第百八十話 誰かの祈り
『ん………?』
ヒルコは何もない、真っ白な世界で目が覚めた。
『あれ………?
ぼく………?』
プカプカ海に浮いているみたい。
温かい海水が、ヒルコの身体をゆりかごのように優しく揺らしているみたい。
『どうして……?
ぼく…、身体……』
だけれど周囲は真っ白な世界。
身体と空間の境界線がわからない。
真っ白な世界に身体ごと溶け込んでいるかのようだった。
身体の一部を動かそうとしても動かせない。
というか、そんな感覚は既に麻痺していた。
『え……?
どういうコト……?』
プカプカ、プカプカ……。
何もない空間で漂っていると、もう全部、何もかもどうでも良くなるものだ。
思い出せないけど……、
何か凄く凄く辛くて悲しい出来事があったような気がするし…。
もういっそのこと、このまま永遠に真っ白な空間と溶け合っていたいものだ。
そう思ったヒルコは静かに瞳を閉じた。
すると---。
頭の中に映写機が造り出された。
そして。
③、
②、
①……。
スクリーンにカウントダウンの数字が出る。
少し昔の映画のカウントダウンみたいだ。
『わ……っ…!』
次の瞬間、
澄みきった水色の大空がスクリーンいっぱいに映し出された。
その美しさにヒルコは思わず声を漏らす。
『なんて綺麗なんだろう…!』
そしてまた次の瞬間、画面は大地に切り替わる。
頭の中のスクリーンで、橘の木の下で二柱の女神が談笑していた。
すらりとした、しなやかな身体。
色素の薄い長い髪の毛。
美しい顔立ちの女神。
白と紫が配色された上品な着物を優雅に着こなしている。
もう一柱の女神は、背丈は低くまだ幼さが残る。
とはいえ、溢れる気品は本物だ。
あどけない笑顔の中に、芯の強さを垣間見る。
黒く艶のある長い髪の毛を三つ編みにしていた。
「ねぇ、ねぇ。
ヒルコヒメ。
私、葦原の中つ国の海を見たいわ。
機会があれば一緒に行きましょうね」
「もー、セオリツヒメってば。
本当に好奇心旺盛ね。
葦原の中つ国の海は荒れているって有名よ?
危ないわよ」
「あら、大丈夫よ。
三貴神のスサノオ様が海を統べる役目を担ったと聞いたわ。
きっとすぐに穏やかになるわよ」
「ん~…。
だけどスサノオは甘えん坊の暴れん坊だからなぁ。
そんな簡単に穏やかになるかなぁ」
「ふふふ。
なるわよ」
「セオリツヒメは楽観的ね」
ヒルコは不思議そうに首を傾げる。
頭の中のこの映像は一体何なんだ??
ヒルコヒメと呼ばれていた女神。
ヒルコではない。
しかし、明らかにヒルコとは同一だ。
ヒルコではないが、ヒルコなのだ。
ああ、わけがわからない。
それに、セオリツヒメという女神。
初めて見る女神なのに、とても懐かしく感じるのは何故だろう。
「あっ!
ごめんね、セオリツヒメ。
私、今からアワの歌のお稽古だったわ」
ヒルコヒメは慌てて帰り支度をする。
「まあ、そうだったの。
ねぇ、ヒルコヒメ。
覚えたら私にも教えて?」
「もちろんよ」
アワの歌。
♪︎♪︎♪︎
あかはなま
いきひにみうく
ふぬむえけ
へねめおこほの
もとろそよ
をてれせゑつる
すゆんちり
しゐたらさやわ
♪︎♪︎♪︎
この歌を歌うと、神も人間も若々しく元気になり、心身ともに健康になってゆく。
五臓六腑、魂までもが整ってゆくのだ。
『アワの歌………かぁ』
ヒルコがボソリと呟いた瞬間、
パチン☆
頭の中のスクリーンの画面が切り替わった。
次の場面は、セオリツヒメの念願だった葦原の中つ国の海に来ていた。
潮風を浴びながら、裸足で砂浜をゆっくり歩いている。
やや遅れて歩くヒルコヒメ。
波打ち際で腰をおろし、寄せる波をセオリツヒメは右手で触る。
「ふふふ、冷たい」
「セオリツヒメ。
危ないわよ。
予想通り、やっぱり海は荒れてるわね」
「そうね。
少しね。
スサノオ様、ご機嫌ななめなのかしら」
「うーん……。
スサノオったら…。
ご機嫌ななめとかだらしない!
