第百九十二話 魂返し
【葦原の中つ国❨現代日本❩・芝公園】
八咫鏡を持ったアマテラスは、ハタレの大群の姿を鏡に映し出す。
邪悪な負の感情に蝕まれてた無数のハタレ達の身体は、シナツヒコ・ホノイカヅチの浄化の力によって真っ直ぐに清められていた。
ハタレ達は生きているわけでもなく、完全に死んでいるわけでもない。
仮死状態のようなものである。
宙ぶらりんになった魂が、生気のない肉体に宿っているのだ。
「シナツヒコ、ホノイカヅチ。
❛魂返し❜とい奥義は、禊、祓、解放だ。
禊は浄化と同じ。
穢れを清めるという事だ。
そして残るは、祓・解放になる。
祓とは、ハタレの魂に凝り固まった罪を祓う事。
解放とは、捻れた魂の緒を解き放つ事。
執着を消滅させるのだ」
アマテラスは厳かに、且つ慈愛をこめて語りかける。
その声色は、太陽の光に包まれるような優しさと、自分自身の在り方を太陽に見られている時の緊張感を併せ持っていた。
「アマテラス様。
魂の緒って何ですか?」
シナツヒコの質問を聞いて、アマテラスは穏やかに頷く。
「うむ。
では説明しよう。
人間の身体というものは、目に見えぬ精神体の魂と、目に見える肉体の魄で出来ている。
魂がタマと呼ばれ、魄がシヰと呼ばれている。
その2つを結びつけているのが魂の緒だ。
ハタレはこの魂の緒が捻れているのだ」
「………タマとシヰ……ですか…。
僕、初めて聞きました。
知らなかった…。
ホノは知ってた?」
唖然とするシナツヒコの隣で、ホノイカヅチも驚愕した表情を浮かべている。
「俺も初耳だ。
人間がタマとシヰで結ばれているとは……」
「そうだな。
……遥か昔の人間達は知っていた。
己がどのように成り立っているのかを。
時が経つにつれ、徐々に忘却の彼方に消えていったのだろう。
それに呼応するかのように、神々もまた…、
スズカの道の教えを伝える意義を見失ってしまったのかもしれない」
「アマテラス様。
スズカ道の教えとは…。
何の事ですか?」
アマテラスは深く息を吐いた。
遠い日々に想いを馳せるように、
深く深く息を吐いた。
「スズカの道の教えとは、
【戒めの心をもって、
我欲を捨て去り、
清く正しく美しく生きること】
それをスズカの道という。
人間の魂は、天からタマとシヰを授かる。
現世で肉体に宿り、最善を尽くして生き抜く。
そして寿命を迎えた時、再び天上に魂が還るのだ」
「人間の魂は…、天上で生まれ、
天上に還ってゆくのですね…」
「魂の行き来、往来は、高天原よりも高い場所にある。
私でさえ、その場所に行った事はないぞ」
「えっ、そうなのですか?」
「うむ。
人間という生き物は、寿命は短く、肉体はか弱い。
時間や重力に縛られ、実に不便極まりない。
だが、だからこそ私達のような神にとっても、摩訶不思議で計り知れない潜在能力を秘めている。
まことに神秘的だ。
……………とはいえ、ハタレという堕落した存在に落ちぶれてしまう者があとを絶たない。
何故かわかるか?
人間は…、あまりにも儚く、あまりにも脆弱だからだ。
国民の規範となるべき上の位の者が、欲望や快楽に走り、財にものを言わせている。
さすれば、国民の心は徐々に蝕まれて、やがては恨み妬む心が牙をむいて鬼が宿ってしまうのだろう……。
ホノイカヅチ、シナツヒコ。
お前達には聞こえないか?
今の葦原の中つ国に蔓延する…、
枯渇した人間の魂の叫びを。
誰にやられたのだろうか。
気付いた時には遅かった。
いつの間にか破壊されていたのだ。
葦原の中つ国はもうすでに壊されていたのだ」
驚きを隠せないシナツヒコ。
ホノイカヅチと顔を見合わせたあと、慌てて口を開く。
「え?え?
