第百七十九話 神の意志
【黄泉の国・御殿の扉の前】
扉にもたれ、カグツチとイザナギは並んで座っていた。
櫛の歯に灯る小さな火は、時折パチパチと音をたてて燃える。
「………イザナミと決別したあと、私は禊をしていたんだ。
禊をしながら…、己の弱さを…己の浅ましさを…、嫌というほど噛み締めていたよ。
自分から黄泉の国に会いに行ったくせに、変わり果てたイザナミに会ったらすぐに逃げ出してしまった私の弱さ。
イザナミが覚悟の上で生んだ火の神カグツチを、我を忘れて切り捨てようとしてしまった私の浅ましさ。
本当に…、本当に…小さき器だと…、私は私を恥じながら禊をしていたよ」
忘れたくても忘れられない、遠い昔を思い出して大きな溜め息をつくイザナギ。
カグツチは膝を抱えて座り、うつ向いたまま聞いていた。
「禊を何日か行った時、私の中からマガツヒノカミとナオビノカミが生まれたんだ。
マガツヒノカミは黄泉の国の穢れの神と言われているが…、半分間違っている。
マガツヒノカミは私の中にあった弱さ、浅ましさが具現化された神。
それが黄泉の国の穢れと混じり合ったに過ぎない。
そしてそれを治す神、ナオビノカミ。
ナオビノカミは私が私の弱さや浅ましさを受け入れた時に生まれたのだ」
「ふーん…。
確かさ、マガツヒノカミは邪神を生み出せるんだよね。
何でそんな力があるのか不思議だったけど、今納得したよ。
イザナギから生まれた上に、黄泉の国の穢れを持っているなら強くて当たり前だね。
……ま、アレだよね。
どんなコトでもさ、汚い方が強いってコトだよね」
「この世界は陰と陽、光と闇の世界。
どちらかが欠けてしまえば調和がとれない。
……正義を成り立たせるためなら、悪は必ず存在しなければならない。
……矛盾…、
しているが…」
「矛盾はしていないよ。
たとえ綺麗なものばかりを集めたとしても、その中からは必ず劣化したものが出てくるんだから。
逆に言えば、劣化したものがあるからこそ綺麗なものだって認識が出来るんでしょ」
「…ああ…。
そう……、だな…。
うん、カグツチの言う通りだ」
「でもさぁ、ボク、ナオビノカミに会った事あるけどさ。
何であんなにオッサンなの?
あれもイザナギから生まれたんでしょ?
何であんなにオッサンなの?」
「え?
そ、そうかい?
オッサン……、だったかい?」
「オッサンだよ。
いっつも日本酒飲んでるし、いっつもダルそうだし」
「ははは…。
生まれた時は好青年だったんだけどな。
しばらく会わないうちに変わったみたいだなぁ」
「好青年!?
マジか!!」
「ボロボロの私の前に、マガツヒノカミとナオビノカミが生まれて…。
マガツヒノカミは長い前髪で表情が読み取れなかったが、…見た目は美しい女神だよ。
ナオビノカミは清潔感溢れる男神で……」
「今は清潔感は皆無だから!
無精髭はえてるし!」
言葉を遮って反論するカグツチ。
イザナギは苦笑いする。
「は……、ははは……。
そうなんだね……」
「あっ。
一つ疑問なんだけどさ。
マガツヒノカミって、オオマガツヒノカミとヤソマガツヒノカミがいるんでしょ?
生まれた時は一柱だけだったんだ?」
「ああ、そうなんだ。
多分…、
マガツヒノカミの力が大きすぎて二つに分裂したと思うんだ」
「ふーん…。
なるほどね。
マガツヒノカミが女神だってのもビックリ仰天って感じだけどね」
「ふふふ…。
カグツチは面白いなぁ。
………ナオビノカミの話に戻っていいかい?」
「ナオビノカミ?
