気に友達が増えたね」
「うん」
バン!!
机を思い切り叩く音がした。
「出来た!出来た!」
ジグソーパズルが完成した誠は、勢いよく立ち上がる。
「兄ちゃん、出来た!」
和真に向かって叫ぶ。
「おお。うまく出来たな」
「やった!兄ちゃんに褒められた!褒められた!」
嬉しくてピョンピョン飛び跳ねている。
階下の住人からまたクレームがきてしまいそうでドキドキするが、翔も何だか嬉しかった。
「マコトくん、カズマくんが大好きなんだね」
コソッとシナツヒコが耳元でささやいた。
「うん。そうだね」
数分後、大家さんから電話がかかってきた。
案の定、階下からクレームがきてしまったようだ…。
反省。