…え?
壊されてたって……。
それって…、影法師ナニカが企んでいる❛立て替え❜の…、破壊って事ですよね?
今、阻止すれば…、
葦原の中つ国を守れますよ…ね?」
「…いや、そうではない…、
そうではない…が、
……うむ、そうだな。
……逆にわかりやすいな。
❛立て替え❜という破壊の方がわかりやすい」
「………???
あの……、アマテラス様のおっしゃる意味がわかりません……?」
「そうか?
シナツヒコも本質的には感じているはずだ。
葦原の中つ国の人間の魂が…、精神が…、
時間をかけて、僅かずつ弱体化している事を。
葦原の中つ国の土地が汚され、他国に次々と乗っ取られている。
この国の政に関わる者達が、自国の国民をどうしたら殺められるかと目論んでいる。
これはもう、れっきとした破壊だろう?
❛立て替え❜という破壊だろう?
……そう。
いずれは大洪水や大地震といった災害で、わかりやすく葦原の中つ国が壊滅状態になるやもしれぬ。
…だが、それは破壊ではない。
自然から告げられたの再生への道だ。
……………今の葦原の中つ国は、国土を踏みにじられ、そこに住む人間の魂魄が失われ、すべてを穢されている。
これが破壊なのだ。
破滅なのだ」
アマテラスの瞳の奥が霞んで滲むように揺らいだ。
憂いているのか、憐れんでいるのか。
「話が逸れてしまったな」
八咫鏡に映ったハタレ達は全員横たわって、
まるで深い眠りについているかのようだ。
以前の異形の姿とは違い、見た目は普通の人間に戻っていた。
浄化で洗われたのだろう。
人間だった頃の姿で目を閉じている。
ハタレ達の身体のまわりから、微弱な光に覆われた神聖幾何学模様の円形の玉が浮かび上がり、ふよふよと腹の上で留まっているのが確認出来た。
横たわるハタレ一人一人の腹の上に、神聖幾何学模様の円形の玉が浮かんでいるのだ。
「……あれは…?
あれは……何だろう…?」
ぼそりと呟く翔の声を聞いたアマテラスは振り返り、その疑問にゆっくりと答えてくれる。
「あれが魂だ。
行場がなく彷徨っている。
カケルよ。
第三の目を開いて、今一度よく見てみろ。
捻れた魂の緒が肉体に絡まっているぞ」
「はっ、はいっ…!」
言われた通り、脳の真ん中にある松果体に意識を集中し、翔は第三の目を開く。
そこで目にしたものはーーー。
「うわぁっ!!?」
思わず叫んでしまった。
ハタレの身体の中から、ぶよぶよとした暗赤色の腕が何本も伸びている。
それらが円形の魂を掴んで離さない。
魂は必死にもがいて離れようとしている…が、数本の腕から生えている手からは絶対に逃さないといった意思を感じる。
そう見えるくらい、鬼気迫るものを感じるのだ。
「…タマである精神体が穢されてしまえば、肉体であるシヰは瞬く間に滅びる。
やがてそれは魂の緒がねじ曲がったハタレという存在になってゆく。
………カケルよ。
人間が死してなお現世に留まる理由はただ一つ。
執着だ。
他人を恨み、憎み、呪いながら死んだ魂。
理不尽な搾取や暴力、殺生により志半ばで死んだ魂。
現世にただならぬ遺恨がある時、魂の緒は捻れてしまい天上に還る事が出来ない。
地縛霊になるか、ハタレになるか。
どちらかなのだ」
「……執着……ですか………」
魂は天上に還りたがっている。
しかし、執着がそれを許さない。
執着…。
執着…。
執着…。
「ア……、アマテラス様。
