第百六十五話 月
『正体……だと?』
ヒルコの不敵な笑みが消える。
『なにを言っている?』
目を細め、ツクヨミを睨み返した。
「そのままの意味だけど」
『ならば…、そなたも知っているだろう。
月の神。
わらわはヒルコ。
最初にイザナギとイザナミから生まれた神だ』
「…もちろんそれは知っている。
……で?
どのような神なのだ?」
『どのような……、とは何だ?
わらわはイザナギとイザナミから………』
「話を聞いていた?
そんな事は知っていると言ったばかりだが?」
ヒルコの言葉を遮ったツクヨミ。
苛立っている様子だ。
「お前がイザナギイザナミから生まれた最初の神で、不具の子だった故に海に捨てられた事は知っている」
『……では…、そなたは何を聞きたいのか?
……月の神』
ヒルコも極めて煩わしいと感じているようだ。
まさに一触即発。
そんなピリピリした空気が、あたり一面に立ち込めていた。
「……ん…?」
「あっ。カケルくん!?」
「え……?
シナくん………?」
シナツヒコとホノイカヅチとカグツチは、少し離れた場所でツクヨミとヒルコの成り行きを見守っていた。
その横で眠っていた翔が目を覚ました。
「カケルく~ん!
気分はどう?」
「あ……。う、うん…。
大丈夫………」
少々頭がガンガンするが、まあ許容範囲だ。
「良かった~!
カケルくん、ヒルちゃんの穴の中に吸い込まれちゃったんだよ?
覚えてる?」
「あー………。
う、うん……。
なんとなく……」
頭痛をこらえ、記憶を辿ってみた。
おぼろ気ながらも、だんだん記憶がよみがえってくる。
「吸い込まれちゃったカケルくんをね、ツクヨミ様が助けてくれたんだよ」
「え…?
ツクヨミ様……が?」
視線の先に、そのツクヨミがヒルコと対峙している。
緊迫感が漂っていた。
「え………?
何で…?ツクヨミ様が…?」
「カケル」
ホノイカヅチがペットボトルの水を差し出す。
「とりあえず飲んで落ち着け」
「う、うん…。ありがとう…、ホノくん」
受け取ったペットボトルはひんやりと冷たい。
「ねぇ、ホノ兄。
そのペットボトルはどうしたの?」
カグツチが尋ねると、ホノイカヅチは数メートル先の自動販売機を指差した。
「あれで買った」
「え?あの自販機で?」
「そうだけど?
なんだ?」
「パラレルワールドの自販機…って大丈夫なの?
飲んでも平気なの?」
「え!?
ダ、ダメなのか?」
「え?
わかんないよ。だから聞いてんじゃん」
「パラレルワールドは思考が具現化するんだろ?
だから…。
まあ大丈夫だろ…」
「あ、なるほど!
思考が正常だったら飲めるって事か!」
パラレルワールドは思考が現実化する。
そのイメージが具体的でクリアなものであればあるほど、より鮮明に高度に具現化される。
「カケルが思った通りの水になる。
飲んでみろよ」
「うん………」
翔は一口水を飲んだ。
爽やかに冷たく、まろやかな水が火照った喉をひんやりと潤してくれた。
「美味しい!」
屈託のない笑顔の翔を見て、シナツヒコとホノイカヅチとカグツチは優しく微笑んだ。
「あ~。
本当に良かった~!
カケルくんが無事で」
「シナくん…。
心配かけてごめんね。
ホノくんとカグくんも」
「ん~ん。
カケルくんが元気なら!
それだけでいいんだよ~」
「ありがとう、シナくん…。
……あ、そういえば…。
さっきツクヨミ様がぼくを助けてくれたって言ってたよね?
どうして…?
ツクヨミ様が?」
「それがね~!
カケルくんが何故か月にいたみたいで…」
「え?
月?
ぼくが?」
「そうなんだよ~。
カケルくん、覚えてない?」
「う……、うん………」
ヒルコの口の穴に吸い込まれて、気付いたら真っ暗で何もない世界だった。
前も後ろも、上も下もわからない、空間という概念がない世界。
自分の発した声は、ぐるぐるぐるぐる反響し、巨大な音となって自らの身体中に振動する。
その痛みは想像を絶していた。
あれが月の世界だとは…、にわかには信じられない。
「それじゃ…、ヒルちゃんの中は月に繋がっているって…コト?」
「ん~…。
ツクヨミ様もかなりショックだったみたいよ?」
「………そうなんだ……。
じゃ……、今、ツクヨミ様とヒルちゃんは……」
「ツクヨミ様がね~、ヒルちゃんに聞きたい事があるって」
「聞きたい事……?」
もう一度、ツクヨミとヒルコの方に視線を向ける。
重たい沈黙が続いているようだ。
「……。
カケル…。
今のうちにこれからの事を話したい…」
「ホノくん?
