第七十七話 願い
葦原の中つ国~~~人間界~~~
シナツヒコとホノイカヅチが高天原に向かって何分か過ぎた。
翔は自室のベッドの上に腰掛けている。
眠るヒルコを抱き締めていた。
(シナくん!ホノくん!)
ぎゅっとヒルコを抱く力が増す。
極めて稀な災害だ。
かつてないほどの硬い雹が、日本中に降り注いで莫大な被害になりつつある。
(シナくんホノくん…!!)
どうすればいいのか、何をすればいいのかわからない。
第三の目が開いても。
波動を高く強くしても。
所詮、何も出来やしないのだ。
誰かを助けたい、なんて。
おこがましいにもほどがある。
所詮、誰も助けられないのだ。
無力感に苛まれる。
腕の力がますます強くなった。
ぎゅううううっ!!
『ピッ!?』
抱き潰されそうになったヒルコはビックリして目を覚ます。
『カケ…ルくん?』
「……………」
翔にはヒルコの声が聞こえていない。
『カケル…くん?』
「……………」
返事はない。
「…………」
………ポスン!
不意に、翔の上半身はベッドの上に倒れた。
『カケルくん…?』
緩まった腕からモソモソと這い出た。
『カケルくん?どうしたの……?』
心配そうに翔の顔を覗き込む。
「スー…。スー……」
眠っていた。
『なんだ…。良かっ…た…』
一安心したヒルコはホゥとため息をついた。
突然眠ってしまうとは。
精神的にギリギリだったのだろうか。
ヒルコは翔の上半身にタオルケットをかけた。
バタバタバタバタバタバタバタバタバタバタ!!
大きな足音が聞こえてきた。
『?誰か来る…?』
バタン!!
勢いよく部屋の扉が開く。
「翔!翔!?」
父が興奮して部屋に入ってきた。
翔以外の人間に、ヒルコは姿を見せないようにしている。
そのため、父には部屋に翔が一人で眠っているように見えている。
実際には翔のそばにはヒルコがいた。
「あ………。寝てたのか…。すまんすまん…」
慌てて口をおさえる仕草をした。
泥のように眠る翔を見て、安堵したように囁く。
「翔。雹が降らなくなったぞ。
ただ、台風は消えてないから雨は凄い降ってるけどな…」
眠る翔を起こさないように、そっと両足をベッド上に持ち上げようとした。
ムニュニュニュ!!
「ん?」
この時、何故か翔の両足が何かに当たったような感覚を覚えた。
柔らかい何かに当たった。
「ん?ん?何だ?」
ムニュニュニュ!!
『アッ!』
ヒルコは机の上に飛び移った。
急に目に見えない障害物がなくなったものだから、両足を持つ手を離しそうになってしまう。
「あっ?あれ?な、何だ?」
父はビックリしてキョロキョロしながらも、翔をベッドの上に仰向けに寝かせた。
「??気、気のせいか…?」
頭をボリボリかく。
ベッドまわりをじろじろ確認するが、何の変哲もない。
「気のせいか……?」
置いてあったタオルケットをお腹の上にかけた。
「おやすみ」
パチン。
電気を消し、扉を静かに閉めた。
人の気配が消えたと感じたヒルコは、机からベッドに飛び移る。
『カケルくん……』
ヒルコは不安げに翔の寝顔を見詰めていた。
シナツヒコとホノイカヅチが高天原に飛び立って一時間もたたないうちに、葦原の中つ国に降っていた雹は消え去った。
甚大な被害が出ないうちに、無事おさまったのだった。
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翔は意識が飛んでいくように睡魔に襲われた。
その間、不思議な夢を見ていた。
「カケルくん」
誰かが翔を呼んでいる。
(誰……?)
「カケルくん」
優しく儚い声だ。
(誰……?)
目を開けて確認したい。
だけど瞼がとても重かった。
「カケルくん」
(誰?誰なの?)
ようやく、おもむろに目を開ける。
しかし。
目の前は真っ白だった。
「え?え?」
見渡す限り、真っ白の世界だ。
すぐに夢だとわかる。
「ゆ、夢だよね」
自分のほっぺたをつねる…という、ど定番の行為をしてみる。
「う、うん。夢だ…」
こんな自覚のある夢は初めてだ。
「夢だとわかったとして…。どうすれば……」
ハッとする。
さっきの声の主は誰だ?