………恨みや憎しみから…、この世に執着してしまう事もあると思います…。
で……、でも…。
その反対の感情で…、執着してしまう時もありますよね?」
「どのような感情だ?」
「愛情です…。
例えば……、
愛する人を残して死んでしまったり……。
こ……、子供を産んで死んでしまったり……。
さぞかし無念だったと思います…」
「……うむ。
そうだな」
「その人達も……。
きっと執着してしまうと思うんです。
この世に……、
頑張って産んだ赤ちゃん……、
子供を…、
残して…………、
死んでしまったら………。
絶対…、
絶対執着してしまいます……!!」
翔はすがるように訴えていた。
母親の姿が脳裏に焼き付いて離れない。
妹の桜を産んですぐに容態が急変してしまい、この世を去った。
産まれたばかりの桜を抱く事も出来ずに。
そもそも出産で自分が死ぬなんて、母は夢にも思っていなかっただろう。
買い揃えたベビー用品。
おくるみ、オムツ、ベビーチェア、ベビーカー…。
ベビーベッドは翔のお下がりーーー。
ああ、想像してしまう。
頻繁に夜泣きをしていた桜。
寝付くまで抱っこをして、母は子守唄をハミングしている。
昼間、少し軋むベビーベッドに、ようやく眠りについた桜を寝かせて、母はきっとうたた寝をしたはずだ。
心地よい寝不足に包まれて、小学校から帰ってくる翔の「ただいま」の声で浅い眠りから目を覚ます。
「おかえり」
そう言って、優しく翔を抱きしめてくれる母の面影が、
空想上の過去の思い出が、
頭の中で鮮明に浮かび上がってくる。
そうだ。
生きているはずだったんだ。
突然、何の前触れもなく、命の灯火が消えた人間の無念は想像を絶する。
執着しないわけがない。
執着するに決まっている。
それなのに。
仕方がないのに。
愛情の果てに想いが執着になり、そのせいで魂の緒が捻れ、地縛霊かハタレになってしまうなんて。
そんなのひどい。
ひどすぎる。
ボロボロと、翔の目から涙が溢れた。
「カケル…」
「カケルくん…」
ホノイカヅチとシナツヒコは翔の両隣に座り、心配そうに背中をさすった。
「……………ああ…。
そうだな…。
確かにそれも執着だ」
アマテラスは、涙を両手で拭っている翔の頭を優しく撫でる。
「カケル。
安心するがいい。
愛情から生まれた執着は必ず天上へと還る。
現世にとどまることはない」
「え……、
ほ、本当……ですか……?」
「私は偽りは言わないぞ。
良いか?
愛を知っている人間は、少なからず死というものも理解しているはずだ。
もしも今日、己に死ぬ運命があったとしても。
その一日を大切に、愛おしく、最期まで生き抜くのだろう。
たとえ無意識だったとしても、魂に刻まれているのだ。
命の灯火が消えた直後は…、取り乱すかもしれない。
絶望するかもしれない。
それでも…。
愛情に満ち溢れている人間は、
スズカの道の教えを貫いている人間は…。
大丈夫だ。
必ず運命を受け入れる」
「アマテラス様……………」
「カケルの母親も…。
きっと天上に還っているだろう」
「は……、はいっ……!
ありがとうございます……!」
愛情のエネルギーは軽やかだ。
ふわふわと風に乗って遥か彼方の天へと舞い上がるだろう。
反対に、憎悪や怨念といった負の感情のエネルギーは重々しい。
飛べる事など出来やしないのだ。
「皆の者。
見るがよい。
肉眼で捉えたハタレは人間に戻っている。
だが、八咫鏡に映った魂の姿はどうだ?
