第百五十九話 はじまり
影法師ナニカの見た目は墨汁のように真っ黒い、ただの影。
移動する際は煙のように動く。
そして、時として姿形を変幻自在に操る。
影法師ナニカ自体が思念の塊のため、遠く離れた場所に自身の思念を送る事も出来るのだ。
今、影法師ナニカは【負の感情の集合体】をジィと見つめている。
翔は隣で息を潜めているホノイカヅチの袖を引っ張りながら、消え入りそうな声で話しかけた。
「何してるのかな…?
もしかして…、罠だって気づいちゃった……のかな?」
「………どうだろうな。
まだ何とも言えないけど……。
だが、警戒はしているかもな…」
「ねぇ、ホノくん。
影法師ナニカの思念体の……。
目とか鼻とかがいっぱいある〈ナニカ〉はさ……。
きっと今でも全国各地にいるんだよね…?」
「まあ…、おそらくな。
〈ナニカ〉は常にその場所にいる人間の負の感情を吸い上げてるはずだ。
場所によって、〈ナニカ〉の大きさはそれぞれなんだろうけど」
「影法師ナニカを浄化したら、色々な場所にいる〈ナニカ〉も浄化されるよね?
一緒に浄化されるんだよね?」
「……多分。
そうだと思う。
影法師ナニカは思念体の核。
核が浄化されたら、他の〈ナニカ〉も同様のはずだ」
「うん…。そうだよね」
やはり影法師ナニカの浄化を急がねばならない。
【負の感情の集合体】からは、怨念や憎悪、怒りの感情とともに、悲しみや苦しみ、嘆きといった感情も伝わってくる。
怒りと悲しみは紙一重。
どちらの感情も、長年持ち続けていれば心身が悪霊に取り憑かれてしまうだろう。
「……は…っ」
翔は息を呑んだ。
ずっと動かなかった影法師ナニカが蠢いている。
ユラユラと揺れながら【負の感情の集合体】に近付く。
その距離わずか一ミリ。
次の瞬間。
影法師ナニカの姿が人間の形に変わった。
そしてそのまま、都市伝説で有名な口裂け女のように、耳元まで裂けた口をガパァッと開いた。
「ひぇっ……」
なかなかシュールな絵面に、思わず尻込みしてしまう。
大きく開いた口の中から、業務用掃除機と言わんばかりの吸引音が聞こえてきた。
ゴォォォォォォォォ!!!!!
「うわっ………!」
影法師ナニカの口の中に、膨大な量の【負の感情の集合体】が吸い込まれていく。
ゴォォォォォォォォ!!!!!
「………今がチャンスだ」
ホノイカヅチは呟き、翔に視線を向けた。
「今から俺とシナで影法師ナニカの浄化をする。
そのあとすぐに言霊と産霊の力が必要になる。
頼むぞ、カケル」
「うっ、うん!わかってる。
ホノくん達も気を付けて…!」
「大丈夫だ。
……じゃ、行ってくる」
噴水を飛び越えて、影法師ナニカの背後にゆっくりと忍び寄る。
まずは影法師ナニカの力を削がねばならない。
思念の核という存在の影法師ナニカ自体には、最初から大きな力などなかった。
そもそも{思念}だったから。
それが強大になったのは、途轍もなく長い間、人間の負の感情を集め続けてきたからだ。
人間の想念は何よりも強い。
しかも、ポジティブよりもネガティブの方が遥かに強い。
ドロドロとした暗闇を彷徨う感情や、ナイフのように鋭くて攻撃的な感情…。
様々な負の感情は、鎧になり、凶器になり、すべてを分断する力になっていった。
「ホノ」
シナツヒコはフワリと隣に降り立った。
無我夢中で【負の感情の集合体】を吸い込む影法師ナニカの背を見て、コクリと頷いた。
作戦開始の合図だ。
「了解」
ホノイカヅチは両手に力をこめながら構える。
シナツヒコとホノイカヅチの気配にまるで気付いていない影法師ナニカ。
一心不乱で吸い込み続けている。
「いくぞ!!」
ホノイカヅチは雷を両手から出して、百万ボルト級の電圧を影法師ナニカの背中に流し込んだ。
ビリビリビリビリビリビリビリビリ!!!!!
