第六十六話 ダウト
二杯目のコーヒーを淹れる事にした。
ホノイカヅチが豆を挽いている。
翔はその様子をボゥ…と見ていた。
コーヒーミルのハンドルをゆっくり回す。
ゴリゴリゴリゴリ…。
心地いい音がする。
ゴリゴリゴリゴリ…。
「カケル…。ごめんな」
「えっ?」
ハンドルを回すが止まる。
「ごめん…。カケルが…神々から警戒されて…。
不愉快だよな?本当にごめん……」
苦しげな表情だ。
「ごめん…」
「そんな…。全然大丈夫だよ?ホノくんは悪くないよ?」
「いや…。多分、俺とシナのせいかもしれない……」
「え?何で?」
「俺とシナが…。必要以上にカケルと関わっていたから……」
「え…?そうかなぁ?そんな事ないと思うよ?」
「カケルが生まれた時にヒルコの気配があって。
それからずっと見ていて………」
「ホノくん?」
「ごめん……。カケルに執着してたのかもな、俺達」
「そんな事ないって!だってヒルちゃんがいたからぼくを見てたんでしょ?それだけだよ!」
「………カケル」
「それにね、ぼく……嬉しかったんだよ。生まれた時からホノくんとシナくんに見守ってもらえてたんだなぁって」
「そ、そうか………………」
肩の荷が下りたのか、表情がやわらぐ。
「ね、ホノくん。話はかわるんだけどさ。
今さ、ヒルちゃんは記憶を失っているでしょ?何でかなぁ?」
「いや、わからない…。まだ謎だよな」
「うん……。
でもさ、もしかしたら何か意味があるのかも…って思うよね?」
「ああ、確かにそうだな。
………それと、もう一つ。気になる事がある」
「気になる事?」
「ごめん…。嫌な事を思い出させてしまうが…。
夏休み前の…。カケルの教室だ」
「あの…、終業式の日の?」
一学期の終業式が終わった教室。
翔が一部のクラスメイトから口汚いヤジを飛ばされた。
他のクラスメイトは見て見ぬふりだった。
そして友達の卓巳に車椅子を蹴られた。
「あの時、カケルの教室の波動が突然下がった。
しかも、かなりのスピードで下がった」
「うん…。それもあってホノくんとシナくんが……」
生徒達に姿こそは見せないが、ホノイカヅチとシナツヒコの力が怒りとともに放たれた。
雷と風の力が引き起こされ、窓ガラスが割れて机も椅子もなぎ倒された。
「波動が一気に下がったから、邪神も一気に引き寄せられるはずなんだ。だけど……。
………いなかったんだ」
「え?それって…」
「そして…カケルの中からヒルコが現れた」
遠い昔。
シナツヒコと出会い、ホノイカヅチと出会った頃の…。
その時のヒルコが現れた。
「そのあと、ヒルちゃんはまたぼくの中に入っちゃったよね」
「…………………」
ホノイカヅチの眉間のシワが深くなる。
何とも釈然としない……という顔だ。
「ホノくん?」
「……………あの時の教室には邪神が寄り付けないようなナニカがいたんだと思う。
俺もシナもわからなかった……」
「う、うん…」
断定は出来ないが、ヒルコの記憶が失われたのもあの日からだろう。
あの日、あの時、あの場所で。
ナニがあったのか…。
今はまだ皆目見当がつかない。
だけど…。
翔は明るく切り出した。
「とりあえずさ、神様たちに警戒されてたとしても、ぼくとヒルちゃんにはそんなに影響はないからさ!大丈夫大丈夫!」
「………カケル」
「大丈夫だと思うんだ!まだまだわからない事はたくさんあるけどさ!
うん!ぼく、何とかなるような気がするんだ!」
「あ……………………。
フフッ…」
「え?ホノくん?」
ホノイカヅチは口を押さえて下を向いた。
僅かに肩が震えている。
「い、いや、ごめ………
フフッ…」
「笑っ…、笑ってない!?ホノくん!?」
「ごめん…。悪い。………いや、何か……。
カケル、前向きになったなって………」
「え!」
「………ありがとう」
「あ……。あははは…。うん……!」
一歩一歩、前に進めているのかもしれない。
「あっ!
ホノくん!コーヒー豆、早く挽かなきゃ」
「あっ!やべっ…!」
コーヒーは挽きたてが一番美味しいのだ。
ゴリゴリゴリゴリゴリゴリ…。
再び耳当たりの良い音が響く。
◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎
リビングのソファーにはシナツヒコとサクヤヒメが無言で座っていた。
「初めはさ………。
………僕達もさ、高天原の異変にヒルちゃんが関係してるんじゃないかって思ってたんだよね………」
沈黙を破ったシナツヒコは両足を抱え、体を軽く揺らしながら続ける。
「でもさ、今はヒルちゃんは関係ないって思ってる。
思ってるんだけどさ…………」
「それならそれでいいと思うわ。他の神々の言う事に耳を傾けなくても……」
「うん。………わかってる。
わかってるんだけど」
ソファーから立ち上がる。
窓から見える空は雲に覆われていた。
「でも、心の奥ではまだ消えていないんだ。
ヒルちゃんは……………………」
言葉を飲み込んだ。
シナツヒコは固く目を閉じる。
(ヒルちゃんは………。
怨みがあるかもしれない。
……捨てられた……怨みが……)
ぎゅっと強く拳を握る。
(その怨みは…。高天原に…。
そして…葦原の中つ国にも向けられるかもしれない……)
静かに目を開いた。
(ヒルちゃんを信じてる。
信じている。
だけど………。もしかしたらという思いが……………)
「……………消えない」
小さく呟いた。
「シナツヒコ?どうしたの?顔色が悪いわ」
サクヤヒメは心配そうに見上げる。
「眉間のシワが凄いわ。横になった方がいいわよ?」
「あっ………。う、ううん。…………平気だよ…」
◎◎◎
「お待たせ~。コーヒー出来たよ~」
翔とホノイカヅチがリビングに戻ってきた。
湯気が立ち上るコーヒーカップをテーブルに並べる。
ヒルコはソファーの上で穏やかに眠っていた。
『スピー』