第百六十七話 Tomorrowneverknows
パラレルワールドは大洪水に見舞われた。
生まれてこのかた、水泳をした事が一度もなかった翔。
とにかく無我夢中で身体を動かしていた。
お風呂とは違う、身体全体が水に浸かる経験なんてない。
パラレルワールドは思考が現実になる世界。
心から信じたものが叶う世界。
しかしながら、この大洪水を何とかして!と思考しても、消滅する事はないだろう。
泳げるから大丈夫!と思考しても、泳げる事はないだろう。
何故ならパラレルワールドの仕組みは、【心から信じたもの】が現実なるのだから。
「うぷっ!うわっ!」
(苦しい!苦しい!)
《身体の障害はない》という世界を想像した翔の足は、自分の意志で自由自在に動かす事は出来る。
だが、水の中では息が出来ないという思い込みは決して消えない。
そして、水の中は苦しいという固定概念そのものも。
「うぷっ!うぷっ!」
(苦しい!苦しい!)
足を必死に動かして、水面から顔を出す。
そしてまたすぐに波が押し寄せて、頭から豪快に水をかぶる。
再び足をバタつかせ、水面へと向かう。
「うわっぷ!」
(ダ、ダメだ…!体力が続かない……!
い、息が……、出来ない…!)
あたりは真っ暗になっていた。
口の中に入る水はしょっぱい。
(か……海水…なのかな……)
意識が朦朧としてきた。
力が入らない。
(ここは……、海なのかな……)
身体は冷えきって、視界もぼやけて、翔の頭の中は的外れな思考が駆け巡っていた。
何故だろう。
全然苦しくない。
(あれ…?
ぼく、いつの間に海に来たの…?
ここは横浜…?
お母さんの…実家の近くの…)
とりとめのない記憶の映像が、走馬灯のように流れてくる。
(ああ……。
懐かしい……懐かしい……。
懐かしい……?
わから……ない…)
水はとても冷たい。
いつしか身体の感覚はなくなっていた。
もがく体力は完全に消え失せ、翔の身体はゆっくりと水の中へと沈んでいく。
(そうだ……。
ホノくんは…?シナくんは…?
カグ……くん……は…………?
ツクヨミ様…………は…)
目を閉じた。
意識が---、
途絶える---。
グイ!!!!!
力強く腕を引っ張られた。
(っ!?)
急に現実に引き戻される。
(ツ……ツクヨミ………様……?)
「寝るにはまだ早い」
翔の腕を掴んだまま、ツクヨミは勢いよく空に向かって飛び上がった。
「げほっ、げほっ…。
はぁっ、はぁっ、はぁっ……」
肺が苦しい。
翔は胸をぎゅっと押さえ、肩を上下に動かして呼吸をする。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ………」
だんだんと落ち着いてきた。
ツクヨミは空中に浮いたまま、激しく波がうねっている大洪水を睨み付ける。
翔も同じように宙に浮いていた。
ようやく呼吸が整ってきた。
「うっ…、うわぁ…………」
パラレルワールドを見渡す。
全てが水に呑まれている。
見渡す限り、全てだ。
「ツ…ツクヨミ様……。
あ、ありがとう…ございました…」
「…………」
「ツ…、ツクヨミ………様………?」
「…………」
かなり不機嫌そうに、轟々と音をたてて荒れ狂う洪水を見下ろしている。
「……あの……、ツクヨミさ……」
「カケル」
ツクヨミは翔の言葉を遮った。
「これはヒルコの警告なのだろう……。
葦原の中つ国も高天原もこのようになる、という…」
「えっ!?」
葦原の中つ国は、翔達人間の住む現世。
高天原は神々が住む場所だ。
「じゃ…、じゃあ……、ヒルちゃんは……。
ぼく達の世界も神様の世界も……、こ、こんな大洪水を起こすって事ですか!?」
「そうなのだろう。
だが、このパラレルワールドのように簡単に実現させる事は不可能だ。
葦原の中つ国にも、高天原にも八百万の神が存在する。
その神々がこのような大惨事を望むわけがない。
ヒルコがどんなに力があろうとも、容易には出来ないだろう」
「あ………っ。
そ、そう……、そうですよね…!
よ、良かった……」
翔は心の底から安堵して息を吐く。
「本当に……そうですね!」
もう一度、力一杯頷いた。
「しかし…懸念材料も…、ある」
「えっ!!
け、懸念材料……、ですか…?」
「ヒルコは人間の…、負の感情を糧にして強大な力を得ている。
今でもかなり莫大な量の怨念や憎しみを刈り取っているわけだが…。
もし仮に…。
仮に葦原の中つ国のどこかに、それ以上の負の感情を溜め込んでいるのだとしたら……」
「ど……、どう……なっちゃいます…か…?」
「大洪水など…、造作もない」
「えええっ!!?」
「八百万の神にも勝る。
負の感情の集合体。
赤子の手をひねるくらい簡単に…、だろう」
「そ、そんな……」
「………あくまで仮定の話だ」
「…………。
だ、だけど…、どうしてツクヨミ様は…、負の感情が葦原の中つ国に溜めてあるって思ったんですか?」
「……簡単な話。
ヒルコは抜け目がない。
用意周到だ。
人間の感情はとどまるところを知らない。
それは陰も陽も。
怨念や憎悪も然り。
それらを放っておくはずがない。
ましてや立て替えとやらを画策していたのなら。
なおのこと」
「………あ…」
「葦原の中つ国は長い長い歴史がある。
その歴史の中には当然ながら闇の時代もある。
溜め込むには都合が良かったのだろう」
「………た、確かに…、
そ、そうですね…」
「だが……。
葦原の中つ国にはそれにも勝る、強く、高い波動を有する土地であった。
だからこそ、このように長い歴史を歩んできた」
「あ……。
そ、そうなんですか……」
「しかし何故か、いつの間にか人間の波動は低く弱くなっていった。
ヒルコはそれを見逃さない。
実にシンプルだ」
「…………」
なんて悲しいのだろう。
翔は胸を押さえた。
溺れたわけではないのに、先ほどの肺の苦しさがよみがえってきたようだ。
今の時代しか知らない者が、他の時代と比べる事など到底出来ないし、おこがましいにもほどがある。
その時代にはその時代の、想像も絶するような大変な苦悩や困難があったはずだ。
特に戦後はそうなのだろう。
だけど、今の時代も本当に生きにくい。
本当に息苦しい。
色んな軋轢や理不尽さが怒涛のように押し寄せている。
そんな中でも、人々は喜びや希望を見つけ出して生きていくものだろうが…。
何でだろう。
それすらも見出だす気力がないのだ。
「とりあえず、そんな愚行はさせない。
神々が許すわけがない。
そして……、一部の人間も」
「……ツクヨミ様…?
