第四十一話 コノハナノサクヤヒメ
夜明け前の、水平線の果て。
空が赤く赤く染まっていく。
赤い色の中に真っ黒なインクを落としたように、黒い波紋が広がる。
禍々しい空は、夜が緩やかに明ける頃には消え去っていた---。
始まっていた何かが、だんだんと動き始めていた。
海の上に、白い光が浮かんでいる。
白い光はゆっくりと人間の形に変わっていった。
憂いを帯びた顔で空を見上げている。
「もう止められない…。もう止められない…。天と地が…、すべてが混ざり合う…………………」
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「お……お………と…………げ…………………………。……………ハッ…」
自分が発した声で、翔は目が覚めた。
「ん?今、ぼく、何か言った……?」
『スピー』『スピー』
隣には幸せそうに眠るヒルコがいる。
ヒルコの声ではない。
確かに自分の声だと自分に確認する。
「あれ……?ぼく…何を言ったっけ…?」
カーテンの隙間から朝の光が漏れていた。
「何だっけ……?」
『スピー』『スピー』
◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎
「翔、行ってくるな!」
時間を気にしながら、父が桜と一緒に車で出発した。
会社の前に、桜を支援学校に送っていく。
いつもの光景だった。
ただ一つ違うのは、翔はまだ夏休みの延長にいる事だ。
父は責める事なく、翔の意思を尊重してくれている。
とても有難い………。
「はぁ…………」
車が見えなくなるまで見送っていた……。
今日はバイトのシフトが入っていて、シナツヒコとホノイカヅチは朝から出掛けている。
カチカチカチカチカチカチ……。
リビングの時計の音が、とてもうるさく感じる。
「前向きに…頑張ろうって、決めたのにな……」
朝、皆が出掛けたあとのシン…と静まり返るこの時間は、何かに急かされているような、責められているような…そんな感覚に襲われる。
一番嫌いな時間だ。
「少し…、散歩しようかな……」
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近くの公園に来た。
ぐるりとまわりを見渡すとチラホラ人がいる。
ベンチでノートパソコンを打っているサラリーマン風の男性。
未就学の子供をジャングルジムで遊ばせて、見守っている若い女性と、まだ数ヶ月の赤ちゃんを抱っこひもで抱いている若い女性。
おしゃべりに夢中のようだ。
おばあちゃんと孫だろうか。
女の子がブランコから手を振って、それに優しく手を振り返している。
翔が公園に入ると、気付いた若い女性二人がチラッと見て少しコソコソと話す。
こんな時間に学校に行っていないからだろうか。
それとも車椅子だからだろうか。
「はぁ………」
デパートでも、公共の施設でも、電車でも、一度は全身をサラリと見られる。
そこに他意はなかったとしても。
「溜め息ばかりだなぁ………」
桜の木の下で車椅子をとめた。
まだ緑色の葉っぱをつけている大きな桜の木は、風が吹くたびにサワサワとなびいている。
うつ向いて目を閉じた。
(…………前向きに………)
「はぁ……」
フワリ……………。
「えっ………」
花の香りが漂って、気配のようなものを感じた。
目を開けて横を見ると---。
華やかで美しく、優しい雰囲気の女の人が隣のベンチに座っていた。
いや、女神だ……と、翔は直感する。
淡いピンクの瞳と、柔らかな長い髪をふんわりと花飾りでまとめている。
目が離せなくなるような、愛らしい女神様。
「あ、あの……。えっと……」
頬が火照るのを感じながら、翔は高鳴る鼓動を押さえて声を出した……が、口ごもってしまう。
「え、えっと……、あの……」
「はじめまして、カケルくん。私はコノハナノサクヤヒメと申します。サクヤって呼んで下さいね」
ニッコリと微笑むその顔は、まるで満開の桜のように艶やかだ。
「あ!あなたが……!」
シナツヒコとホノイカヅチが言っていた事を思い出す。
「シナくんとホノくんに会った時、この公園の桜を咲かせてくれたんですよね!」
「あっ………。それは……」
今度はサクヤヒメが翔よりも顔を真っ赤にさせた。
「ご、ごめんなさい。あの時は………。カケルくんを見ていた時に…、急にシナツヒコとホノイカヅチが来たからびっくりしてしまって……。つい、桜を咲かせてしまったの」
「ぼ、ぼくを見てた………?」
「ご、ごめんなさい。勝手に見てしまって……」
「い、いえいえ!それはいいんですけど……。ぼくを知っていたんですか?」
「うん。知っていたわ。以前から、シナツヒコとホノイカヅチに聞いていたの。魂の綺麗な子がいるって。だから…、私、気になって…。カケルくんがまだ小さい時に見に行ったの」
「そ…そうだったんだ…。気付かなかった…」
「ふふふっ。小さい頃のカケルくん、本当に可愛かった。そして、本当に魂が綺麗だった……」
「あ………、ありがとうございます……」
「ふふふっ」
翔とサクヤヒメはクスクスと笑い合った。
「魂もね、磨けば綺麗になるのだけれど。どうしても生まれ持った輝きには及ばないの。カケルくんは生まれつき魂が綺麗なの」
「あっ……。そ……そうなんですか………。だけど………でも、ぼくは………」
下を向いて自分の足を見つめる。
(魂が綺麗とか……、そんな事よりも……。足が………)
「ぼくは………」
サワサワサワサワサワサワ…。
「…うん、そう……よね。だったらどうして?って、思うわよね…」
思いを察したサクヤヒメは、優しく翔の代わりに言ってくれた。
「……………」
「先天的に…、ハンデを持っている人間が生まれてしまうのかは…、何故なのか、高天原でもまだわかっていないの…。ごめんなさい…」
「えっ!あっ!いえ!サ、サクヤヒメ…様のせいじゃありませんから…。ごめんなさい…」
慌てる翔に、サクヤヒメは小さく笑う。
「カケルくん。“様”はいらないわ。あと、敬語もいらないわ」
「あ、じゃあ…、サクヤヒメさんで…いいです…じゃなくて、いいかな?」
「ええ。ありがとう」
サワサワサワサワサワサワ…。
桜の葉っぱが風に揺れている。
「私ね、人間が大好きなの」
サクヤヒメは桜の木を見上げると、おもむろに話し出した。
「え?」
「だからね、カケルくんだけじゃなく、たくさんの人間を見てきたの。ずっと、ずーっとね」
「ずっと……?」
「うん。……そうね。人間は過ちもたくさんあったわ。だけど、それと同じくらい喜びも」
「………うん」
「これは私の感じた事なのだけど。先天的にハンデを持っている人間や、大人になっていく過程で、うまく生きられないと感じる人間は必ず魂が綺麗なの。その理由はわからないのだけれど……。魂が綺麗な人間は、生きる事が大変な傾向にあるみたい」
「え~…。それは…、どうして……」
「ごめんなさい。それはわからないの。だけどね、ハンデを持っていたり、生きづらい人間達も、志を高く持って立派に生きている姿を見てきたわ。ずっと昔から見てきたわ」
サワサワサワサワサワサワサワサワサワサワ…。
また風に吹かれて桜の葉っぱがそよいでいる。
その風に乗って、サクヤヒメから桜の香りがした。
桜の花びらが舞っているような、そんな感覚だった。