男神のくせに大丈夫かしら?」
呆れたように文句を言うヒルコヒメを見て、セオリツヒメはくすくす笑う。
「ヒルコヒメはスサノオ様の姉君でしょう?
手厳しいわねぇ」
「スサノオは私の可愛い弟よ。
だからこそ、しっかりしてほしいのよ。
三貴神なんだし。
立派な男神になって、早く一人前になってもらいたいものだわ」
「ふふふ。
男が偉いとか、女が偉いとか。
男女に優劣はないわ。
それぞれに異なる役目があるし、
性格も才能もそれぞれ違うじゃない?」
「ん~…。
まあ……、
うん、そうよね」
「男と女がいる事で調和がとれているもの。
………スサノオ様は…。
そうね。
強くて優しい性格の持ち主だと思うわ」
「む……。
強くて…、優しい…、ね…」
「分断は争いを生むわ。
……そうならないようにしたい。
葦原の中つ国は……」
「そりゃあ私だってそう思ってるわよ。
でも……。
安易に予想出来るわ。
人間達は争いを選ぶだろう……と」
「ねぇ、ヒルコヒメ?
それはどうしてだと思う?」
「……私の育ての親の…、翁に聞いたの。
何故?って。
そうしたらね、翁は悲しそうに答えたわ。
“戦争は儲かる輩が必ずいるから終わらない”って」
「………。
そう………」
「………。
傷つくのはいつだって…、罪のない人達よ。
戦争を起こしている側の人間達は…。
常に安全な場所でふんぞり返っているわ」
「…………。
そう……、
なのね……」
ザザザザザ……。
寄せては返す、波の音が聞こえる。
ヒルコヒメとセオリツヒメの悲痛な想いが、ヒルコの心臓に直接響き渡る。
涙が込み上げてきた。
息が浅くなり、肩で呼吸をしてしまう。
何か怖いものが襲ってくる感覚に陥る。
どうしようも出来ない。
無力さとやるせなさ。
『こんなちっぽけなぼくに……。
一体何が出来るんだろう……………』
パチン☆
再び画面が切り替わる。
今度はヒルコヒメの結婚式の場面だ。
『結婚!?』
ヒルコは何だか歯がゆい気分だ。
自分じゃないけど、まるで自分のような感覚のヒルコヒメ。
そのヒルコヒメの結婚式とは…。
どんな気持ちで見たら良いのかわからない。
そんなヒルコとは裏腹に、セオリツヒメは心の底から喜んでくれていた。
「おめでとう!
ヒルコヒメ!」
「えへへ。
ありがとう、セオリツヒメ」
「幸せになってね。
いっぱいいっぱい、幸せになってね」
「セオリツヒメ………」
ヒルコヒメはぼろぼろと涙をこぼす。
「うわーん…。
なんか……、
泣けてくる……!」
「ふふふ、ヒルコヒメったら。
せっかくのお化粧が落ちちゃうわよ」
「うわーん!
セオリツヒメ~~!」
堪えきれず、ヒルコヒメはセオリツヒメに抱き付いて号泣した。
泣き声が結婚式場のお宮中に響き渡る。
セオリツヒメは優しくヒルコヒメの頭を撫でた。
「ねぇ、覚えてる?
昔、紀伊の国にイナゴが大量発生して田んぼの稲を荒らしてしまったのよね。
人々は収穫出来ずにとても困っていたわ。
その時はちょうど、アマテラス様もツクヨミ様もご不在で…。
私達で対処しようと出向いたのよね」
両手で涙をごしごし拭いながら、ヒルコヒメは顔を上げて頷く。
「うん…。
もちろん覚えてる。
最初は怖かったけど…。
人々はとても困っていたし…。
何とか助けたくて…。
セオリツヒメと協力して…、歌の力で解決させたのよね」
「ふふふ。
そうよね。
だからね、ヒルコヒメ。
私達、ずっと親友よ。
結婚しても、子供が生まれても、年をとっても…。
そして……。
いつの日か天寿を全うしたそのあとも。
ずっとずっと傍にいるわ。
ヒルコヒメが悲しかったら…。
いつも傍にいるからね」
「セオリツヒメ!
