第二百話 調和する
【葦原の中つ国・現代日本・淡路島】
『ひょひょひょ…。
愚かなヒルコよ。
隠れていれば良いものを………』
渦潮の上に浮かぶ影法師ナニカ。
人間の形をした黒い影が笑っている。
ヒルコは三つに分裂した。
【身体】はヒルコ。
中身は空っぽだ。
【魂】は恵比寿へと生まれ変わった。
そして【思考】は、人間の持つ負の感情を溜め込んだ影法師ナニカになった。
影法師ナニカは❝立て替え❞という名の、この世界の❝破壊❞を企てている。
「か……、影法師ナニカ……!!
お……、お前は…、ぼ、ぼくの【思考】だろ!
かっ…、勝手な事は……、
ゆ、ゆ、許さない…………ぞっ!!」
ぷるぷると震えながらも、ヒルコは勇ましく❨?❩
影法師ナニカに向かって叫んだ。
しかしながら…。
足湯の長椅子の上から動く事が出来ない。
負の感情を膨大に溜め込んだ影法師ナニカの邪悪な波動は、この辺り一帯を瞬時に恐怖へと陥れるほどに凶悪だ。
身体がぞわぞわする。
それほどまでに、影法師ナニカという存在は醜悪で不気味なのだ。
『ひょひょひょ。
強がりほど間抜けなものはない。
ヒルコ、恥をさらすな。
お前はわらわの器となるもの。
もっと崇高であれよ』
「…よっ、余計なお世話だ……ぞ…!!」
『わらわの願いを実現させるには不本意ではあるが…、
どうしても実体が必要でな。
そのためにパラレルワールドに渡り、ヒルコ姫の身体を乗っ取ってやろうと思っていたのだが…。
思いの外、パラレルワールドへ移行する段取りに手間取っていたのだ』
「え!?
パラレルワールドのヒルコ姫を!?
ど、どうして……?」
『わらわの【思考】を受け容れる器は、やはりわらわの【身体】でなければならない。
この世界のヒルコ…、お前の所在が不明だったのでな。
気配を消したお前を探すより、パラレルワールドのヒルコ姫を探す方がよっぽど楽ではないかと思ったのだ』
「な…っ!?
ヒ、ヒ、ヒルコ姫…は……関係ないだろ!?」
『ふん。
何を言う。
既にパラレルワールドのセオリツヒメがこちらの世界に干渉してきているのだぞ?
今やこちらの世界とパラレルワールドの一部分は融合している。
まったくの無関係ではあるまい』
「………ゆ……、融合…」
『ひょひょひょ…。
だが、面倒な手間が省けたぞ。
お前自身がわらわをこの場に呼び寄せた。
ひょひょひょ。
そんなにわらわの器になりたいか?
望みを叶えてやるぞ?』
この世のものとは思えないくらいの薄気味悪い笑みを、影法師ナニカは浮かべていた。
「………影法師ナニカ。
キミを呼び寄せたのは私だよ」
落ち着いた声色で、恵比寿がふわりと宙に浮かび上がった。
渦潮の真上にいる影法師ナニカの目の前で止まる。
束の間、沈黙が流れる。
渦を巻く波の激しい音だけが轟轟と唸っていた。
『お前…………。
ヒルコの【魂】か』
「………そう。
私は恵比寿。
ヒルコの【魂】の生まれ変わりだ」
『生まれ変わりだと?』
「そうだよ。
私は恵比寿という神に生まれ変わった」
『ほぅ……。
なるほどな』
「ようやく揃ったね?
三つに分かれた私達が」
『ひょひょひょ…。
これはこれは驚いた。
【魂】がまるで違う神に生まれ変わる事があるものなのか…』
「………私という存在は、ヒルコに与えられた命そのものだ。
今のヒルコには新しい魂が宿っているんだよ」
『新しい魂…?』
「ヒルコには今、カケルくんの魂の欠片が宿っている。
まだ弱くて小さな魂の欠片を、強く大きく磨いていく使命がヒルコにはあるんだ」
『カケル?
あの人間の魂か?』
「カケルくんの魂は…、
本当に清らかで綺麗で…。
充分に磨かれている。
だけどヒルコの中に宿る魂は、ほんの一欠片だ。
これからヒルコが磨いていかなければ…」
『なんと穢らわしい!!!!!』
影法師ナニカが放った怒号が、恵比寿の言葉を遮った。
激昂の衝撃で空気が震える。
その波紋が、恵比寿とヒルコの身体中にびりびりと痛みとともに伝わってきた。
『人間の魂を宿しただと!?
穢らわしいにもほどがある!!
ヒルコよ!!
恥を知れ!!』
影法師ナニカの逆上は止まらない。
人間の形をした影法師ナニカの黒い影が、四方八方にニュルニュルと伸びる。
あっという間に、その姿は人間の形をとどめなくなり、真っ黒の巨大な土蜘蛛のように変容していた。
「………………キミは何もわかっていない。
人間の魂には神が宿っている。
私達が同じ次元に存在するゆえんだよ」
『黙れぇぇぇ!!
神が私利私欲にまみれた人間と同じであるものかぁぁぁ!!』
「………影法師ナニカ。
それは矛盾していないかい?
ではキミに問いかけよう。
何故キミは人間の負の感情を集めているの?
人間の負の感情を集め、キミの腹の中にたらふく溜め込んでいるんだろう?