一部って…?
ぼく達人間も…、大洪水なんて望んでいませんよ。
その…、た、立て替えって事も……」
翔が言い終えると同時に、ツクヨミは月の光のような真っ直ぐな視線を向けた。
瞳が射貫かれたと錯覚するくらい、真っ直ぐで何もかも見透かされてしまいそうな…。
「人間の中には…。
終末を望む者が少なからずいるだろう」
「しゅ、終末……って…。
そ、そんな…そんな事………」
「ならば聞くが…。
何故人間は自ら命を断つ?
何故人間は殺し合う?
何故人間は騙し合う?」
「そ………、それは………」
「この時代は波動が低すぎる。
一国の主であっても……。
同じ土地に住まう人間を陥れるのだから」
「…………」
「終末を望む人間がいるのも無理はない。
だから責めるつもりはない」
「ツクヨミ様……」
「それでも…。
神々は…。
立て替えなど望みはしない」
「ツクヨミ様……!
ぼ、ぼくは………」
そう言いかけて、翔は言葉を詰まらせた。
今生きているこの時代の、得たいの知れない違和感は拭えない。
「……だけど…!
ぼくも、立て替えは望みません!
い、色々…、おかしい世の中かもしれないけど……。
で、でも…!
破壊してやり直すなんてやり方はダメだと思う。
だって、だってこの世の中には素晴らしいものも綺麗なものも……。
沢山沢山あるんです!
破壊したら…、破壊なんてしたら…。
全部消えてしまう!」
「…………」
ツクヨミはわずかに驚き、瞳を見開いた。
すぐに無表情に戻り、ふいっと顔を背ける。
「………そう」
「ツクヨミ様!
ヒルちゃんを止めましょう!!」
「…………言われなくても…。
そのつもり」
ぶっきらぼうに答えるも、ツクヨミの表情は少しだけ…、ほんの少しだけ和らいでいた。
「あっ!そうだ!
ツクヨミ様!
シナくんやホノくん、カグくんは大丈夫でしょうか!?
無事ですよね!?」
「………僕が知るわけないだろ。
でも………。
大丈夫だろう。
まあ、神だし」
「よ……、良かった…!
どこにいるんでしょう?」
「さあ?
パラレルワールドにはいるはずだけど。
とはいえ、このパラレルワールド…。
結構広いから…。
見つけるのは骨が折れそうだ」
「パラレルワールドを創ったのって、ツクヨミ様達ですよね?
どのくらいの広さなんですか?」
「…………。
さあ?」
「さ…、さあ?って……」
「こんな広くした覚えはないけど…。
大体…。
地球くらいは…。
ある、…かも…」
「えっ!?えっ!?
ち、地球………!?」
「………。
多分。
知らないけど」
「ツクヨミ様!?」
「………。
とにかく今はパラレルワールドから出る方が肝要だ。
ヒルコが結界のようなものを張ったから」
「えっ!?」
「これを解除するのも厄介そうだ」
「えー……!?」
「結界が解除されたら、自ずとシナとホノとカグも葦原の中つ国へ向かうだろう」
「そ、そうですね…。
地球くらいの広さのパラレルワールドから…、シナくん達を探す方が大変ですよね…」
「だけど…。
結界の解除も簡単ではない」
「え……。
で、でもツクヨミ様なら…」
大きな溜め息をついたツクヨミは、右手で小さく円を作った。
「え?ツクヨミ様…?」
フワリ…と、異質な空気が漂いはじめる。
「ヒルコ…。
人間の負の感情をどのくらい集めたのかな…。
想像もしたくないけど」
「ツ、ツクヨミ様…?」
「ほら」
ツクヨミが天空を指差した。
「え?」
促されるまま上を向いた翔は、あまりの光景に思わずその場に尻餅をついた。
「わわわわわ……!?!?」
「地道に集めたんだろうね。
本当…
最悪」
パラレルワールドの空一面に、般若のような人間の顔が浮き出ていた。
顔面ストッキングのような形もある。
上空全体隙間なく、ぎっちりと、般若や顔面ストッキングの不気味な形相が翔達をじぃっと見ている。
「ツ…、ツ…、ツクヨミ様…!?
こ、こ、これが…、け、結界…ですか…?」
「そうみたい。
相当悪趣味だ」
ヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴ~~~~~!!!!!
ギャアギャアギャアギャアギャア!!!!!
唸り声のような、奇声のような、耳をつんざく合唱が始まってしまった。
一刻も早く、この結界を解かなければならない。