これからの事って…」
「いや、これからの事…と言っても…。
さっきみたいに何が起こるかわからないからな。
影法師ナニカの消滅も俺達で出来なかったし…。
もう臨機応変でいくしかないんだよな」
「う、うん…。
ぼく…、思い切り失敗しちゃったし…」
ヒルコが雲の中に隠れていると翔は確信したが、実際はそうではなかった。
「あ、そういえば…。
ヒルちゃんは結局どこに隠れていたんだろう?」
「ヒルコはパラレルワールド全体に溶け込んでいたんだと思う。
だから自由自在に動けたんだろ」
「パラレルワールド全体に……」
「理由はわからないが、ヒルコはパラレルワールドに適した身体なんだろうな」
「ヒルちゃんが……。
うーん、そっか……。
でも…。
本当にごめんね。
ぼくの勘違いで…」
根拠のない自信が失敗を招き、ヒルコの中に吸い込まれるという自業自得な結末を引き起こしてしまった。
翔は力なくうなだれた。
「俺達にもわからなかったんだ。
カケルだけのせいじゃない。
それに…。
失敗じゃない。
失敗なんか存在しないんだ」
「だ…、だけど……」
「失敗じゃなく経験だろ。
そのおかげでわかった事もあるんだ。
ヒルコはパラレルワールドに適している事。
ヒルコの中は月に繋がっている事」
「ホノくん…」
「そうそう!
カケルくん、経験値あがったよね!」
「シナくん…」
「これからもきっと、カケルくんの言霊の力が絶対必要になる。
ほら、タカミムスビノカミ様とカミムスビノカミ様も言ってたでしょ?
頼りにしてるよ~」
「………。
ぼ、ぼくの言霊の力…」
「うん。
ずっと。
ずっと信じてるからね」
「……まだ…。
ぼくを…。
し、信じてくれるの?」
「ふふふ。
当たり前だよ~!」
ホノイカヅチはゆっくり頷くと、真っ直ぐに翔を見つめた。
「…ホノくん?」
「いつだったかな…。
俺達…、言われた事があるんだ。
カケルへの執着を手放せって。
その答えが…、今わかったんだ」
「え?」
「信じる事だ。
それが執着を手放す答えだったんだ」
「……う?
う、うーん…?
よ、よくわかんない……、よ?」
ちんぷんかんぷんな顔している翔に、シナツヒコは優しくポンポンと両肩をたたいた。
「ふふふ~。
いつかカケルくんにもわかるよ~」
「う?う?
う、うん…」
「単刀直入に言う」
ツクヨミが長い沈黙を破った。
ピクリとヒルコの身体が反応する。
「ヒルコ。
お前は国土の神として生まれてはいない」
『…………』
「いや、違うか。
国土の神として生まれるはずだった…が、正確なのだろう?」
『…………』
「国土の神として生まれるはずが、実際はそうではなかった。
そうだろう?」
『………何故…、そう思うか』
「お前が思念を取り戻した時、姉様の…。
アマテラスの力が奪われた」
『………つまり?』
「…お前は太陽の神として、イザナギイザナミから生まれたのだ」
『…………』
「そこに不具合が起きた。
イザナギとイザナミは国土を生もうとした。
しかし太陽の神が生まれてしまった。
だからヒルコはグニャリグニャリとした身体になったのだ」
『…………何故…
そう思うか…』
「お前の身体が月に繋がっているからだ。
不本意極まりないが、それが太陽の神の証だ」
ツクヨミは天に両手を翳した。
右手に白い光、左手に黒い光が輝いた。
白い光は弱々しく、今にも消えそうだ。
逆に黒い光は忌々しいほどの強さが漲っていた。
「月は太陽の光を受けてその身を照らす。
日の光のもとに隠された闇が、夜になると姿を見せるのはそのためだ。
夜の世界は魑魅魍魎が目を覚ます。
月の光はそれらの瞳を辛うじて眩ませる」
黒い光は更に激しく力を増していく。
「ずっと…、ずっと人間の暗闇を見てきた。
この世の悪を見てきた。
何故、何故、ずっとそうなのか…。
永遠にこの惨劇は終わらないのか…。
一向に綺麗にならない世界が続くのか……。
もはや絶望に近い」
『…………。
夜を統べる月の神、ツクヨミ。
そなたが生まれてから見てきたこの世は、地獄にも似た世界だったのか』
「人間は人間を騙し、貶める。
人間は人間を憎み、殺し合う。
裏切り、虚偽、暴力、虐待…。
上に立つ人間達は、同じ国土の人間さえもいとも簡単に見捨てていく。
………僕には理解出来ない」
『………で?
だからなんだ?
それがわらわが太陽の神だという証になるのか?』
「なるだろう。
ヒルコが太陽の神として存在している限り、この世界から魑魅魍魎が消える事はないのだから」
『………なんだと?』
「太陽の神はアマテラスオオミカミだ。
ヒルコではない」
『……そういう事か。
しかしながら的外れだ、月の神。
わらわは太陽などには固執してはいない。
そんなものはどうでもよいのだ』
「…………」
『太陽の神も国土の神も関係ない。
わらわが求めるものはただ一つ。
高天原と葦原の中つ国の滅亡だ。
そのために人間なんぞの魂に宿ってまで待っていたのだ。
人間どもの怨念や憎悪をかき集めていたのだ』
「…………。
……本当にそれだけか?
高天原と葦原の中つ国を滅ぼすだけがお前の目的なのか?」
『…………特別に教えてやろう』
ヒルコはニンマリと笑った。
身の毛がよだつほど、ゾッとする不気味な冷笑だった。
『わらわの望むもの。
それはこの世界の立て替えと…、
立て直しだ』
「…………!!」
ツクヨミが一瞬、唇を噛んだ。
シナツヒコとホノイカヅチとカグツチは目を見開いてヒルコを見上げている。
「立て替え…、
立て直し………?」
翔はギュッと両手を握り締めた。