それは穢らわしくはないのかい?」
『ぐっ…………………!!!』
絶句。
巨大な土蜘蛛の形に変化した影法師ナニカは、途轍もなく悔しそうに何十本とある黒く細い足をくねくねと動かした。
何とも気持ち悪い光景だが、恵比寿は至って冷静に話を続ける。
「キミはヒルコの身体に戻るといい。
その身に溜めた負の感情を手放し、ヒルコの身体に戻れ。
その方がキミの幸せに繋がる」
『な……………、何だとぅ……………?』
その瞬間、影法師ナニカの波動が醜悪に地を這い回る。
陰湿で邪悪な感覚だ。
「キミは負の感情を持ち続けた末路を知っているかい?」
『ま、ま、ま、末路……………だとぅ?』
「負の感情を持ち続けてしまうと、魂の緒が極限まで捻れるんだ。
そうなると人間はね、“ハタレ”というモノになってしまうそうだよ」
『失敬なぁぁぁ!!
黙れ黙れ黙れ黙れぇぇぇぇ!!
わらわを人間ごときと同一にするなぁぁぁぁぁぁぁ!?!?!!』
「神も同じだよ。
負の感情を溜め込んだ結果、怨嗟に汚染された波動は地獄の業火となって持ち主の身体を焼き尽くす。
その時の苦痛は耐え難いものだそうだ」
『なぁっ…………!!!?』
「それほどまでに、怨念、恨み、妬み、嫉み、憎悪という感情は恐ろしいものなんだ。
早く手放した方がいい」
『黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!』
影法師ナニカの絶叫が轟いた刹那ーー。
渦潮の勢いが甚だ猛烈に極大し始めた。
ゴゴゴゴゴゴゴゴ!!!!!
巨大波が、一気にアミューズメントパーク内に押し寄せる。
「うわっ!?」
長椅子の上にいたヒルコに襲い掛かる大波。
ヒョイッ。
間一髪、恵比寿がヒルコを抱きかかえて上空に飛び上がった。
「大丈夫かい?ヒルコ」
「う、う、うん…。
ありがとう……」
みるみるうちに、海面が渦潮に呑み込まれてゆくー。
ー不意に、アミューズメントパークにあった街灯の明かりがぷつりと消えた。
周囲全体が真っ暗闇に包まれる。
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ……………!!!!!!!!!!!!!!!
暗闇の中で、猛り立つ波の音が反響している。
恐怖を感じ、ヒルコはぎゅっと恵比寿にしがみついたーーー。
ーーー突如。
ぽぅ……っと何かが光った。
極大した渦潮の上に、光り輝く影法師ナニカが浮かぶ。
「な…、な…、何………!?」
ヒルコは目を疑った。
何だ、あの腹は。
しかも、巨大な渦潮が巨大な蜘蛛の巣に見える。
そして予期せぬものを垣間見る。
なんと、影法師ナニカの腹が、今にもはち切れんはがりに膨れ上がっているではないか。
あたかも、その肥大化した腹の中に子を孕んでいるようだ。
内側にいるモノが蠢動していて、腹を蹴り飛ばしている。
そのモノ達は早く外に出たがっているのだろうか。
「ヒルコ。
影法師ナニカの腹の中にいる負の感情が…。
もう間もなく飛び散るだろう。
まるで蜘蛛の子を散らすように」
「えっ!?」
「葦原の中つ国…、
この日本列島に、異類異形の…、魑魅魍魎の姿をした負の感情が蔓延してしまう」
「そんな…!?
そんなのダメだよ!」
「必ずここで食い止めよう。
ここは淡路島。
イザナギとイザナミの国生みの際、ヒルコとアワシマに次いで生んだ神がこの淡路島だ」
「えっ!
そ、そうなんだっ…。
知らなかった……」
「ヒルコ。
日本列島、すべての国土にアワシマがいる。
アワシマが生きている。
アワシマが…………、
私達を守ってくれている」
「…アワシマ…。
ぼくの……、
弟……?」
「そうだよ。
心強いね」
「うん…………!!」
ぷつぷつぷつぷつぷつぷつ………………。
土蜘蛛の姿の影法師ナニカの腹が、徐々に徐々に徐々に裂けてゆくーーーー。
そしてーーーーー。
ザワザワザワザワザワザワザワザワザワザワザワザワザワザワザワザワザワザワザワザワザワザワザワザワザワザワザワザワザワザワザワザワザワザワザワザワザワザワザワザワザワザワザワザワザワザワザワザワザワザワザワザワザワザワザワザワザワザワザワザワザワザワザワザワザワザワザワザワザワザワザワザワザワザワザワザワザワザワザワザワザワザワザワザワザワザワ…………………………………………………。
腹の中の隙間から、
おどろおどろしい異類異形が、
有象無象の魑魅魍魎が、
こちらを凝視している。
「いくよ、ヒルコ。
これは調和だ。
影法師ナニカの負の感情を浄化し、私達は調和するんだ」
「うん…!!
わかってる。
ぼくがぼくであるために…!」
異類異形のモノ達が、おぞましい魑魅魍魎が、
けたたましい咆哮をあげて影法師ナニカの腹を食いちぎって出現した。
既に、ヒルコと恵比寿が標的であると仕向けられているであろう負の感情が具現化したモノ達。
今、一斉に強襲をしてきた。