私も……、
私もだよ!
ずっとずっと親友ね!!」
『…………………』
パチン☆
画面は真っ暗になった。
ヒルコはただただぼんやりと、
頭の中の真っ暗になったスクリーンを眺めていた。
これはきっと、無数にあるパラレルワールドの一つなんだろう。
この世界のヒルコはヒルコヒメという女神で、アマテラスとツクヨミとスサノオの姉のようだ。
もう一柱、自分には姉弟がいたような気がするが…。
誰だろう?
ヒルコの見ているパラレルワールドでは、ヒルコヒメは親元を離れて、“翁”という人物に育てられているみたいだ。
この“翁”、普段はヒルコヒメをめちゃめちゃ甘やかしているおじいちゃんなのだが、しつけや歌のお稽古にはとても厳しいようだった。
だけどそのおかげもあって、ヒルコヒメは歌の名手となり、お作法も完璧になっている。
そして何より、大親友のセオリツヒメがいた。
ヒルコは徐々に過去の記憶を思い出していた。
自分がイザナギとイザナミに捨てられた事。
シナツヒコ、ホノイカヅチと友達になれたが、すぐに別れてしまった事。
【魂】、【思考】、【身体】の三つに分裂してしまった事。
長い時間を経て、翔という人間の魂に宿った事。
プカプカと空間に浮かびながら、ヒルコは涙を流すイメージをする。
身体の感覚が麻痺しているから、せめてイメージで泣いてみる。
報われない、救われない、
八方塞がりの現実を鑑みて…。
『そうだ…。
ボクの【思考】が…。
人間達の負の感情を集めたんだ……。
………その感情を使って…、
葦原の中つ国と高天原を滅ぼすために……』
今、何が起きているのか。
思い出した記憶はようやく整理整頓が出来て、状況を理解した。
『これはボクの【身体】…。
心も魂もないけど…。
空っぽだけど…、
ボクの【身体】だ…』
理解した瞬間、空間と身体が分離した。
今、真っ白の世界は三次元となった。
『カケルくんの魂に宿った時……。
カケルくんの魂を少しだけわけてもらったんだ…』
今のヒルコの【身体】は空っぽだったが、翔の魂の欠片がほんの少し入っていた。
そう。
かろうじて自我を保てるくらいには。
『そうだ…。
うん、そうだよ…。
ボクの暴走した【思考】…、影法師ナニカが…、
影法師ナニカが異世界に結界を張って…。
葦原の中つ国に向かおうとしたんだ…』
影法師ナニカが三貴神の創った異世界を大洪水にしたあと、シナツヒコ、ホノイカヅチ、カケル、カグツチ、ツクヨミを閉じ込めるために結界を張った。
その後、葦原の中つ国に向かう道中…。
入れ物のヒルコの【身体】は目を覚ましたのだ。
『出ていけ!!
ボクの【身体】から出ていけ!!』
乗っ取りが成功したと思っていた【思考】の影法師ナニカは、身体を渡すまいと必死で抵抗する。
数分間、命がけの取っ組み合いが繰り広げられ---。
再び【思考】と【身体】は分かれた。
『……で。
今、【身体】のボクは真っ白な世界にいて……。
【思考】の影法師ナニカは…?
どこにいるんだろう……?』
たとえどんなに人間達の負の感情を集めたとして、実態がなければ所詮はただの影。
ある程度は負の連鎖を巻き起こせるだろうが、立て替えや立て直しという大それた事をするのであれば、やはり身体という実態は必要不可欠だろう。
ヒルコの【身体】がなければ、影法師ナニカは何も事を成せないのだ。
『…ボク…。
ここに隠れてようかな…』
ここがどこだかわからない。
でも、下手に動き回って影法師ナニカに捕まるよりはマシかもしれない。
『それにしても……。
変だよなぁ。
どうしてだろう……?』
ぽつり、独り言を呟く。
ヒルコには解せない事が一つだけあった。
確かに、ヒルコはイザナギとイザナミに捨てられた事は心底悲しかった。
シナツヒコとホノイカヅチと別れて寂しかった。
しかし、だからといって、どうしてヒルコの【思考】の影法師ナニカは立て直しと立て替えという発想に行き着いたのか?