清潔感溢れる男神って話?」
「ふふふ。
そうなんだ。
その清潔感溢れるナオビノカミがね、生まれたすぐに私に言ったんだ。
“感情がある以上、どんなに優れた神でも間違える。
間違えたくなければ感情を捨てればいい。
しかし、感情がなければ愛する事も出来ない。
あなたはどちらを望むのか”……ってね」
「へぇ………」
「私は……、感情は捨てたくないと思ったよ。
イザナミを愛する気持ちも、イザナミが生んだたくさんの神も……。
そして…、葦原の中つ国も。
ここで生きているたくさんの人間も……。
私は愛しいと思う気持ちを捨てたくないと思った」
イザナギの瞳に光が宿った。
透き通る青い光。
再び立ち上がる決意と、未来への希望の光のようだ。
「だけど…。
感情があるから…、
感情があるからこそ…、
私はカグツチとイザナミを…、
ヒルコを傷つけてしまった。
それは否めない。
……本当に、
本当にすまなかった」
「……もういいよ。
さっきも聞いたし。
………しつこいよ」
「ふふふ…。
すまない」
「もういいって」
カグツチは面倒くさそうにそっぽを向く。
照れ隠しかもしれない。
「このようにして…、イザナミにも謝りたい。
謝りたいのだ。
…ヒルコにも謝りたい」
「……ふぅん…。
ヒル兄は近いうちに葦原の中つ国に現れると思うけど…。
イザナミ様は…。
どこに行っちゃったのかなぁ」
「……もう私は迷わない。
必ず見つけてみせる……が、ヒルコについては思うところがある。
……カグツチよ。
ヒルコの近くに人間がいたのではなかったか?」
「人間?
あー…、ああ、カケ兄のコト、
かな?」
「カケ兄?」
「カケル。
アサノカケル。
ヒル兄ってさ、カケ兄の魂の中にいたらしいよ」
「……そうか。
おそらく…、そのカケルという人間。
ある女神の魂の意志を受け継いでいるはずだ」
「えっ!?
カケ兄が!?
ある女神って………!?
誰!?」
「セオリツヒメという女神だ」
「セオリツヒメ??
え?
どんな女神??」
「思慮深く、慈悲も深い…、とても美しい女神だ。
その女神の意志を継いでいる」
「へぇ……。
カケ兄が……。
………でもそれが何?
それがヒル兄と関係あるの?」
「未来は無数にある。
その中の一つの世界線では、ヒルコはセオリツヒメととても仲が良いんだよ。
きっと…、ヒルコは無意識にセオリツヒメの意志を継いだ魂に惹かれていったんだろう」
「え?え?
ちょっと待って?
世界線ってめちゃめちゃいっぱいあるんでしょ?
めちゃめちゃいっぱいある世界線同士、影響しあってるってコト?」
「魂レベルではそうだね。
ヒルコは継がれた魂の光に惹かれたんだ。
ただ…、
生身の人間の肉体だけでは何も感じないだろう」
イザナギは切なそうな表情を浮かべ、もう一度大きな溜め息をついた。
「……はぁ…。
私もイザナミも…。
幸せな未来へとヒルコを繋げたかったのだが……。
……間違えてしまったようだ」
「………。
ふーん…。
神の意志って…。
人間に受け継がれるんだ…」
「そうだよ。
人間には神が宿っているだろう。
あれは神の意志だ。
一人一人違うように、神の意志も千差万別。
人それぞれ、神の意志を受け継いでいる」
「カケ兄が意志を継いだセオリツヒメってさ、今どこにいるの?」
「……さぁ。
わからない。
基本的に神は死ぬ事はないが、自らが望めば隠れる事は出来る」
「隠れるって?」
「誰かに干渉されぬよう、身を潜める事だ」
「へぇ。
そうなんだ」
「もしかしたらセオリツヒメはどこかに隠れているかもしれないな」
「ふぅん………」
カグツチは膝を抱える手の力をより一層強くした。
人間と神の距離感って、思ったより凄く近い。
感情の有無もそうだし、
人間と神の感情は酷似している。
誰かを愛しいと思う。
何かを憎いと思う。
様々な感情を人間も神も持っている。
「ちなみにさー…、感情がない神っていないの?