歪んで捻れて凝り固まっているぞ」
アマテラスが持っている八咫鏡に映し出さたハタレ達は、少しずつ少しずつ異形の化け物の姿へと変わっていった。
先程と同じような風貌だ。
ハタレ達の穢れた魂はまだ完全には祓われてはいない。
「八咫鏡とは自分自身を省みる事が出来る、唯一無二の神器だ。
ハタレ達に自覚させるのだ。
己の醜さを、傲慢さを。
他人ではなく、ハタレ本人に知らしめるのだ。
認めさせるのだ。
さすれば自身の犯した罪の重さを思い知るだろう。
思い知ったならば、後悔と懺悔の渦に取り込まれるだろう。
その瞬間、捻れて凝り固まった罪を祓う事が出来る」
アマテラスはホノイカヅチに八咫鏡を手渡した。
「ホノイカヅチよ。
ハタレ達の罪を祓うのだ。
頼んだぞ」
「…承知…しました…」
ホノイカヅチの緊張が伝わる。
八咫鏡を持つ両手に力が入った。
次にアマテラスはシナツヒコの方に顔を向けた。
「シナツヒコの役目は捻れた魂の緒を解き放つ事だ。
絡まった緒を解くことが出来たなら、魂は天上へと還ってゆくだろう」
神妙な面持ちで頷くシナツヒコを見て、アマテラスは優しく微笑む。
そしてーーー。
「………カケル。
お前にはこれを」
「え?」
翔は勾玉の首飾りを拝戴した。
連なる勾玉がキラキラと光り輝いている。
「アマテラス様…。
これは?」
「カケルの言霊を勾玉に注ぎ、シナツヒコとホノイカヅチの❛魂返し❜の奥義の中にその力を歌に変えて送ってほしいのだ」
「勾玉に言霊を…?
う、歌に変えて…?」
「複雑に入り組んだこの時代のハタレの魂を救うには、神と人間の協力が必要不可欠である。
…この国が壊れた原因は複数ある。
まずはパラレルワールドの融合。
政を取り仕切る人間達の腐敗と堕落。
それに伴って弱体化した国民。
私がハタレ達と対峙した時とは比べ物にならぬほど、落ちぶれた社会と人間の世界だ。
もう神だけの力ではどうにもならないのだ」
「……で、でも…。
アマテラス様…。
ぼくに出来るかどうか…。
言霊を歌に変えるなんて…。
どうしたらいいのか……」
言霊の使い方は何となくわかってきた。
……が、
言霊を歌に変換するとか、そんな大それた事を出来るかどうかわからない。
そもそも言霊の使い方自体、潜在的な本能に任せている感じなのだ。
「心配はいらない。
カケルなら出来る。
言霊とは、つまり想像力なのだ。
カケルも言霊の力を使う折り、必ず頭の中で想像をしているはずだ。
同じ事をすれば良い。
言霊を勾玉に注ぎ込む。
注ぎ込んだその力を歌にする…という想像を」
「……そ、そうか…。
ぼく、想像してます。
言霊を使う時も、産霊の力を使う時も。
頭の中でイメージをしながら言葉を発しています…」
「そうだろう?
カケルは自信を持て。
シナツヒコとホノイカヅチも自信を持つのだ。
この❛魂返し❜はお前達にしか出来ない」
「え……?
ぼくと…、シナくんとホノくんにしか出来ない…って…。
どうしてですか?」
「❛魂返し❜の奥義に人間の言霊の力を注ぐという前提条件は、その神とその人間が調和しているという事。
神と人間が信じ合い、愛し合い、尊重しあう。
たが、それと同時に、決して依存、執着をしてはいけない。
それが真の調和だ。
私は確信している。
カケルという人間と、風の神と雷の神は調和している、と」
「………あ…。
そ、そ、そ、
………そうでしょうかね…」
何だか照れてしまう。
翔がモゴモゴと口ごもり、
シナツヒコとホノイカヅチのほっぺたが、うっすら桃色に染まってゆく。
それまで黙って聞いていたスサノオ。
そんな三人の様子を見て、
「アオハルだなぁ〜」
と呟いた。
何はともあれ、
今から、シナツヒコ、ホノイカヅチ、翔による、
奥義・❛魂返し❜が始まるーーー。