第五十七話 目標
「あ…。月だ…」
翔の部屋の窓から、下弦の月がぼんやり浮かんでいるのが見えた。
ヒルコはとっくに眠っていた。
『スピー』『スピー』
可愛い寝息をたてている。
寝る前のこの時間。
翔にとって、一番リラックスして、一番好きな時間だ。
シナツヒコは漫画を読み、ホノイカヅチはワイヤレスイヤホンで音楽を聞いている。
翔はカレンダーを見た。
(あと一ヶ月くらいか…)
その日に赤ペンでマルをつける。
(ふう……)
ぼんやり浮かぶ月を、もう一度見上げた。
◎◎◎
おそらく、どこの家庭もそうだろう。
帰宅してから、夕食、お風呂、洗濯物など…、夕方から夜にかけて、とにかくやる事が多い。
以前は、父がすべてを担っていた。
翔も出来るだけ手伝いをしてはいたが、いかんせん出来る事は限られてしまう。
〈子供達のハンデを言い訳にはしたくない〉という、父の自尊心もあったのかもしれない。
絶対に不満や愚痴を言わなかった。
だけど、常に寝不足だ。
しかし、今はシナツヒコとホノイカヅチが積極的に手伝ってくれている。
父の負担はかなり減った。
感謝してもしきれない。
◎◎◎
翔がマルをつけた日。
桜の誕生日だった。
それは母の命日でもある。
この日が近づくと、いつも思い出す事があった。
最期の時、母は翔に何かを言ったのだ。
病院のベッドの側で、泣き喚いている翔の頬を撫でながら。
何かを言った。
翔はどうしても思い出せない。
毎年、モヤモヤしていた。
◎◎◎
(そういえば……)
不意に、ある光景が頭に浮かんだ。
一度だけ父の涙を見た事がある。
真夜中。
トイレに起きた翔が、リビングのソファーで泣いている父を見たのだ。
母の写真をもって、肩を震わせ声もなく泣いていた。
その時からだろうか。
出来る限り、迷惑をかけないように。
出来る限り、普通であるように。
翔の中のそんな心情が、まるで鋼鉄の鎧を着ているかのように、硬く重くのしかかっていった。
◎◎◎
「カケルくん、そのマルって何?」
漫画を読み終わったのか、シナツヒコはカレンダーを指差した。
「あ、これ?桜の誕生日」
「へぇ、そうなんだ!」
ホノイカヅチがイヤホンをはずす。
「サクラ、いくつになるんだ?」
「えっとね、今年九才かな。……ちなみにさ、ホノくんて何を聴いてるの?」
「ん?」
「音楽」
「ああ…。Ado、YOASOBI、King Gnu」
「イマドキだね!?」
「だろ?」
◎◎◎
「ホノくん、シナくん。そろそろ寝ようか?」
そろそろ夜も更けてきた。
「そうだね~!」
ウーンと背伸びをする。
「おやすみ、カケル」
ホノイカヅチが部屋から出ようとした時。
「あ!そうだそうだ!寝る前に一つだけ!」
シナツヒコがホノイカヅチを強引に椅子に座らせた。
「痛…。…ったく、何だよ?」
「ゴホン」
わざとらしく咳払いをする。
「シナくん、どうしたの?」
「カケルくん。明日からさ、波動を強くする練習…、してみる?カケルくんも、強くしたいって言ってたよね?」
「えっ…!波動を強くする練習?」
「うん。そう。それと、カケルくんの波動は今は高いんだけど、常に高くしておく練習とかも。波動は感情や環境に凄く影響されちゃうからね。高低、強弱がどうしても……だからさ」
「あ…。うん。ぼく、結構ブレやすいかも…」
自分を卑下する瞬間などは、波動は地の底についているかもしれない。
「第三の目も開いたし。いつもいつも波動を高く強くしておく事が出来たなら、第三の目がもっと見やすくなると思うよ」
「え、本当?」
額をさすってみる。
「…そうだな。そうなったらカケルの第三の目で、波動だけではなく人間の魂も見えるようになるかもな」
ホノイカヅチは納得したように頷いた。
「え!魂も?……え、えーっと、魂ってどんな感じ?怖い感じ?」
少し…、いや本当にびびってしまう。
「別に怖くねぇって。…見たらわかる。……それに、多分、魂を見たら……」
「見たら…?」
「価値観、変わるかも」
「えー?価値観?」
価値観を変えてしまうほどなのか。
「どう?どう?カケルくん?練習してみない?」
「う、うん…。
ぼくも、強くなりたいと思った。誰かを、何かを護れるなら護りたい…。
…うん。うん!ぼく、頑張るよ!」
「よし!決まりだね!
だけど、そんなに肩肘張らないで。そんなに頑張らなくてもいいよ。
全然厳しい練習じゃないから。安心して」
「うん!!」
波動を高く強くする。
強く、強くなって、こんな自己否定の塊の自分でも誰かを助ける事が出来たら…と思う。
だけど、現実もわかっている。
それだけでは憧れたヒーローのような、正義の味方になったりはしない。
そんな事よりも、翔には目標が出来た事が嬉しかった。
今、学校に通えない。
やはり羞恥心は消えない。
翔自身も、恥ずかしい事ではないのだという事はわかっている。
わかってはいるのだが、どうして拭えないのだ。
そんな時に、やるべき事が出来た。
ただただ、嬉しかった。