影法師ナニカの身体中に強烈な電流が走る。
「ギャああああああああああ!!!!」
影法師ナニカの叫ぶ声がパラレルワールドに轟いた。
「まだまだぁ!」
間髪いれず、シナツヒコが烈風を繰り出した。
ビュオオオオオオオオオオオオオ!!!!!
鉄をも切り裂く風が、電流で痺れて弱っている影法師ナニカの身体に命中する。
ザッ!ザッ!ザッ!ザッ!ザッ!
かまいたちのように、影法師ナニカの身体は瞬く間に切り裂かれた。
「すっ、凄いっ…」
目にも止まらぬ速さとはこの事だ。
呆気にとられてボーッとしていたが、翔は慌てて我に返る。
シナツヒコとホノイカヅチが影法師ナニカを浄化をしたら、すぐに翔の出番だ。
「ぼ、ぼくも準備をしなきゃ……」
焦りながらも、何気なく空を見上げた。
「あっ…。あれは……?」
真っ黒な丸い石が浮かんでいる。
切り裂かれた影法師ナニカの中から、真っ黒な丸い石が現れた。
見るやいなや、一目でわかる禍々しさ。
おどろおどろしい波動がみなぎっていた。
「あれが核………」
シナツヒコは両手を天に翳した。
手のひらの中には、金色の風の渦が光輝いている。
空に浮かぶ、真っ黒に汚れてしまった核を浄化しなければならない。
「ワカイカヅチ……」
ホノイカヅチが左胸に手を当てると、パチパチと静かに放電した。
禍々しい真っ黒な核に向け、光の風と清々しい雷光を解き放ち、浄化を遂行する---。
「あ……。そういえば…」
翔は不安げに空を見上げていたが、ふとある事に気がついた。
「ヒルちゃんは……?
どこにいるんだろう…?」
「光風!!」
「ワカイカヅチ!!」
シナツヒコとホノイカヅチの声が響いた瞬間。
目を開けていられないほどの白い光と、優しく駆け抜ける風と雷光が真っ黒な核に向かって放たれた。
「うわっ!」
翔の視界も真っ白になる。
一時の後。
翔は目を開けた。
いつの間にか…。
シナツヒコとホノイカヅチが目の前に立っている。
「えっ…!?
シナくん、ホノくん……?」
浄化は終わったのだろうか。
ならば次は翔の番だ。
言霊と産霊の力で、負の感情の核を輪廻へと帰さなければならない。
「シナくん、ホノくん。
浄化お疲れ様!
今度はぼくが頑張るね!」
返事がない。
シナツヒコとホノイカヅチはピクリともせず、翔の目の前を塞いでいた。
「…??
シナくん?ホノくん?
ぼく…、早く言霊と産霊の力を……」
ポンポンと軽く背中を叩いても、まったくもって微動だにしない。
「…???
シナくん?ホノくん?
ど、どうしたの??
早くしないと………」
身長百九十センチ超えのシナツヒコとホノイカヅチが目の前に立ち塞がれていては、翔がどんなに力一杯に押しても押しても押しても、ピクリともせず動かぬままだ。
「ちょ、ちょっと…、シ…、シナくん??ホノくん??
ど、どうしたの?
…………って………。
………え………?」
シナツヒコとホノイカヅチの顔を覗き込んだ翔は、思わずビックリしてしまう。
真っ青になった顔。
目は大きく見開いて、口元はわずかに震えていたのだ。
「シ……ナくん…?ホノ…………くん?」
「ヒ…………、ヒルちゃ……………」
シナツヒコが震える唇から、声を吐き出すように呟いた。
「え………?」
シナツヒコとホノイカヅチの視線の先を追った。
そこには---。
恐ろしく冷たい瞳をしたヒルコが浮かんでいた。
瞬間でわかった。
あそこにいるのはいつものヒルコではない、と。
ヒルコのスライムのようなプヨプヨした身体の色は赤色と黄色と黒色が混ざった褐色に変わっていて、瞳の中は奇奇怪怪な忌まわしい渦がとぐろを巻いている。
ポヨンポヨンとした、柔らかい優しさと明るさを持ったヒルコではなかった。
「ぼくとホノが……、浄化の風と雷光を放った時……。
そ、その瞬間……。
核が……、ヒルちゃんに変わったんだ……」
「え!?
そ…、それって………!?」
すでにヒルコは影法師ナニカに乗っ取られていたという事だろうか?
切り裂かれた影法師ナニカの残骸が空に浮かぶ中で、鬼のような形相のヒルコは不敵に笑った。