ボクはどう考えてもバリバリに感情あるし。
イザナギだって…、ねぇ。
感情で突き動いていたし」
「おそらく…。
クニノトコタチ……は、感情に左右されないかもしれない」
「クニノトコタチ?」
「ああ。
我々、神世七代の一番最初の神だ。
今はクニノトコタチもお隠れになっているので所在はわからぬが」
「ふぅん……。
てゆーかさ、何で隠れるの?
隠れる意味、ある?」
「そうだな…。
その理由も神によってそれぞれだと思うが…。
どうだろう…?
私にはわからないな」
「そっか…………」
ーーーその後。
カグツチはイザナギと色々な話をした。
そのほとんどが、シナツヒコやホノイカヅチ、ヒルコや翔の話だった。
コミカルに滑稽に、日常風景を話すカグツチ。
それを聞いてお腹をかかえて笑うイザナギの姿があった。
ほんの少し、
ほんの少しだけ、
黄泉の国に漂う不気味で恐ろしい雰囲気が、ほんの少しだけ変化したようだ。
気が遠くなるほどの時を経て、ようやく和解出来たイザナギとカグツチ。
その時間を少しでも埋めたくて、カグツチは矢継ぎ早に話を繰り出す。
このひとときを、少しでも繋ぎ止めたくて。
◇◇◇
「カグツチよ。
会いにきてくれてありがとう。
本当に嬉しかった」
イザナギはゆっくり立ち上がり、カグツチに向かって微笑みかけた。
視線をそらしながらカグツチは立ち上がると、ぶっきらぼうに呟く。
「…………ん」
「カグツチはこれからどうするんだい?
私はイザナミとヒルコを探すつもりだ。
考えたのだが…、イザナミはヒルコの乗った葦の船にあるものを入れ忘れたのだと思うのだ。
だから送りたかった未来に行けなかったのだと」
「あるもの?」
「言霊だ。
この場合、言魂となるのだが…。
イザナミの…、悲しいという感情が高ぶった故、入れ忘れてしまったのだろう」
「言……、魂って……。
そんな大切なものなの?」
「もちろんだ。
葦原の中つ国は【言霊の幸う国】というだろう。
それは高天原もそうだ。
言葉には魂が宿る。
生まれたばかりの赤ん坊に、親は言魂を授けなければならない」
「そうなんだ…。
それって母親の仕事なの?」
「いいや、どちらでも良い。
子供は男と女がいなければ生まれない。
どちらが上でも下でもない。
両方いなければならぬのだ。
ヒルコの時は…、イザナミがやりたいと告げたのでな…。
私も任せきりにしていたのだ。
イザナミも相当辛かっただろうに…。
任せきりにしていた私にも非があるのだ」
「ふーん………」
「カグツチよ。
お前にも……、
言魂を授けてやれなかった。
今から授けても良いか?」
「えっ!?
い、今!?
い、今からって……。
お、遅くない!?」
「大丈夫だ。
真心がこもっておれば。
いつでも良い。
ヒルコにも授けるつもりだ」
「ふ……、ふーん……。
べ、別に…。
いい……けど……?」
丁寧に深呼吸をして、イザナギが祈りを込める。
金色に輝いている、無数の小さな粒がイザナギの身体を包んだ。
そしてすぐに、温かくてどこか懐かしいような優しい光がカグツチを覆ってゆく。
「カグツチ…」
イザナギの両腕が優しくカグツチの身体を抱き締めた。
「「「生まれてきてくれて……、
ありがとう」」」
言魂を授かった者は、言霊を使える素質がある。
それは親から受け継がれる愛の意思。
人間は皆、愛されて生まれてくる。
何故なら。
神の意志をも受け継ぐからだ。
意志とは何か。
それはただ一つ。
葦原の中つ国を…、
この日本を、
日本人が日本人として住むこの日本を、ありのままにそのままに永久に存続させていく---。
これが神々の意志だ。