「えっと………」
もう一度見渡す。
「誰も…いない…よね…。でも……」
声の主が気になる。
真っ白で何もないが、その声の主を探そうと足を踏み出した…………。
「え??あ、足……………?」
底無しの、違和感---。
おそるおそる足下を見た。
…………立っていた。
翔は立っていた。
「ぼく………。立って……る………?」
声が震えてしまう。
「立ってる………?」
どうやって立ったのだろうか?
立ち方なんてわからない。
どうやって立ったのだろう?
ああ、わからない。
だって立ったことがないのだから。
ぐるぐると思考が巡り、頭の中が焼き切れそうだ。
意識した瞬間、足がガクガクしてきた。
「あっ!あっ………!?」
(倒れるっ!!!)
足から力が抜けて、そのまま翔の体は後ろに倒れそうになる。
「わっ………!!」
咄嗟に目を瞑った。
「大丈夫だよ」
フワッと暖かな両手で誰かが支えてくれた。
「え………?」
目を開けると、後ろから翔の両肩を支えている男性がいた。
ニッコリ微笑んでいる。
(あれ…?どこかで……)
見覚えがある。
だが、思い出せない。
しかも今はそれどころではなかった。
「あ…。ありがとうございます…」
これは夢だ。
一瞬、ほんの一瞬でも、この足で立てて満足だ。
「す、すみません…。ぼく、本当は立てないんです。このまま座らせてくれませんか?」
支えてくれている男性に頼む。
翔の足にはもう力が入っていない。
全体重がこの男性にのしかかっている。
相当重いはずだ。
「大丈夫。カケルくん」
(あ…。この声、さっきぼくを呼んだ声だ……)
「カケルくん。イメージしてごらん。立っている姿を」
「へ?」
男性の突拍子のない提案に、間延びした声を出してしまう。
「頭の中で、立っている姿を想像して」
「ええ?あ、あの…?」
支えている翔の両肩をグイッと前に出した。
「わっ!?や、やめてください!」
つんのめりそうになる。
「イメージするんだ。想像するんだ」
「イ、イメージ…?想像…?」
夢の中でイメージや想像をする、とは…?
よくわからない状況に陥っていた。
この男性、口調は穏やかだけど、言う通りにしないと座らせてくれない雰囲気があった。
「わ、わかりました……」
翔は渋々応じた。
イメージする。
立っている姿。
いや、違和感が半端ない。
想像する。
立っている姿。
いやいや、違和感がエグい。
だけど。
「……………」
少しだけ。
ほんの少しだけだったが。
イメージしていると…、だんだんと…。
受け入れられた……気がした。
男性はまたニッコリ微笑む。
「ほら」
両肩から手を離した。
「わ!わ!わ!」
グラグラっと体が揺れた。
「カケルくんは立てるんだよ」
「わ………」
足に力が入った。
体が安定した。
立てた。
「わぁ…」
先程は驚いてわけがわからなくなってしまったが、今、改めて立っている事を実感した。
感極まりない。
夢の中だ。
夢の中なのはわかっている。
夢の中でも構わない。
今まで夢の中でさえ、立つ事が出来なかった。
そんな夢を見た事がなかった。
「あ、歩けるかな……」
思わずその先を求めてしまう。
「もちろん。イメージしてごらん」
「は、はい」
歩くイメージ。
(ぼくが、颯爽と歩いているイメージ……)
足を出してみる。
「あ………」
もう片方の足も出してみる…。
「あ、歩いた………」
生まれて死ぬまで、自分の力で立って歩く事は絶対にない---。
そう医師に言われ、自分でも思っていた。
もちろん、夢だ。
夢の中だ。
それでも。
「嬉しい……………」
「ぼく、嬉しい………」
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~~翔の部屋~~
『なみだ………?』
ヒルコは眠る翔の瞳から、涙がこぼれている事に気が付いた。
『カケルくん…?』
涙を優しく拭う。
そしてまた、一滴涙がこぼれた。
『カケルくん……』
ヒルコはもう一度、優しく涙を拭った。