それがまるでわからない。
ヒルコの思考なのに、ヒルコ自身全くわからないのだ。
葦原の中つ国と高天原を立て直し(破壊)して、次に立て替え(天地創造)をするなんて。
ちょっと飛躍しすぎではないか?と、自分で自分に突っ込みをいれたい気分なのだ。
それに加え、立て替えと立て直しをするために必要となる膨大な量の人間の負の感情を、気の遠くなるような時間を使って集めていたという事実。
かなりの執念深さだよな。
『父と母に捨てられた気持ちは…。
やっぱり辛くて悲しくて…。
憎む想いも確かにあったけど…。
だからといって…、世界を破壊するとか…。
有り得ないよね…。
だったら…。
それだったら…、
イザナギとイザナミに…、直接その気持ちを伝えるよ………ね…』
どうして分裂したヒルコの【思考】は、
葦原の中つ国と高天原の破壊という結末に繋がったんだろう…?
『はっ…………?!』
急に、
妙な衝動に駆られたヒルコは反射的に起き上がる。
この瞬間、時間の流れが加わり、真っ白な世界は四次元となった。
『セオリツヒメ………………?』
パチン☆
突然。
頭の中のスクリーンに、泣いているセオリツヒメが映し出された。
切なそうに、苦しそうに、真珠のような涙がはらはらと地面に落ちてゆく。
『セ………、
セオリツヒメ……………………?』
「この世界から……。
この世界から争いを消し去る事は不可能なのよね…。
嘆かわしい…。
本当に…。
本当に…、嘆かわしい………。
そして…。
なんと愚かな……」
悲しみの中に、怒りの感情も少しだけ孕んでいた。
絶望に近い涙なのかもしれない。
「上に立つ人間は…、決して忘れてはならない。
民を導き、守り、諭す事を…。
それが出来ぬのなら、民の上に立ってはいけない。
そのような者は……、
上に立ってはいけない………」
悔しそうに唇を噛み締める。
ヒルコは初めて見た。
セオリツヒメの、こんなにも苦悶した表情を…。
「葦原の中つ国の政をするすべての人間は…、
心根が腐っています。
民から食糧を必要以上に搾取し、民を苦しめ、民を貶めている……。
そして何より…、
何より罪深き事は………」
急にセオリツヒメはカメラ目線になり、スクリーンを見ていたヒルコと目が合う。
ドキッと鼓動が跳ねた。
「葦原の中つ国の国土を汚している。
汚している!
何も護ろうとしない。
国土を…、
葦原の中つ国の国土を………。
土足で踏みにじっている。
許されないわ。
そうでしょう?
葦原の中つ国の国土は…、
国土は…。
ヒルコヒメの次に生まれたアワシマ様なのよ……」
『あっ!!』
もう一度、ヒルコの記憶が甦った。
アワシマ。
イザナギ、イザナミの二番目の子供。
アワシマはヒルコよりも未熟児だった。
見た目は殆ど水分に近かった。
けれども生まれたすぐに会話が出来て、かなりの知能を所有していた。
アワシマ自身、父イザナギ、母イザナミに不具合のある自分せいで迷惑をかけたくないと思っていた。
そのため、生まれてすぐにある事を懇願する。
それは---……。
葦原の中つ国、すべての国土の守り神になるという事。
つまり、日本列島にアワシマという水をまいて、結界にしてほしいと願ったのだ。
イザナギ、イザナミは、泣く泣く承知した。
心からの感謝とともに。
アワシマの水は聖なる水。
葦原の中つ国の国土を、いつまでもいつまでも守ってくれるであろう。
そんなアワシマの願いを土足で踏みにじる、葦原の中つ国の政をする人間達。
許されるはずがない。
決して許されるはずがない。
「ねぇ、ヒルコヒメ。
私……、きっとすべてを破壊するわ。
堕ちるところまで堕ちた人間は…、
もう決して気付きはしない。
二度と改心する事はないでしょう。
……ねぇ、ヒルコヒメ?
上に立つ人間が腐敗したのなら………。
すべて…、
すべてを…、
破壊…
しましょう……」
『セオリツヒメ……!!』
ああ、
そうか。
破壊。
それは。
セオリツヒメの〈祈り〉だったのか。